雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下6-3

10-3.Paper Moon:紙の月

  何もかも奪われたわたしには、もう死ぬしか道はない。

 家の前で車を停めさせた。

 玄関の姿見には、わたしの弟に似た少年が映っている。

 化粧だ。写実的な絵の描き方は、もう随分前に習得済みだ。わたしは肖像画を描くのと同じように、自分の顔に油絵の具で由一の顔を描いた。そんなことくらい朝飯前だ。わたしはあの天才、日生央真の娘なのだから。

 一年ぶりの懐かしの我が家では、母が一人ぽつんとテーブルについていた。

 目が虚ろで、それでもこの世ならぬ美しさの女。

 彼女の見ている前で部屋中にポリタンクの油を撒いた。気化した灯油の、身体に悪そうな刺激臭が立ち込める。

 彼女は何をしているのだと言わんばかりに、しかし黙ってそれを見ていた。

 ……そうだね。少なくとも昨日までは、この家で平和に暮らしていたもんね。

 それからしばらく、彼が帰ってくるのを待った。

 苛々する。心の中の獣のような怒りを抑えられない。本当なら、今すぐにでも火を放ちたい。

 と、ようやく玄関の扉を開ける音がした。堂々とした足音は、真っ直ぐにこのリビングに向かう。勢いよくドアが開け放たれる。

 そこには目を眇め、悪人のように嗤う由一がいた。息を吸って、世にも楽しそうに、

「――死人が生き返ってくるなよな!」

「あらァ、お帰りなさい、由一! ご挨拶ね!」

 わたしは歓喜と狂喜と狂気をもって彼を迎えた。

 改めて、思う。どんなに化粧で顔を真似ても、顔芸だけは真似できないわね。相変わらずピカソの絵みたいな顔。わたし、ピカソは嫌いなのよね。下手だから。

 お父さんはまだ帰ってきていない。一応彼もまっとうな勤め人なので、帰る時間が読めないのだ。でも先に始めよう。それにあの人は家族じゃないし。

 パパを失って、死んでしまいたいと思った。けれどただ消えるだけじゃ気が済まなかった。憎い奴をみんな巻き込んで死んでやろうと思った。

 近付こうとする彼に、手を出して制す。

「動かないで。お母さんがどうなってもいいの?」

「いいよ!」

 予想通りの返答にほくそ笑む。さすがわたしの双子の弟。やっぱり人でなしだわ!

 火のついたジッポライターを床に投げる。

 それは予め撒いておいた灯油に燃え移り、床一面がぱっと明るくなった。炎を避け、由一が一歩後退する。

 でも無駄だ。この家に油を撒いていない部屋などない。

 燃え広がる炎に追いつめられ、階段を上り、二階の子供部屋に辿り着く。部屋にはただ一つの飾り気のない窓が、まだそう暗くなってもいないのに夜空を切り取っていた。病的に美しい月が、そこにずっとある。そこは行き止まりだ。助かるには窓から飛び降りるしかない。だが、それをされては困る。

 由一は窓ガラスを壊そうとした。しかしそれは殴りつけた瞬間、鈍い金属音を返した。こんなこともあろうかと、窓に鋼板を打ち付けておいたのだ。とびきり素敵な夜景の絵を描いて。

 彼はようやくそれが絵だと気付いたようだった。だがそのときには背後に忍び寄っていた。

 スタンガンが炸裂した。由一は力なく倒れた。縄で後ろ手に縛り、床に転がしておく。それから、ポリタンクの中身をまんべんなく浴びせた。

 この世の全てを連れていく。

 たとえお母さんとお父さんは殺し損ねても、由一だけは確実に殺してやる。なんだかむかつくのだ。自分に近いから。同族嫌悪というやつだ。

 あとは火をつけるだけだ。そう思ってライターを手にしたとき、階段を上ってくる足音を聞いた。

 水も油も被らずに乱入してきたのは、お父さんだった。

 扉が開いた瞬間、熱気が伝わってきた。階段を伝い、彼の背後に炎が追ってきていた。

 こんな炎の中にいるのに、まるで彼だけ水の中にいるかのように、普段と変わらない、凪いだ口調をしていた。

「おかえりなさい、麻耶さん」

「ただいま」

 場違いにも挨拶を交わし合う。

 お父さんはまず由一の傍にかがみ込んで、彼の縄を解き始める。

「何してるの。由一じゃなくてお母さんを助けに行ったら?」

 皮肉を言ったが、実際一階は大変なことになっているだろう。

 それに困る。両親は追ってまで道連れにする気はそうなかったが、由一は確実に殺さなければ気が済まなかった。

 縄を解き終えると、彼は今にも倒れそうにふらつきながら立ち上がって、わたしを振り返った。

「母さんがあなたたちを身籠ったとき、僕は堕胎を――つまり、産まれる前にあなたたちを殺してしまうことですね、勧めたんです。でも彼女は拒みました。そして言ったんです」  

 『子供たちには何の罪もないでしょう?』

「あなたたちの名前も、僕がつけたのではありません。母さんが考えました。……母さんがあなたたちにやったことを許せないかもしれません。でもね、彼女なりにあなたたちを愛そうとしていたと思います。憎いという気持ちと、子供たちに優しくしなければという気持ちの間で揺れ動いて、苦しんでいたのだと思います」

 瀧上牧師は、わたしに向かって手を伸ばす。

「麻耶さん、いきましょう」

「嫌だ! 聖書を売りつける詐欺師が!!」

 わたしはその手を払いのけた。

 わたしはそんな低い次元で話をしているんじゃない。お母さんが許せるとか許せないとか、そんなことはもう、どうでもいい。

 偽物のお父さんと、全てを失った世界で死体のように生きていくのならば、今この炎の中で死んだほうがましだと思った。家族ごっこなんて、弟にさせておけばそれで十分だ。

 この痛みは分からない。唯一の家族を失った悲しみは。

 寂しいよ。

 わたしはこの世界で、ひとりぼっちの生き物になってしまった。

 今行くわ、と足を踏み出したとき、腕を引かれて引き止められた。

「そこに彼がいるんですね?」

 躊躇いこそすれ、構わずに歩き出す。

「どこへ行くの?」

「離して。パパのところに行かなきゃ」

「僕には見えません」

「あそこにいるじゃない」

「あれはあなたの父親ではありません」

「いいえ。わたしのパパは日生央真よ」

「そのような呼び方はおやめなさい。彼はあなたの父親ではありません」

「紛れもないわたしの父親だわ。それを好きに呼んで何が悪いの」

「でも偽物です」

「偽物でもいい。美しければ。これがわたしにとっての月よ」

 それに、あなただって偽物のくせに。

 ――わたしは最初、彼にあることを伝えるために来た。

 お母さんはもう大丈夫です。

 わたしは別にお母さんのことが嫌いではなかった。色々とひどいことをされたけれど、やっぱり肉親だから憎めなかった。それに、彼女にはもう立派なパートナーがいて、彼は彼女のことを一番に想っている。それは同じ女として羨ましい限りだ。それにお父さんのことも別に嫌いではなかった。由一みたいに人格を否定したりはしていない。別に彼と家族ごっこをする気は更々ないけれど。

 もうそこにはパパの入り込む余地はないし、あなたが心配しなくても、もう彼女は元気でやっていけるわ。

「そうですか……」

 彼は意外にもあっさりと説得を諦める。

 それきり身を翻し、やがて彼の姿が炎の向こうに消える。逃げることができたのかな、多分。追ってまで道連れにする気はない。

 それから、わたしは灯油を頭の上に注いだ。

 刺激性の化学物質がひりひりと肌を焼いた。

 わたしは半ば自棄になって、火を放った。

 周囲が瞬時に燃え上がり、その炎は油を吸ったわたしの服を伝って、瞬く間に身体に迫ってきた。虫が這い上ってくるかのような嫌悪感。それに、熱い。熱気だけで肌が焦がされる。

「きゃああああああああああ!!」

 涙が出た。しかしそれは熱に炙られて、流れる傍から蒸発していった。流れることすら許さなかった。

 由一は、拘束を解かれ自由なはずなのに、逃げ出すこともなくただ呆然とその様子を見ていた。腰が抜けたともいう。

 炎は、わたしが覚悟した以上に熱かった。『焼身』という手段を選んだことを、後悔さえした。

 けれど、彼の芸術作品であるわたしには、こんな最期が相応しいと、そう思ったのだった。