雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下6-2

10-2.Will-o'-the-wisp:ウィルオウィスプ

  花から花へと飛び回る蝶は、人の魂だ。

 それを悟ったのは子供の頃だった。

 わたしが昼寝から目を覚ましたときには、お父さんは既に虫の息だった。身体は青ざめ、目を半開きにして横たわるお父さんの口の中に、何やら動いているものがある。わたしはしばらくそれを注視していた。と、薄く開いた唇の隙間に身体をねじ込んで、一匹の蝶が這い出てきた。この世のものとは思えないほど美しい蝶だった。その翅はビロードのような滑らかな黒色をしていて、下翅には翡翠色をした鱗粉の帯があった。翅は背中に垂れ下がるような角度でついていて、穏やかそうに見える。わたしと目が合って、黒い蝶はぴきき、人じゃない声で啼いて、口吻を丸めたり伸ばしたりして威嚇してくる。何を考えているか読めない黒い複眼は、よく見るとキュートだ。

 胸の上に留まった蝶は、羽化したばかりの濡れた翅を広げ、しばらく乾かしていたが、肉体のほうのかすかな呼吸に合わせて翅をわずかに上下させ、そこから飛び立とうとしている。やがて伸びきった翅を展げて、風に乗って飛び立つ。

「待って」

 

『やだ!』

 あの男の人から逃げ出したわたしは、お父さんの眠る病室に忍び込んでいた。

 部屋の中心で無数の管と機械に繋がれた彼は、蜘蛛の巣に囚われた一匹の蝶々のようだった。

 彼はあれ以来目を覚ましていない。わたしは、彼がもう戻ってこないような気がしていた。

 というのも、あの蝶が本当に彼の魂ならば、お父さんは死んでいなければならないはずだからだ。

 生命感を欠いた肉体には、一種の構造的な美しさがある。物体的っていうか。

 天井の蛍光灯に当たって頬骨が作り出す陰影。胸郭が描く有機的な曲線。爪先の丸い長い指。

 血色が悪く、青白く透き通った皮膚は、人間の肌が不透明色ではなく半透明色で描くべきであることを教えてくれる。

 幼い頃のわたしは、そこまで思考を明文化できてはいなかったけれど、そんな感じのことを思っていた。

「――そこにいたのか。探したんだぞ」

 あの男の人だった。

 お父さんを見て、吐き捨てる。

「地獄に落ちろ、クソ坊主」

「おじさん、〝ぼうず〟って何?」

 わたしは訊ねた。

「神様に仕える人のことだよ」

 そういえばわたしのお父さんは、〝かみさま〟っていう人をものすごく大切にしていた。

 神様が土から人を作ったのだというから、彼はきっと偉大な芸術家であったのだろう。

「お父さんは何か、じごくに落ちるような悪いことをしたの?」

「…………」

「おじさん。わたしたちここにいないほうがよかった?」

「――お前たちのお父さんは、俺から彼女を取ったんだ」

 しばしの沈黙がその場を満たす。心拍計の規則正しい電子音が鳴り響いている。

「俺から取ったくせに――」

「お母さんはあなたのモノじゃない。お父さんのモノでもない。お母さんは、お母さんよ」

「…………そうだな」

 彼はそう言ってわたしの頭を撫でた。わたしよりも大きな手は、そんなつもりはないだろうけれど、力が強い。彼の服には森のような、テレピン油のにおいが濃く染みこんでいた。絵を描く人なのかもしれない。

 わたしは彼が分かって、考え直してくれたことが嬉しかった。

 わたしは彼を試すことにしたのだ。

「ねえ、おじさん。お父さんのこと、嫌い?」

「それを訊いてどうするんだ」

「わたしも、お父さんのこと嫌いになるわ」

「嫌いじゃないよ」

 一息置いて、言った。

「あいつがどんな男であれ、菜々がただ一人好きになった男だ」

 ――ああ、嘘をついている、とわたしには分かった。

 昔から、わたしには人の嘘がある程度判る。嘘発見器みたいに。目の動きとか、皮膚の下に走る表情筋の引きつりとか。他の人はそうではないというから、不思議だ。この人は、ものすごく嘘をつくのが下手だ。これならまだお父さんのほうが上手だ。お父さんは結構嘘つきだ。

 彼の恨みは一朝一夕で消えるようなものじゃない。

 この人はわたしのお父さんのことをものすごく憎んでいる。死ねばよかったのに、と思っている。

「お父さん、もう戻ってこないと思うよ。お父さんの口から蝶々が飛んでいくのを見たの」

 どうせわかりっこない。そう思っていた。

 彼は驚いたように目を丸くしていたが、やがてしゃがみこんでわたしに目線を合わせた。

「そうか。それ、あいつの魂だったと思うよ。誰にも言っちゃ駄目だよ。俺と麻耶との秘密な」

 ――この人、視えるの?

 賢すぎる子供を不気味に思ったのか、彼はジュースでも買ってやるよ、と言って病室を出た。

「お前な、間違っても二度とあんなこと言うなよ」

 さすがのわたしも反省していた。

「お前、お父さんのこと結構好きだろ」

「うん」

 間違いではないので、頷く。と、パパが突如何かに気付いて顔を上げた。つられて前を向く。

 見ると向こうで手を振っている人影がある。パパの知り合いだろうか。パパは、誰だ、という感じで怪訝そうな反応だが、向こうは彼のことを知っているようだ。

「――よ、神様じゃん。その子、娘さん? 美大出て活躍してるそうだけど、見てるよ。すごいよね。さすが神様」

 すごく馴れ馴れしい。

 パパ、いじめられてるみたいだ。褒めてるのに見下されてるのだ。

 神様とは、彼のことを言っているのだと分かった。

 話を聴いていると、パパはどうやら昔、絵を勉強する学校に通っていて、彼はその同級生。パパは学校でも一目置かれていたようだ。

 その後も、彼はパパのことを褒めまくった。

 彼の様子がおかしい。気分でも悪いかのように、その話を聞きながら、俯いて、白いシャツの胸元をきつく握りしめている。

「あんたも俺のこと、そんなふうに呼ぶんだな」

 と、彼が突然パニックを起こしたように過呼吸になる。その場でうずくまり、目を見開いて、冷や汗を流している。

 周りの人は何事だ、とぎょっとしている。

 震える手でジーンズのポケットから錠剤を取り出し、それを押し出して嚙み砕く。深呼吸を一つ。それで彼は落ち着きを取り戻した。

 それを見ていた男は、お大事に、と萎縮したように言って去っていった。

 パパは気まずそうにわたしをちら、と見て、取り繕うようにこう言った。

「風、当たりに行こうか」

 

 病院のウッドデッキに出る。

 わたしも彼についていくことにした。何故か彼がすごくかわいそうに思えたから。

 不思議なことに、そのときのわたしは彼に対して母性のようなものを感じていた。実質的には彼のほうが年上で、大人で、わたしは子供なのに、精神の上ではそれが逆転しているような。

 この人、大人のくせにあんまり精神が安定してないみたいだ。

「パパ、ジュース飲む?」

 元々は彼がわたしに買ってくれたものだが、なんだか今は彼にこそ飲ませてあげなければいけないような気がした。子供に気を遣わせたと思ったのか、差し出されたペットボトルを、彼は最初こそ辞退していたが、やがて根負けして受け取ると、口をつける。

 聖母のような気持ちで、わたしは彼のことを見つめていた。

 澄んだ泉のような、冴え冴えとした光を放つ瞳。すっと通った鼻筋と眉。寝癖みたいに無造作にはねた綺麗な色の黒髪。太い喉。

 建物の外壁にもたれかかって風を浴びながら、しばらく神経を休めていたが、やがて彼はおもむろに昔の話をし始めた。

 パパは、学生時代に死のうと思って、高いところから飛び降りた。今から考えればそう死ねるほど高いところではなかったのだけれど、とにかく飛び降りた。そこである女の人に助けられた。

 パパはその、落ちた先にあった彼女の花壇を駄目にしてしまって、

「『神様か何様だか知らないけど、どうしてくれるのよ!』って言ったんだ」

 彼女は彼を特別扱いしない人だった。その彼女には好きな人がいて、パパにも恋する人がいて――多分わたしのお母さんだ。つまり彼らにはそれぞれ好きな人がいた。片想い同士、彼らは意気投合した。

 とても仲が良くて、お互いの恋愛を応援していた。中には彼らを恋愛関係にあると勘違いする人もいるほどだったという。

「おじさんは、その人と結婚しなかったの?」

「いいなって思ってた」

 他の女にしておけばよかったのにね。美大時代の同級生の女とか。そうしたらこんなに苦しまずに済んだ。

 

 帰宅の途を辿りながら、わたしは上機嫌で話しかけた。

「パパ」

「だから、その『パパ』っていうのやめてくれないか」

「パパ」

「ひ・な・せ・さ・ん」

「ふふ、パパ」

「…………」無視。

「お父さん」

「ん」

 自分が無意識に返事をしたことにも気付いていない風で、振り向いて、わたしがにこにこと笑っているので、不思議そうに見つめる。

 可愛い。

 初めてできたお父さんが、わたしには嬉しくてしょうがない。もっと遊んでほしい。

 わたしはずっと自分一人だけがうちの子でない気がしていた。わたしの家族に、誰も絵を描く人はいなかった。あの家の中で、わたし一人だけが家族じゃない気がした。わたしを産んだ実の母親も、双子の弟の由一も。

 だって翼があるから。

 小さな翼を持って生まれてきたわたしたちは、同じようには生きていけない。

 人間が人語を解さず、二足歩行をしない猿を動物――下等生物として区別するように、翼を持たない人間を、自分と違う生き物とすることの何が間違っているのだ。

 彼も分かっているはずだ。自分が他とは違う生き物であることを。

 その証拠に、彼の両目の奥は愛に燃えていた。

 そうでなければ、画家にとっての我が子である作品を、次々に生み出すことなんてできないだろう。

 この人はわたしと同じだ。

 わたしは確信していた。わたしはこれから彼と寄り添って生きていかなければならないのだと。

 ――彼が視えると言ったとき、彼にとっては小さなことだったのかもしれないけれど、わたしのことを理解してくれた。それだけで十分だった。

「ねえパパ、結婚しよ」

「お前は子供だから、結婚できないよ」

「じゃあ大人になったらパパと結婚する」

「俺とお前は結婚できないよ」

 彼は憐れそうに言った。

「それに、その頃にはきっと好きな人ができてるよ」

 

 誰でもない、存在しない誰かになって、あなたに逢いに行くわ。

 

 わたしは再びパパの許を訪ねた。

 わたしが数年間暮らした懐かしいマンション。昔のままだ。

 ドアをノックする。

 返事はない。勝手に入れ、ということらしい。

「パパー……?」

 わたしは期待と不安を胸にドアノブを回し、鉄扉を開ける。だが何かテープのようなものが引っかかっていて開かない。見ると、ドアの隙間に目張りがしてあるのだった。

 押したり引いたりしているうちにテープが剥がれる。

 鼻をつくのは猛烈なテレピン油のにおいだった。油絵に使うやつだ。一般の人には堪え難い刺激のある、しかしながら絵を描く人間にとっては身近なにおい。もう部屋に染み付いて取れないのだ。

 それから、変なにおいがする。

 長いこと掃除をしていないような、有機物が腐ったような饐えたにおい。

 ――そこでわたしは見た。

 天井からぶら下がる日生央真の首吊り死体を。

 その首元から天井に向かって、一本のロープが張り詰めていた。お腹の辺りは腐敗し始めていて、足元にはよく分からない腐汁が水たまりを作っている。

 足は浮いていて、踏み台を蹴飛ばしたものと思われた。

 そして幹のような彼の身体に、蛍光色の青い鱗粉をてからせながら、群がる大群のモルフォ蝶。

 放し飼いにされているものだった。蝶が群れている様子はぞっとする。単体なら綺麗なのに。

「あ」

 わたしの来訪に、蝶が一斉に飛び立った。

 そしてわたしは俯き気味に前を向くパパの、見ている視線の先を振り向いた。そこには、イーゼルに立てかけられた一枚のキャンバスがある。

 床に散らばった星屑のような無数の白い錠剤を踏まないようにしながら、絵画に寄る。

 青い絵だった。

 コバルトブルー、プルシャンブルー、ウルトラマリン、コンポーズブルー。あお、と名のつくありったけの絵の具を集めて。

 抽象画のようで、音楽のように鳴り渡っている。果てしなく青い絵。

 蝶葬。

 何千何万という蝶の群れが。

 いっそ怖いくらいの大群のモルフォ蝶が、その青い翅を日光に輝かせながら、天に向かって。

 ――ああ、パパは、自分の魂が蝶になって飛び立つ妄想を抱きながら死んだのだ。

 ざわざわざわ。

 絵の表面がうごめいている。

 ……わたしは幻覚を見ているのだろうか。

 見ると、絵の表面に張りついた蝶が二枚の翅を羽搏かせ、飛び立とうとしていたのだ。

「駄目、行かないで!」

 わたしは逃げ出そうとする蝶を両手で押さえつける。蝶はわたしの手の中で、生きた心臓みたいにばたばたと暴れている。

 これじゃ駄目だ。

 〝神様〟の手によって命を与えられた絵の蝶には、同じく絵に描いた虫ピンしか効かないのだ。

 わたしは筆立てに立ててあった筆を取り、パパの絵の上に絵を描き込む。

 思った通り、蝶は大人しくなったが、今度は別のところにいた蝶が飛び立とうとする。

 ――そこからは、寝食も忘れて、絵の蝶に錆び付いた虫ピンを刺し続けた。

 何千何万匹の蝶全てに虫ピンを刺し終えたとき、わたしはその生きていた蝶たちが悉く絶命しているのに気付いた。

 一週間のことで、死体は腐り始めていた。

 わたしの行為はパパの魂を、天国にも地獄にも行けずに、永遠に絵の中に閉じ込めてしまったのだ。

 振り返った絵は、ただの絵だった。