雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下5-4

9-4.Swampman:沼男

 「あなた、動揺してるでしょう」

 僕は驚いて隣の露綺を見た。

「顔色が悪いわ」

 どの口が言うのだ、と思った。彼女の白い貌は輪をかけて蒼白だった。周りの人々が心配そうに僕らを振り返る。それほどに。

 病院の待合室。目の前を人々が忙しなく行き交う。まるでモニタ越しに映像を眺めているかのように現実味がなかった。

「あなたのせいじゃないわ」

「分かってる」

 露綺などに慰められる筋合いはない。僕が落ち込んでいるように見えるなら、彼女の目は節穴だ。

「刺し違えればよかったのに」

「冗談?」

「結構本気で言っているよ、僕は」

 相討ちになって、刺し違えて死ねばいいと思った。こんなときにそんなことを考えてしまう僕は、本当に下衆だ。

 ところで、

「君と知り合いだったみたいだけれど、あんなことを言うなんてひどいじゃないか」

「嘘じゃないわ」

 彼女はきつく膝の上の手の平を握りしめた。

「……彼と会うのは初めてよ」

 彼は何者なのか、と訊ねるので、僕は彼との関係性を一通り説明した。

 誰も、東郷瑛良という人間のことを知らなかったのだ。

「どんな人だったの?」

 ……露綺が他人に興味を示すなんて珍しい。おそらく、自分が人を死に追い込んだという罪悪感のためだろう。

「じゃあ言ってやるよ。素直で心の優しい」それも動物に好かれるような善人で、「とてもそんなことをするようには見えなかったよ」

 ――あの人が、あんなことをするようにはとても見えませんでした。

 凶悪犯罪事件のあと、誰もが判で押したように言うその言葉に、僕はいつも欺瞞を抱いていた。

 その言葉は、人の心がいかに外部から判別するのが難しいかを、如実に表している。

「東郷くん――が何故人を殺したのか、分かる?」

「分からないさ。狂人の思考なんて」

 そう。分からない。

「ねえ、君、あのとき――」

「兄さんには言わないで」

「わかってる」

 耳に届くその声は温かく、僕は自分が知らず知らずのうちに優しい微笑みを浮かべていることに気付いた。

「――雫綺は? あいつも来てるんだろう」

「絵を描きに行った。『彼はヒトなのだろうか、それともモノなのだろうか』……そう言って」

 どこまでも奴らしい、と思った。

 その後、僕は露綺と別れ、ICUの前の廊下に向かった。ガラス張りの窓が面していて、中の様子が見えるようになっている。

 ガラスの向こうの白い部屋に彼がいる。

 瑛良は僕らの目の前で左胸を刺した。それ自体は命に別状なく治療されたものの、その後容態が急変し、このように昏睡したままになっている。脳が深刻なダメージを受けて、壊死している。彼はもう目覚めることはない。心臓は動いているが、それもやがて停まるだろう。目元の血はぬぐい取られ、安らかな表情で目を閉じているのがせめてもの救いだった。

 その部屋の前で、雫綺は爛々と目を輝かせ、窓に映る自分と接吻してしまうがごとく顔を近付けて彼をデッサンしていた。ガラス窓にへばりつく姿は、まるで博物館の珍しいものを前にした子供のようだった。

 彼は振り向かないが、僕の気配には気付いているのか、開口一番に言った。

「ねえ、知ってる? 俺たちが見ている星っていうものは、遠いどこかの惑星が寿命を迎えて死ぬときに、爆発して消えるときの光のことを言うんだって」

「知ってる。それがどうかしましたか」

「君が見たのは、そういった類のものかもしれないね」

 相変わらず彼の言わんとしていることが分からないが、

「妹を慰めてやらなくていいのか?」

「嫌がられるようなことはしたくないからね。それに彼女もいい歳だ。一人で乗り越えられるだろう」

「でも、露綺の言葉が引き金になった」

 露綺の言葉に絶望した瑛良は、彼女の目の前で自殺した。彼女はこのことが心の傷として残るだろう。

「あのとき、あなたをずっと呼んでいた」

 露綺は彼のことを憎んでいると同時に、彼に頼らずにはいられないのだ。頼もしいから。彼は、彼女の最大の敵であると同時に、彼女の敵に対する決定的な力になる。

「光栄、と言うべきかな?」

 彼は空虚な笑いを漏らした。

「いいのかい? その様子だと、口止めされてたんじゃない?」

「僕があいつとの約束を守るとでも?」

「いい。それでこそ由一くんだ」

 悪びれたように笑う。

「一つ、お訊きしてもよろしいですか?」

「何だい?」

「単刀直入に言います。東郷を殺したのはあなたですか?」

「とんでもない。どうしてそう思うんだい?」

「水をかけられたから」

「そんなので一々腹を立ててたらやってられないよ」

 僕が訝しげに見るので、彼はさらにこう続けた。

「偶然さ。俺の周りではよく人が死ぬんだ。どうしてだろうね。俺は常々みんなが幸せになればいいと思っているよ。でも、俺が関わった人たちは何故か破滅するんだ」

「あんたに何かされたようだが?」

「さあ。彼の見た妄想じゃない?」

 それから、横たわる人物に目を移す。

 ヒトなのか、モノなのか。考えることがないのならば、モノと同じだ。僕の考えではそうだ。

「脳は完全に死んでいる。モノだ。でもこのモノの中でまだ心臓は動いている。爪は伸びるし、身体は温かいままだ。もし仮に今、彼の身体にメスを突き立てて臓器を取り出そうとすれば、血圧が上がるし、暴れ出すそうだよ。だから現行の臓器移植では麻酔をかける。でもそれって本末転倒じゃない? 〝死んでいる〟から痛みを感じないはずなのにさ。単純にモノと言い切っていいものか微妙だよね。彼は今、この上ない芸術をその身で体現していると思わないか?」

「…………」

「それとも、犯罪者の臓器だからいらないかな?」

「そうですね。少なくともいい気分ではありませんね」

「どうして人間は倫理的に嫌悪感を感じるのかなあ。別に意識の宿る組織じゃない。誰の臓器も同じ。ただの蛋白質の塊だよ。

 君は鶏肉を食べるとき、いちいち鶏の性格を気にして喰らうのかい?」

「……あなた、地獄に堕ちるでしょうね」

 でも本当のことだ、と彼は呟いた。

「描けてよかった」

 彼はぱたん、とスケッチブックを閉じた。そして振り向く。

「由一くんはお昼済ませた?」

 と訊ねるので、否定すると、

「食事をしよう。丁度今お腹ぺこぺこなんだ」

 ――と言う雫綺に付き合って、僕らは一階のレストランに向かった。

 ……とはいうものの、食事をする気にもなれなくて、結局何も頼まずに、お冷として運ばれてきた無色透明の水を一口含んだ。

「ところで由一くん。音楽には縁が深いって言ってたけど、君は何か楽器が弾けるの?」

 何だ、藪から棒に。

ヴィオラですよ。義父さんから貰って、少し習わされていたので」

ヴィオラはいい。長く燃える」

「……はあ」

ヴィオラってあれだろ、G線とD線とA線とE線で弾くんだよね」

「そうだよ。それがどうした」

「君、ヴィオラが弾けるっていうのは嘘だろう」

「弾けますよ」

ヴィオラを弾くのは君じゃなくて、君のお父様だ。

 君は今、正常な判断ができていない」

 胃が痛い。

 僕は胃薬の封を切った。袋の底を叩いて中身を呷る。それを冷水で流し込む。ひどい味だ。

「胃薬の呑みすぎは身体に良くないって聞くけど」

 僕は彼を睨みつけた。

「まあ、無理もないさ。親友が人を殺して死ぬのを目の前で見たんだ。――言っておくけど君、自分で思ってるよりもこれにショックを受けてるよ」

「親友だと思っていたのはあいつだけですよ」

 料理が運ばれてくる。

 腹が減っているというのは本当のようで、雫綺はすぐそれに手をつける。いい食べっぷりだとすら思った。僕はその様子を呆れて見ていた。

「あんなことがあったのに、よく食べられますね」

 彼はぴたりと食事の手を止めた。

「あんなこと?」

 両手に持ったナイフとフォークの先が前傾し、わずかに僕のほうを向いている。

「由一くん。食事を美味しいと感じるのは、心と身体が元気な証拠だよ。だって俺たちは、いつだって命を食って生きているんだもの。食欲がないからって食事を拒み続けたら、身体が弱って生者は死に近付く。だから俺たちは死者の傍で食事をするんだ」

「――一つ忠告しておきます。そんなこと言ってるから、妹に誤解されるんですよ」

 僕はため息を一つ吐いた。気が狂ったふりをして、こんなことを訊ねてみる。

「お前は誰だ」

「やだなあ。どうしちゃったの。俺は瑞山雫綺だよ」

「違う。瑞山雫綺は嵐の夜に死に、瑞山露綺に殺された。お前は一体、何だ?」

「沼男」

「?」

「ある男が不運にも、沼の傍で落雷に打たれて死亡した。だがそのとき、もう一つ別の雷がすぐ近くに落ち、沼の汚泥に化学反応を引き起こし、死んだ男と原子レベルで全く同じ物体を生成してしまう。記憶は物質の化学反応として蓄積されるから、記憶も同一だ。泥から生まれた沼男は沼をあとにし、死んだ男が住んでいた家に帰り、死んだ男の家族と会話し、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りに就く。そして翌朝、死んだ男の職場へと出勤していく――」

「何が言いたい」

「由一くん。本物がそんなにいいか?

 ――なあ、こうは思わないか。本物よりも出来のいい贋作は、本物といってもいいんじゃないか。仁和寺にある法師然り。たとえ贋作でも、その人が一生それに気付かなければ、その人にとってそれは真作であり続ける」

「芸術の価値は巧拙じゃない。その作家本人がそのときその場所で手がけたという一回性。アウラだ」

「絵画に魂が宿る、と?」

 ――君の言っていることは、ヒヨコのホモジナイズの問題といえるね、と雫綺。

「オスのヒヨコは卵を産まないし、育てて食肉にするにもコストがかかりすぎるから、ミキサーにかけて殺処分されちゃうんだ。この前たまたまネットでそんな動画を観たんだけど、ぐろかったよ。

 ――それはいいとして、ヒヨコを試験管に入れてばらばらにすり潰したら、その前と後で、そこから何が失われるか」

「『魂』、ですか」もしくは、『命』だろうか。

「答えは、『失われたものは何もない』。少なくとも当人にとっては。つまり観測する側の極めて情緒的な問題なんだよ、これは。

 実際何も失われていないのに、俺たち人間はその前と後で、どうしようもなく何かが失われたと感じてしまうんだ」

 まあ、強いていうなら『構造』かな、とうそぶいた。絵画が絵の具とキャンバスでできているからといって、絵の具のチューブとキャンバスを、作品と言う芸術家はさすがにいないでしょう、と。

「それと同じで、生と死も連続的に繋がっていて、生はゆるやかにそれに移行する。だから俺やお父様が、死から蘇ったのもなんらおかしなことではなくて、逆も然りだ。白が最も明るい黒ともいえるように、グレーの階調にすぎない生と死の間で、本質的な違いは何も起きていないし、生きていると思ってる俺たちは、実は生きているだけの死人かもしれない」

 ……厄介な人間に好かれてしまったようだ。

 今更になって、それに気が付く。

「そういうふうに考えられるあなたは異常だ」

 なんでこいつ、芸術家になったのだろう。僕に言わせれば、つくづく芸術家の資質がない。

 技術のことを言っているのではない。つまるところ、芸術とは個々の歪みきったレンズを通した、歪みきった像を何かしらの媒体で表現し、金銭を得る行為であると思う。

 芸術家が感性と呼び、科学者が閃きと呼ぶもの。それこそが彼らが求めてやまない、この一パーセントの知覚の歪みだ。個性やオリジナリティと言ってもいいだろう。だから芸術家に向いている人間とは、誰もが見てみたくなるような、好ましい歪みを持っている人間であると思う。彼らに変わり者が多いのもそのせいだ。

 芸術家に限らず、世界を百%正確に捉えられる人間はいない。誰しもそれなりに歪んだ鏡を持っているものだが、彼の場合、歪みといった歪みがほとんどなく、事実だけを捉えようとする。そういう人間は、芸術家には向いていないのだ。

 『何も塗られていない平面が、究極の絵画である』

 クレメント・グリンバーグ。

 印象派以降、絵画は自分が絵画であることを証明するために、他の芸術が持つ要素を排除してきた。絵画から『物語性』を。絵画から『陰影』を。

 そして最後に残されたのが、『平面性』だった。

 だが表現するための絵の具もキャンバスも、そもそもそれ自体が三次元世界に存在する『立体』であるという逆説に、芸術家たちは気付き、行き詰まる。

 ――全てが白紙だったなら、それは絵画かもしれないが、良い絵画と言えるだろうか?

 絵画は問う。『絵画』とは何か。

 十九世紀の現代芸術とは、つまるところ零に極めて近い点を追求していくが、それでいて決して零になってはいけないという、微分めいた試みであったと思う。のちにそれは形すらも失って、概念の世界に入っていくことになるのだが、それはさておき。

 ――バーネット・ニューマンの、幼稚園児にも描けそうな塗り残されたたった一本の線のために、現代芸術のコレクターは何十億円という金を差し出すことになる。

 一見何の変哲もないべた塗りの色面を見て、崇高だのと呟くのは、芸術の素養のない人から見れば狂人のように見えるかもしれない。彼らの目にそれらは粗大ごみにしか見えず、自分にも描けるだの言う。それを責める気は毛頭ない。

 ごみと見紛う絵の具を塗った布、紙に印刷されたインクの染みに意味を見出し、終いには感動するなんて、そうでない人から見たら気が違っているように見えるだろう。

 絵から得る喜びや興奮や感動は、僕たちが頭の中で作り出したまやかしなのだ。

 それは発見であり、神託でもある。

 キャンバスに描かれたものそれ自体に意味があるのではない。僕らがそれに意味を見出すのだ。

 ある人には絵の具を塗ったぼろ布に。ある人には行き詰まりの芸術に差し込む一条の光に。

 だがその味を知る前には戻れない。もうただの色面と線には見えない。知恵の実を口にしてしまったからには。

「――俺たちってさ、よく失ってから気付くってことが往々にしてあるじゃない。

 由一くん、見えないものを描き出す方法を知っているかい? 逆にそれの不在を描くんだよ。いつまで待ち続けてもやって来ないゴドーのように。無限に遍在する、美の女神の左腕のように。ドーナツの穴を描くために、ドーナツを描くんだ。すると無上のそれを得ることができる。それは不在の間にぼんやりと浮かび上がる虚像のようなものだ。形はない。決して他人と共有することはできない。けれどどんな媒体も描き出せないくらい美しい」

「何が言いたい」

「つまりね、君は死をもってしか生の実感を得られないんだ」

 何を言っているのだこいつは。彼の言葉を理解できないのは、彼の言う通り僕の思考が低下しているのか、それとも奴の話が突拍子もないのか。

「心の傷を負った子供の中には、トラウマのきっかけになった出来事を再演する遊びをすることがある。君は役者だ。何度も何度も君は演じるんだ。箱庭の中で。君が勝つまで」

 君には理解できないかもしれないけれど。そう付け加えて。

「君は、君のために喜んで命を投げ出していった人たちの屍の山の上で、それでも立っていなきゃいけない運命にある。

 斃れちゃ駄目だよ。君は俺たちの王なんだから。

 かわいそうな由一くん。君は自分がこの世で一番弱くて不幸だってことを信じたくないだけ。そうだろう?」

 彼の声は甘く、蜜のように心の隙間に染み入った。

「何故自分が殺されなくちゃならなかったのか、その理由が未だに君の中でうまく処理できないんだ」

「僕らが日生央真の子供かもしれないから、ですか」

「お父様が消えれば、少しは楽になると思うけど」

 そう、言い切った。

「ねえ、もし君が、生物学上の本当の父親に復讐するときは、俺も呼んでよ」

 雫綺はそう言って、伝票を持って立ち上がった。

 祭りじゃないんだぞ。