雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下6-4

10-4.A Screaming Pope:叫ぶ教皇

  姉の遺体を焼く炎が勢いを減じた頃、瑞山雫綺が現れた。僕を助けに来たのだった。

「遅い」

「――お父様は?」

「先に行った」

「薄情な父親だ。子供を置いて自分だけ逃げるなんて」

「責めるな」

 多分、それがあの状況でのベストな答えだったのだと思う。彼は消防士ではない。いたところでできることなんてないし、あれ以上麻耶を刺激して逆上させられても困った。

「立てるかい? 身体が震えてるじゃないか」

 雫綺が手を貸して立たせながら、僕は訊ねる。

「母さんは無事か?」

「ああ。お母様は無事だよ」

 母親の救助を彼に依頼していた。だからこそ、僕はあんな醜態を演じたのだ。

「由一くん」

 彼は急に神妙な口調で言った。

「俺の言うことをよく聴いて。――これから家を出るまで、決して振り向いてはいけないよ。前だけを向いて歩くんだ」

 どうしたのだろう。

 子供部屋を出て、彼に手を取られながら階段を降りる。一階の状況は二階よりもひどく、火の海になっていた。

 リビングの扉が不自然に開いている。

 僕はふと出来心から、雫綺の目を盗んで後ろを振り返った。

 ――僕は見てしまった。

 リビングの中心で、母が座っていたはずの車椅子に押し込められて、燃えている瀧上牧師を。

 その長躯を窮屈そうに押し込められて、腕は肘掛けの上でだらりと脱力している。上半身を中心に油を浴びて、激しい炎に包まれており、顔は見えない。オレンジ色の炎は、天井を舐めるように高く高く燃え盛っていた。

 辺りに漂う、蛋白質が、皮膚と髪の毛と脂肪が焼ける甘いにおい。

 だが、目の前で燃えているのは僕の育ての親だった。

 動揺して、心臓がてんでばらばらに収縮する。

 先に脱出したはずではなかったのか。

 それはまるで、フランシス・ベーコンの叫ぶ教皇のようだった。

 フランシス・ベーコンは、イギリスの二十世紀の現代芸術家だ。その絵のタイトルを、『ベラスケスの「インノケンティウスX世像」による習作』という。

 題名の通り、この作品はバロックの画家、ベラスケスの『インノケンティウスX世像』という作品を構想の下敷きにしている。

 教皇とは、カトリックの総本山・ヴァチカンの頂点に立つ最高位聖職者であり、世界で最も神に近い存在にある人間のことだ。

 普通、教皇肖像画というものは、神に仕える身に相応しく神聖に描かれる。

 だが見よ、この肥えて出世欲にまみれた教皇の姿を。

 ベラスケスという天才は、おそらく美術史上三本の指に入る卓越した画力の持ち主は、その筆の精巧なあまり、教皇の外見だけでなく、内面の俗的な欲望をもありのままに描き出してしまった。

 フランシス・ベーコン教皇は、権威の象徴である椅子に座って、顎が壊れそうなほど大きな口を開けて絶叫し、融けた黄色と紫色の縦線によってかき混ぜられた異形の頭部が、こちらまで不安な気持ちにさせる。大の、しかも強大な権力を持った大人が、生まれたばかりの何も持たない無力な赤子に返ったかのように叫ぶ姿は、どうしようもなく孤独感と哀れみを誘う。彼は、『叫ぶ』という行為によって、神に近い教皇を凡俗に引きずり堕としたのだ。

 僕は思考停止していた。

「見るな!」

 雫綺の手が僕の目を覆う。

「離せ」

 僕は雫綺に命じる。心は不思議と凪いでいた。燃える義父の姿を目に焼き付けながら、おそろしいくらい穏やかな気持ちで僕は呟く。

「あんたも、燃えるんだな……」