雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下6-1

10-1.L'Apparition:出現

  僕は彼女を誘拐することにした。

「やあ露綺」

 屋上の鍵は開いていた。扉を開けて朗らかに挨拶をするけれど、彼女はキャンバスに向かったまま無視している。完全に相手にする気がない。よっぽど僕のことが嫌いなようだ。

 彼女の後ろに回って絵を見る。黒い。僕に言わせれば芸術性の欠片もない。

「何?」

 警戒心の強い彼女は、背後に立たれ、振り向かずに怪訝そうな声を発した。

 僕は鞄からスタンガンを取り出して、電源を入れた。空中を灼く、凶暴な放電の音。

 彼女が異音に振り向くと同時に、その白い首筋に電極を押し当てた。髪を焼く、微かに焦げ臭いにおい。彼女は一瞬目を剥き、身体を強張らせ、椅子から転げ落ちた。

「かっ……」

 目にうっすらと涙を浮かべながら、恨みがましく僕を見上げる。僕は彼女の真上に立って覗き込みながら、

「弱いなあ。今までは律人に守られてたもんね」

 今は、記憶のない彼にはそうしてもらうこともできない。

「悪いね……」

 無意識に唇を舐める。

 意識を失うことすらできないようだ。フィクションの世界では、スタンガンで気絶させられる描写があるが、実際はスタンガンで気絶することなんてほとんどない。

 ただ、全身の筋肉が麻痺して全く身体の自由が利かないらしい。その隙に、用意しておいた紐で腕や脚を拘束する。ここまではシミュレーション通り、スムーズにいった。最後に、ガムテープで口を塞いで悲鳴を上げられなくする。

 反抗的な露綺の、普段見られない怯えた表情に、嗜虐心がくすぐられる。こういう犯罪は再犯率が高いという。癖になる、というのも今なら分かる気がする。

 堕ちるところまで堕ちてしまったな――。人知れず鼻で笑う僕を、露綺は目だけで不安そうに見上げていた。

 しかしここからどうしたらいいか分からない。荒削りな手法だが、それしか思いつかなかった。

「こ、こう?」

 ネットで見た程度の知識で首を絞める。両手で頸動脈を圧迫する。こうすることで脳に血液が行かなくなり、意識を失うはずだ。彼女の上に馬乗りになって首に両手をあてがい、絞め落とした。彼女の呼吸が徐々に弱く細くなっていく。

 それから、身体が冷えないように毛布を被せ、背中に負ぶって階段を下ってい――こうとしたのだが、いかんせん僕の体格では彼女を運ぶことはできない。せいぜい台車に乗せるくらいだ。幸いにも、廊下の途中で誰かと出会うことはなかった。

 人気のない廃工場に連れていき、話すことができるよう、口のガムテープをとってやり、逃げ出せない程度の拘束を残したまま、彼女が目覚めるのを待った。

 はっと気が付いて目を開ける。

「あ、起きた」

 彼女は状況を悟るなり、凄まじい敵意を滲ませて僕を睨みつけた。

 僕だって、彼女を傷つけたり、乱暴したりしたいわけじゃない。そういう目をされると、なんというか、傷つく。

「あなた、もしかして――」

「おっと、みなまで言うなよ」

 僕は彼女の口を塞いで、周囲を見回した。耳を澄ます。しんとした静寂。口元の手を外す。

「こんなことして、兄さんに何されても知らないわよ」

「お兄さんが脅し文句ってやつか」

 露綺は目をしかめた。図星らしい。

「あなた、何を企んでるの?」

「君には何もしない」

 そして彼女は今更のように、自分が自由に喋れることに驚いていた。

「――一つ訊くわ。これは兄さんと関係があるの?」

「引っ込んでいなよ、カッサンドラー。これは僕の物語だ。君のじゃない」

 今回のは雫綺は無関係だ。彼はただの脇役だ。

「君がお兄さんを憎んでいることは知ってる」

 弱点のない雫綺の唯一の弱点。それは妹の露綺の存在だ。ただ、利用させてもらう。人質になってもらう。瑞山雫綺を動かすために。

「そういうことなら先に言ってよね!」

 露綺は咽せている。力任せに首を絞めたので、気管が傷んだらしい。

「下手糞!」

 ここまで罵倒されるとは想定外だった。

「なんかごめん……」

「御託はいいわ」

 彼女は冷静さを取り戻していた。

「事情は訊かないけれど、あなたも兄さんの被害者なのね。同情はしないけど」

「どうやらそのようだね」

「そういうことなら協力するわ」

 と、顎をしゃくる。どうぞお好きに、ということらしい。なんだこの開き直りは。

 それから僕は雫綺に電話をかけた。

 彼は数分後に現れた。

「今度は早かったろ。――あれ、お前背縮んだ?」

 こいつ、失礼な男だな。

 早速、囚われの露綺をご覧に入れる。彼は狼狽するも、下手に出ると妹の身が危ないので、何もすることができない。

「どうしたら露綺を解放してくれるの?」

「そうですね。では、どこかに自分でナイフを突き立ててください」

「分かった」

 雫綺はあっけなく承諾すると、携帯していた鉛筆削り用の小刀を、覚悟を決めて自らの左手の甲に一息に突き立てた。

 血がほとばしり、凄まじい痛みに苦悶の表情で呻く。

「兄さん――!?」

 さすがの露綺も声を上げる。

 傷からはどくどくと血が溢れ出ている。冷汗をかき、ふらつきながらも彼は、

「頼みます。何でもしますから。俺の命なんて差し出しますから、どうか妹だけは助けてください」

 僕はひいていた。

 なんなんだ、こいつ……。妹のためにそこまでできるなんて、気が狂っているんじゃないのか。

「これでもまだ駄目ですか、なら――」

 と次の場所に狙いを定めて、自らの身体に刃を突き立てようとする。

「――もういいです。僕の家まで車を出してください。それから十個の灯油のポリタンク。怪しまれないように」

「え、自費で?!」

 こいつ気にするところそこかよ、と思った。

「ぐちゃぐちゃ言ってないで、とっととやれ」

「車なんてないよ……」

「免許はあるんですね」

「…………」

「車なんてそこらへんから盗んだらいいじゃないですか」

 美大の敷地に、鍵が挿さったままの車を見つけたので、それを使うことにした。

 しかしながら、彼は運転席に座ったまま、動こうとしない。

「どうした。早くしろ」

「やっぱり駄目だ。間違ってる」

 ハンドルに手を置いて、蒼白な顔で座りつくしている。

 露綺は、『灯油』という単語に不穏なものを感じ取ったらしかった。

「また人が死ぬの?」

 そう言って、現実を遮断するようにふっと目を閉じた。

 ……彼女には言っておいてもいいかもしれない。

「ああ。僕は自殺するつもりなんだ」

 雫綺が口を挟む。

「人様に迷惑をかけるなよ。死にたければ独りで首でも吊れ」

 その言葉が僕を逆撫でした。どうも発破をかけてやらなければならないようだ。

 僕はパレットナイフで露綺の二の腕を切りつけた。血の色を見て、彼は顔色を変えた。

 雫綺の、この世ならぬ美しい顔が、壮絶な憎しみに彩られた。まるで怨霊に出会ったかのように背筋を怖気が駆け上った。

「覚えてろよ」

 呪いの言葉を吐く。

「早まらないで! お願い、兄さんを怒らせないで!」

 露綺は自分が傷つけられたことよりもむしろ僕を案じていた。彼女が僕に懇願する姿なんて珍しかったので、不吉さえ覚えた。

 灯油を調達しにガソリンスタンドで停車している間、僕は後部座席の露綺に話しかけた。

「痛かった? ごめんね。君を傷つけるつもりはなかったんだ。浅いから、跡は残らないと思う」

 傷を見ると、自然に血が止まっていた。僕はハンカチで彼女の傷を縛ってやった。

 にしても、人質になった露綺を見るなり、二つ返事で僕に従った雫綺を、僕は異様に思っていた。僕は彼女から、彼には心が無いと聞いていたのに。

 そうじゃない。彼は妹を思う、優しい兄そのものじゃないか。

「嘘だったんだね。彼に心が無いって。とんだ大嘘つきだね」

 その言葉が彼女を傷つけると知っていて、言った。顔を歪めた露綺に、面白くなってくる。

「よかったね、君のためにそこまでしてくれるなんて。ちゃんと、愛されてるじゃん」

 虚空を見つめ呟いた。

「わたしには、もうそんな人なんていないのにね」

「瀧上さん……?」

 ガソリンスタンドから雫綺が戻ってきた。僕は色々と指示を出すために後部座席から降りる。ポリタンクは後ろのトランクに積み、運転席に雫綺、助手席には僕が座った。

 絶望を載せた車が走り出す。

 僕は雫綺の頸にナイフを突きつける。刃先を気にしながらも、言われた通りにハンドルを操作する。

 後部座席では、露綺が兄の運転席の後ろを叩いている。

「兄さん、やめてよ――」

 そう呟く露綺は戸惑う子供のようだった。

 いや、実際そうなのだろう。まるで知能が子供に退化したみたいに、我を忘れて泣き喚いている。車の中は阿鼻叫喚だった。

「みんな死ぬ!」

「静かにしてて!」

 雫綺の顔を一筋の汗が伝った。下手なことをすればその場で頸動脈を裂いてやる。

「何をする気?」

 心持ち震える手でハンドルを握りながら、彼が訊ねた。

「復讐、ですよ」

「確かにあのときは悪かったって」

 何のことか全然分からなかったが、この調子だとこいつ、方々で恨みを買っていそうだな、と思った。

 嘆息する。

「電話をしてください。僕の言う通りに。警察に話したら露綺を殺します」

 携帯端末に番号を入力し、運転する彼の耳元に添えてあげる。

『――もしもし、瀧上です』

 落ち着いた少年の声が通話に出た。雫綺が動揺して目を見開いた。そして信じられないというふうに僕と電話とを交互に見る。うろたえるな、と目で制した。

「僕の家に来いと。早くしないとお母さんとお父さんを殺すと」

「君、もしかして――」

「前。事故りますよ」

 赤信号。慌てて急ブレーキを踏む。反動。

「由一じゃない。君は、麻耶? 死んだんじゃなかったの?」