雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下Ep

10-5.The Fool:愚者

  子供の頃に見た、忘れられない絵がある。

 『燃え落ちる蝶』

 亀倉雄策という日本人デザイナーの手がけた、反戦ポスター『ヒロシマ・アピールズ』のうちの一つだ。美術の資料集にも載っているほど有名である。

 ぬるい宵闇の中を、無数の蝶が炎の尾を引きながら墜落する。

 まるで爆撃を受けた、特攻隊の戦闘機のように。そこに音はない。ただ死のイメージをまといながら静かに落ちていく蝶は、どこか幻想的で妖しく、それでいてどうしようもなく美しいのだ。

 二人の燃える様子はそれを思い起こさせた。

 黒装束の裾を焦がされながら、椅子の上の義父はただ呆然と宙を仰いでいた。

 炎は、圧倒的な光だった。その光の中で、麻耶はもはや動いていなかった。発火元となった彼女は火達磨になり、勢いよく燃えていた。中では立ったまま絶命していると思われた。

 時折火花が爆ぜる音。宙を舐める黄色い透明な炎は、全てを包み込むような優しい音を立てて燃えていて、僕はそれに場違いな安らぎさえ覚えた。

 美しいからいけないのだ。

 おぞましく、そして心のどこかで、どうしようもなく美しいと思う自分がいた。

 ……いや、こんなものはご免だ。僕は画家ではない。

「――手を叩いて喜んでいるかと思いましたよ」

「人の家が燃えて、さすがに笑ってられないよ」

 僕と雫綺は、病院の待合室のソファーにいた。

「狭い」

 普通に座ればいいのに、行儀悪くソファーに寝そべるものだから、彼の膝が肩に当たる。

「はっ、悪かったな。脚が長くて」

「…………」

 ――今の僕は最高に不機嫌さを露わにしていただろう。足長いって色々むかつくな。

 あのときのことだ。

 『助けてくれ』

 雫綺からそう電話がかかってきた。

 妹の露綺を人質に取られ、脅迫されているのだと。麻耶は、母と義父を巻き込んで自殺する計画を立てていた。雫綺は、警察に通報して被害者を出さずに丸く収めるべきだと言った。だが僕は言わなかった。麻耶と闘って返り討ちにするつもりだった。通報すれば露綺を殺すとさえ脅した。

 あの後、麻耶と瀧上牧師は救急車で搬送され、義父は生き残った。

 運悪く。

 雫綺が麻耶を欺いて、ポリタンクの中の灯油を一部水に変えていたからだ。

 麻耶は助からなかった。つまり死んだ。

 あのとき、僕は麻耶に対して腹が立った。

 ちょっといい顔見せられたくらいで心変わりするなよな。

 雫綺がぽつりと呟いた。

「死ねたほうがよかったかもね」

 それこそ運命の悪戯に思える。彼にとっても母に合わせる顔がないだろう。

 彼は顔に火傷を負い、数日間眠ったままでいた。

 命は無事だったが、心のほうはもう手遅れだ。一度死を希求した心は。彼岸を見ているのだ。

「死のうとするかもしれない」

 目覚めた彼は錯乱しているだろう。

 案の定、目覚めた瞬間、自分が死んでいないことに絶望して、包帯をした上から躊躇いなく爪を立てて、顔面をかきやぶろうとしたそうだ。手術直後の薄い皮膚を。

 死んだ娘の名前を呼びながら。数人がかりで押さえつけられた。

 さすが職業牧師というべきだろうか、今は落ち着きを取り戻しているようだ。打って変わって悟ったように大人しくしている。それがかえって不気味だ。

 そこで互いの食い違いに気付く。雫綺は驚いたようにソファーの上で身体を捻った。

「お父様、いつICUから移ってたの」

 どうも彼は、義父が意識を取り戻したことを知らなかったようだ。僕はこれから、彼の見舞いに行くところなのだ。

「俺も見舞いに行ってもいい?」

 そういうわけで、雫綺を連れて瀧上牧師の見舞いに行くことになった。

 かねてから渡したいものがある、と雫綺が一旦帰ったので、まずは僕一人で病室を訪ねることにする。

 扉を開ける。

 一際清潔そうな消毒液のにおいが鼻をつく。

 義父はベッドに横になって目を閉じていた。火傷を負った身体はミイラ男よろしく包帯で覆い隠され、一見生きているのか死んでいるのか判別できない。

 火傷で顔と上半身の皮膚のほとんどを失った彼は、あらゆる感染症と気温の変化に弱くなり、体力を消耗するのか、それとも自然治癒力のなせる本能的なものか、はたまた単に鎮静剤で眠らされているのか――案外三番目だったりするかもしれない――いつもより長く眠るようになった。

 ――僕は小さい頃、夜眠るのが怖かった。

 眠りに落ちる瞬間が、意識を手放すのが怖かった。少しでも意識が遠のくと、このまま目を覚まさないんじゃないかと思って、努めて意識を取り戻そうとするのだ。

 自分の他にも他人が寝ていると、生きているかを確認しなければ不安だ。

 しんとした静寂に耳を澄ますと、柔らかな寝息を立てているのが聞こえる。呼吸のたびに胸郭が上下に動き、彼の焦げた肺に酸素を含んだ大気を送り込んでいる。

 ふと彼の顔に目を移すと、いつの間に覚醒していたのか、僕の挙動をじっと見つめている翠眼のミイラと目が合って、さすがにぎょっとした。

 半分表情が欠け落ちているように見えるのは、寝起きで頭がぼんやりとしているからだろう。

「……起きてるなら言ってくださいよ」

 だが彼の脳は再起動を放棄したようだった。――つまり、二度寝を決め込もうとした。無言ののち、外界を遮断するように布団を額の辺りまで引き上げる。

 ……元牧師のくせに二度寝の快楽に溺れるとは。

 二度寝の気持ち良さは僕も知っていたが、嫌がらせで邪魔をしてやることにした。

 気持ち強めに肩を揺すり起こす。

「……本当は起きてるんでしょう」

「寝てます。すやすや寝ています」

「嘘をつけ」

 真顔で嘘をつく彼は、完全に目が覚めてしまったのか、ゆっくりと意識が覚醒し、瞳に穏やかな光が宿る。唇に微笑みを載せて、言った。

「由一さん、生きてますよ」

 

 雫綺を待ちながら。

 本当に彼は来るのだろうかと思いつつも、病室で待つことにする。

 僕はふとミントグリーンの小さな缶を開けて、その中の白い半透明な結晶を一つ口に入れた。

「僕にも一つくれませんか?」

 義父が欲しがるそぶりを見せたので、僕は彼にも分けてやった。彼はそれをしばらく口の中で転がしたあと、魂までをも吐き出してしまうのではないかという、長すぎるため息をつく。

「はあぁーーーー……」

 阿片を吸うより他にやることのない阿片窟の廃人みたいに、彼は陶酔して目を細めた。

 ……なんてことのない、ただの薄荷の飴だ。

 ここまで本当に長かった。

 立て続けに起きた瑛良と麻耶の死、そしてあの火災は、彼が心の部屋の中にしまい込んでいた何か大切なものを、根こそぎ焼き尽くしてしまった。

 もう信者の話に平然と耳を傾けていることはできないだろうというほどには、彼の身体も心もずたずたになった。

 つまりもう何も考えたくないのだ。

 ……というのも、彼は早速生き地獄を味わったようで、一日一回の包帯交換のたびに癒着した皮膚を剥がされる痛みに耐えて、鎮痛のためとはいえ麻薬を打たれるという散々な目に遭って、もうこの世の中にうんざりしているのだ。

 拷問のようだ、と彼は呻いた。

 僕は暇つぶしに、ベッドの上でほとんど身動きのとれない義父を、言葉でいじめることにした。

「神様は乗り越えられない試練を与えないんだそうですよ」

「……前々から思ってましたけど、由一さんってほんっとに、性格悪いですよね」

 誰に似たんでしょう、と嘆かわしそうに眉をひそめた。引いている。何故か分かる。

 人間、顔面と眉を失っても表情が判るものなのだな、ととりとめもないことを思った。

 ここで冗談でも日生央真の名を口に出そうものなら、義父が怒ってしばらく口を利いてくれそうにないということは分かりきっていたので、代わりにこう言う。

「あなたこそ、本性を隠さなくなりましたね」

 以前なら腹の底で思っていただろうけれども、聖職者のプライドにかけて言わなかった、他人を攻撃するための言葉を、少しだけ手にするようになったのだ。

 つまり、以前と比べて彼は、かなり素直になったということだ。だから今、僕は久しぶりにとても気分がいい。

 彼はむくれたように寝返りを打って、

「――言われなくても分かってますよ、そんなこと」

 ……おや、

 これでまだ神様を信じているというのだから、大したものだ。

 僕らはあの一件以来、何故か以前より仲良くなってしまった。気持ちの悪いことに。

 僕が子供の頃、とかく日生央真は珍妙なものを好んでいた。

 コーヒーに限らず、玉露、ふきのとうの天ぷらや甘酢漬けの冥加。そして僕らがフルーツドロップの缶に残した、白い薄荷の飴だった。

 それもあって、僕は気が向くと薄荷の飴を買ってきて食べるのが好きだ。

 鼻に抜ける清涼感は結構楽しい。

 日生央真は自殺した。

 死因は首を吊ったことによる頸部骨折。遺書はないものの、完全な自殺であると警察から発表された。

 窓もドアも目張りされて、電話線が切られていた。まるで重い鬱病患者の部屋だった。彼は、そこで首を吊っていた。

 彼の遺体の前には一枚の絵があった。死ぬ直前まで描いていたのだろう。何千何万という、蝶の死骸の絵だ。果てしなく青い。標本のように虫ピンで留められた青い蝶。

 …………

「――え、何これ。すごい清涼感のある香りしない?」

 とか言いながら、戻ってきた雫綺が病室に入ってきた。

お久しぶりです、瀧上先生。瑞山雫綺です。教育実習でお世話になった」

「おや、これはどうも」

 思わぬ来訪者に、思わずベッドの上で居住まいを正す。

「瑞山くん、知らせてくれてどうもありがとうございました。最期の瞬間を、後悔せずに済んだ」

「いえいえ、とんでもない」

 僕は目を見開く。雫綺は独断で義父に連絡していたらしい。だからあんなに早く帰ってきたのか。

 対する雫綺は地を這うような声だった。

「本当にすみませんでした。俺のせいで家が燃えたようなものじゃないですか」

「いいんです。そうしないと妹さんが助からなかったのでしょう? うちの娘がご迷惑をおかけしました。それに、妻を救出してくれてありがとうございました」

 見舞いの品だと言って、雫綺は細長い箱を差し出した。

「お見舞いのマナーとかよく分からないから、病室にこんなものを持ってくるのは失礼かもしれないんですけど。これが一番喜んでくれると思って」

 義父はラッピングされた箱を開けるのに随分難儀したあと、箱を開いて目を落とした。

「…………」

「それで由一くんに美味しいもの食べさせてあげてください」

 一体中身は何なのか。丁度雫綺の身体で死角になって僕には見えない。

「……ありがとうございます。こんなにいいものを。切れ味が良さそうだ」

 義父は箱の中身に、包帯を巻いた指を滑らせた。

「美しいな」

 包帯の隙間から覗く色素の薄い瞳が、珍しく恍惚の色を帯びていた。愛おしそうにその表面を撫でながら、

「僕にはもったいないな。本当にいただいてもいいんですか? ――由一さん。財布から五円を彼に」

「財布取ってあげますから自分で出してください」

 いいように使われるかと思えばそんなわけがない。

 鞄から彼の財布を取って、投げてよこすが、キャッチに失敗した挙句、見失ってきょろきょろと辺りを見回している。

「どこに」

「そこにあるじゃないですか」財布は白いシーツの上に落ちている。

「知っていましたか。僕、実は目が悪いんですよ。コンタクトなんです」

「嘘だ」

 財布を拾って手の平に載せてやると、彼は硬貨を探して眉間に皺を寄せ、睨みつけさえしたが、うまく摘めない上にそれは十円玉だ。なるほど、ひどい近眼だ。

 ともあれ苛々してきたので、言われた通り彼の財布から出した五円玉を雫綺に渡すと、彼はその五円硬貨ごときを恭しく胸の前で押し戴く。

「ごえんをありがとう」

「なあ、一体何なんだ」

「由一さんとはお友達ですか?」

 雫綺は悪戯な笑みを浮かべながら僕の肩を抱き、「共犯者ですよ」

 共犯者になった覚えはない。瀧上牧師は、深く考えていないような感じで微笑ましそうに笑い声を立てたあと、打って変わって慈しむような声でこう言った。

「――実はね、僕、瑞山くんのことを怖い人だと思っていました。初めて会ったとき、おそろしいくらい目が輝いておられたから。でも、思い違いでしたね。

 君にはぜひ、由一さんの生涯の友人になっていただけたらと思います」

 多分、僕は長生きできないでしょうから、とぼやいた。

「僕の息子をよろしくお願いします。……かわいそうな子です」

「いやいや。むしろお世話になってるのはこっちっていうか。ねえ、由一くん」

「そうだな」

 こればかりは否定できない。いい歳して節操がない。本当にどっちが年上なのだか……。

「改めて紹介します。こちらは菜々子さん。僕のお嫁さんです」

 二人は一度会っているみたいですが、と。

 部屋の隅に母がいた。ベッドの傍らの椅子に座っている。

 今日はよそ行きらしい。肩に綺麗な瑠璃色のショールを羽織って、チノパンに女物の白いカッターシャツ。黙っていると美しい人形のようで、存在感が薄く、僕も言われるまで気が付かなかった。

「わ、彫刻かと思った」

 雫綺も今更気付いたというふうに、大げさに身体をのけぞらせた。

 義父は目を細めて、宝物を見るような目で彼女を愛おしそうに見つめていた。

 ――彼が散々な目に遭っても、なお現世に留まるただ一つの理由。

 それは、彼女が生きているということだった。

 彼にとっては薄荷の飴やモルヒネよりも、嫁の横顔を眺めることのほうが心慰められるようで、すっかり表情が緩みきっている。

 一方の彼女は相変わらず、昏い目で混迷しているが。

 交わらない視線。

「――どうしました?」

 雫綺が二人を見つめているのに気付いて、義父が話しかける。

「いや、フランソワ・ジェラールのあの絵みたいだなあと思って。

 ――ところで、こんな噂を聞いたんですけど。『瀧上』って珍しい名字じゃないですか。実の親子なんじゃないかって。本当だったんだなあ」

 目を動かして、僕と義父とを見比べる。

「由一くんとお父様って似てますよね」

 僕は耳を疑って、思わず彼を見上げた。何をいけしゃあしゃあと。最初疑っていたのはどこのどいつだ。

 瀧上牧師は平然と続ける。

「まあ、親子ですからね」

「そうですね。変なこと言ってすみません」

 

 そして彼は再びしばしの長い眠りにつき、僕らは病室を出る。

 夏は深まり、蝉の鳴き声が日ごとに増す八月前半。

 蝉が、林全体が、一個の楽器のように断末魔の叫び声をかき鳴らしている。

「ねえ、大丈夫かな。いきなり死んじゃったりしないかな」

 病院の駐車場を横切りながら、彼はそう言った。それが心配らしい。

 真夏の太陽光で熱せられたアスファルトからは熱気が立ち上り、歩くだけで汗が流れ落ちてくる。

「大丈夫ですよ。あの手、見ましたか? あんな手じゃ一人で首も吊れない」

 包帯を巻かれ、ミトンのようになった手。その下では皮膚が融けて、指が癒着してしまっている。リハビリには何ヶ月、いや、何年かかるだろうか、と思った。

「火傷の治療は長くかかる。君は家族として決めなきゃいけないよ。彼を殺してあげるかどうか」

「――それを僕に訊くんですか?」

 訊くまでもなく、分かっているくせに。

 絶対に死なせてやるものか。罪を償わせる。

 生き残ったのを後悔するくらいに、つらい目に遭わせてやる。彼も今のところ、自分の罪を償う気でいるらしかった。生きていくのだという。皮膚が焼け落ち、怪物のような見た目になっても。

 ところで、

 何故瀧上牧師が母の車椅子に収まっていたのか。本人にも訊いてみたが、前後の記憶が抜け落ち、覚えていないという。

 ――階段を降りてきた瀧上牧師は、煙の向こうに人影を見る。

 はて、どうして〝彼〟がここにいるのでしょう。首を傾げていると、闖入者は突然彼の横面を掴み、何度も壁に叩きつける。脳を揺さぶられて、彼が気を失ったのを確認すると、無人の車椅子に彼を押し込み、上半身に灯油を浴びせて、生きたまま火を放つ。

 …………

「あんなことをしておきながら、よく彼に顔向けできますね」

「あんなことって、何のこと?」

「いつまで騙し通せるでしょうね。彼も馬鹿ではありませんよ」

「言っておくけど、俺は、ちゃーんと止めたよ。今行くと焼け死ぬぞって。でも彼に振り払われたんだ。すごい力だった。信じてよ――。

 炎の中に飛び込むのだから、そりゃあ、彼だって死ぬリスクは覚悟の上だったと思うけど」

「彼に恨みでもあったんですかね」

「俺はやっていないけれど、それを聞いてどうするの。〝彼〟を罰するのかい?」

「どうもしませんよ。起こってしまったことはどうしようもないですからね。

 それに、『復讐するな』が彼の口癖ですから」

「良い教育方針だね」

「まあ、殺し損なって残念でしたね。〝彼〟にはあえてこう言っておきましょう。――ざまあみろ、と」

 あの人、なかなか死なないからな。

「……俺、君のそういうところ、嫌いじゃないな」

 雫綺は苦笑する。

「愚者は決まって白い犬を連れているものだからね。最も狂気に近しいのに、理性の壁が厚すぎて、君だけが狂うことができないんだ」

「誰が愚者だって?」

「こういうのを、ああいうんだよね」

「?」

「『ミイラ取りがミイラになる』って」

 彼的には笑うところだったのだろう。

 僕は引きつった笑いを浮かべた。性質の悪いブラックジョークじゃないか。

「知ってた? 精神病って伝染るんだよ。そこに病んだ魂が一つあれば、周りに感染するんだ。人間は愛の深い生き物だからね」

「僕にはうつりませんよ」

「君には愛がないと? 美玲ちゃんに惚れてたように見えたんだけどな」

「演技ですよ」

 瑛良も美玲も、姉さんも父さんも、それによって狂った。

 そんなものが愛なら、僕はそれを支持しない。

 雫綺は振り返って、カッターシャツ越しに僕の左胸を、心臓の上を指で叩く。

「君の心は鉛の矢に射抜かれたのかい? 俺が抜いてあげようか」

「結構だ」

 気色が悪い。

「ところで結局、ハムレットは誰の子供だったのだろう」

「先王・ハムレットの子なんじゃないですか?」

「本当にそうなのかな」

 雫綺はひとりごちた。

「そういえば、こういう説があるのを知っているかい? ハムレットは実はクローディアスの息子で、クローディアスとガートルードは恋仲だった。ガートルードは三十年越しに真実の愛を取り戻すんだ。そうなると、あの悲劇がますます悲劇的に見えてこないか?」

「……は?」

 それから僕らはしばらく歩いた。

 アスファルトからの照り返しは、思わず僕に太陽を仰がせる。真夏のアスファルトの上は、まるで炎の中にいるようだった。

 隣の雫綺を見ると、黙って汗を流しながら歩いている。

「由一くん。どうか君は死ぬなよ。少なくとも、二人の大人が守ってくれた命なんだから」

 

「君に見せたいものがあるんだ」

 そういう雫綺に連れられて、僕らは二人して郊外へ向かう電車に揺られていた。

「見ろよ、どろどろの内臓が服を着て座ってる」

 などと乗客を見回しながら失礼極まりないことをほざくので、僕はこいつの仲間だと思われるのが恥ずかしくて仕方がなかった。

 僕が相手をしないと分かると、暇を持て余したのか、雫綺は電車の中で熱唱し始めた。

 

 Say, its only a paper moon

 Sailing over a cardboard sea

 But it wouldn’t be make-believe

 If you believed in me

 

 そうさ、それはただの紙の月

 ボール紙の海を往く

 けれどそうは思えないな

 あなたが信じてくれるなら

 

「――おいお前、大声を出して、人の迷惑になるとは思わないのか?」

 僕は我慢ならなくなって言った。

「常識をわきまえろ」

「常識を疑うのが芸術家の仕事だよ」

 彼は歌うように言う。

「目には見えない限り、他人の感じている感情は幻想だ」

 被害妄想。

 実際には悪口を言われていないのに、他人の言葉をネガティブに捉える。いわば、自分が周りの感情を作り出している。

「他人の感じ方まではさすがに操作できないよ」

 彼は目を閉じて、妙に自信満々に言った。

「日生由一くん」

 僕は微笑みさえ浮かべて言った。

「何を言っているんですか。僕は瀧上由一だ」

「牧師を継ぐの?」

「まさか。そもそも牧師は世襲制じゃありませんよ」

 牧師になる気など更々なかった。

 日生央真の遺作は、彼と契約している画廊の所有物になった。だが、おそらくすぐに店頭から消えるだろう。もちろんうちが買うことはできない。

「本来は彼女に与えられるべきものだ。彼女の所有物だ。彼女にはその権利がある」

 彼女とは、僕の母親のことだった。

「取り返したいとは思わないか? 画商になろうよ。

 この前の話だけど、就職先決まってないなら、その豊富で無駄な絵の知識を生かしてさ、画廊で働かない? うちの店主も君のこと気に入ってるし。俺についてよ。自分で言うのもなんだけど、俺の絵は儲かるよ」

 この前の話、とは雫綺が度々口にしていた申し出のことだった。僕を専属の画商として引き抜きたいのだという。そのたびに僕は言葉を濁してきたが、彼は諦めないらしい。

「要求は何ですか」

「君が欲しい。――俺はね、歴史に名を遺したいんだ。せっかく生まれてきたのに、このまま忘れられてしまうなんて寂しいでしょう? 俺が描いて、君が売る。世界一の画家になろう」

 僕はその答えに満足して、鼻を鳴らした。

「前向きに、考えておきます」

 とはいえ、僕はすぐに働くことになるだろう。

 分かったのは、案外僕の家の経済状況がひどかったということだ。燃えた家と、二ヶ月近く入院しこれからもかさむであろう治療費。これから借金を返さなくてはならない。

 それこそ、死んでいたほうがましと思えるほどの。

 あの外見だ。瀧上牧師は牧師を続けていくことができないだろう。何を言おうと、彼には養われている身だったのだ。我侭は言っていられない。高校はとっくの昔に辞めている。今は、ハローワークに通って仕事を探しているところだった。

「君がその気になってくれて、嬉しいよ」

 瀧上牧師は、相変わらず自分が父親だと認めなかったし、日生央真がそうだとも言わなかった。

 ――海の傍を走っているようだ。

 開け放たれた窓の外には、広大な絨毯のような海が一面に広がっていた。ここまで潮の香りが届いてくる。僕は波音と、時々遠くから聞こえる霞んだ汽笛に耳を澄ましていた。

 規則正しく揺られているうちに、眠気を覚えてきた。

「つらいのは、君が自由だからだ。君が自分の足で歩いていくと決めたから。考えることをやめたならば、それは人の死だ。

 君は、君の人生の主人公なんだから、好きに生きればいいと思うよ」

 雫綺が隣で何か言っている。

「――聴いてるかい? 眠くなっちゃった?

 おやすみなさい、由一くん。俺は乗り過ごさないように、起きてるからさ」

 

Paper moon / THE END.