雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下5-3

9-3.A Berserker:狂戦士

  生徒会室にいるとき、瑛良から電話がかかってきた。

『屋上に来い』

 それきり通話が途切れる。

 生徒会は久々の会議ということで、役員全員が揃っていた。――いや、会計がまだだ。無視することも考えたが、彼が来るまで時間もあることだし、行ってあげたらどうですか、と美玲が勧めるので、僕は断ってから屋上へ向かう。

 屋上といえば露綺の城だが、そういえば以前、彼は彼女と知り合いだと言っていた。正反対な性格に見えるが、どの辺で馬が合ったのだろう。僕には全く想像もつかないが。

 扉を開ける。

 屋上には彼女一人だった。

「……何の用?」怪訝そうな声を上げる。

「東郷は?」

「あなたの友達かしら。知らないわ」

 どうやら彼はでまかせを言っていたようだ。というかこいつ、他人への興味が薄すぎて名前を覚える気がないふしもある。

「瀧上くん」

 戻ろうと踵を返したとき、後ろから声をかけられた。

「気になっていることがあるのだけれど」

「何だい? 僕は忙しい」

 彼女は屋上のとある一角に僕を連れていった。

「そこに見慣れない物体があるの」

 そこから下を見下ろし、指差す先は裏庭の花壇だ。

 白い花のように見えた。

 それを眺めながら、ふと思いついて僕は言った。

「見に行ってみないか?」

 露綺はそれを二つ返事で承諾した。そうと決まれば早速、屋上から降りて例の花壇へ向かう。

 枯れた雑草が伸びた道を行く。

 裏庭は路加の杜と呼ばれていて、創立当初から植えられた木に沿って遊歩道が整備されている。そのせいで年中薄暗いこの裏庭に出ようという者は、よほどの物好きか変人だろうと個人的には思っている。

 花壇に花はない。いや、正確に言えば、咲いていた痕跡があった。農薬によって枯らされ、茶色くしおれた茎。随分背の高い植物だったようだが、僕は植物に詳しいわけではないので種の判別はつかない。そして――、

「瀧上くん」

 腕を持ち上げ、世にも恐ろしいものを見たように、露綺が厳かに言った。

 その指が指し示す先――。茶色く立ち枯れした茎に紛れて、一本の生白い腕が、天に向かって突き出ているのだった。

 まるでこの下に誰かが埋まっていて、助けを求めているかのように。

 一見死体のように見える。しかしそれはあたかも大理石でできた彫刻のようにすべすべとしていた。根元の土に、一部掘り返した跡がある。

 及び腰の露綺をよそに、僕は一歩前に出て、おもむろにその腕と握手すると、上に引き揚げた。

 ずるり、と土から腕が抜けた。その下に何か一続きになっている。全貌が見えてくる。生白い肩、泥に浸かったセーラー服の襟。理不尽そうな双眸で目を見開く麻耶の――いや、

「これは人形だ――」

 よく見れば、等身大のただの木偶人形に、相当腕のいい画家が麻耶の顔を描いたものだった。

 人形の全身を土の上に投げ出す。

 驚愕の表情のまま凍り付いたそれは、市販のありふれたデッサン用の人形で、針金が露出した関節の作りは甘い。油絵の具で、肌にしっとりとした血の気のあるテクスチャを与えている。特に顔はよく作り込まれている。それに、セーラー服を着せて。

 あの日、屋上から落ちてきたものと全く同じだった。目の前を高速で通過すれば、それと気付かないかもしれない。

 ――あの日、空から落ちてきたのは、本当に麻耶だったのだろうか。

 その瞬間、僕は全てを悟り、今まで気が付かなかった自分の愚鈍さを後悔した。

 心の中にふつふつと怒りが湧き上がってくる。

 麻耶に騙された。

 こんなことで僕から逃れられると思ったか。日生央真の元へ行けると思ったか。

 八年前から、彼女の心があちらに向いていることは分かっていた。心を囚われ、敵であるべきあいつに。

 と、僕の携帯端末が鳴る。ディスプレイを見ると、美玲の番号が表示されていた。催促だろうと思って出る。

「ごめん、美玲。今戻る」

『由一くん、助けて――!!』

 心臓が加速する。

「……どうした、美玲」

 しかしながらそれは、男の声に替わる。

『生徒会室に来い』

 東郷瑛良の声だ。何故彼が生徒会室にいるのか。美玲が悲痛な声で叫んでいるのか。

 ただならぬ様子を察したのか、露綺が後ろから声をかけてきた。

「私も行くわ」

 生徒会室に駆けつける。

 扉を開ける。――そこにあったのは、人の良心が作り上げた儚くいびつなインスタレーションだった。

 教室には沢山の人が倒れていた。

 生徒会役員だ。彼らは腕や脇腹を切りつけられ、痛みにうめき声をあげている。

 その中心で立っているのは、美玲と、その首元にナイフを突きつけている東郷瑛良だった。

 美玲を人質に取り、動けば美玲を殺すと脅されたのだろう。驚いたことは、こんなに人数がいるのにも関わらず、誰一人逃げようとも、瑛良に反撃しようともしていなかったことだ。

 生徒会長を敬愛していた人たちだった。彼らは別に特別親しくもなかったが、彼女の死体を見たくなかった人たちの屍だった。

 人一人を抱えながら立ち回るのはさすがに難しかったのか、致命傷は与えられなかったようだ。

「ご足労だな」

 僕らを認め、空いた片手を芝居がかかった動作で広げる。

 僕は異変に気付く。

「おい、その目――」

 彼は、両目から血を流している。

 まるで涙のように赤い液体を目の縁から垂れ流して、頬を濡らしている。

 異様な出来事に立ち尽くしていると、美玲が首にナイフを突きつけられながら、僕に向かって叫んだ。

「由一くん、逃げてッ!」

 美玲の行動がさも不愉快そうに顔をしかめると、瑛良は美玲の喉をナイフで一息に引き切った。一巡のためらいもなく。

 彼女は自分の血で溺れながら、苦しむ間もなく絶命した。

 元、とはいえ、恋人を殺した。一瞬も迷うことなく。

 それから、恐怖で氷が解けたように、悲鳴を上げながら逃げ出そうとした生徒会書記の喉笛に喰らいつく。あまりにも色気がない。軟らかい気管を食い破られて、彼もまた倒れる。

 振り向いた彼は、極度の興奮状態にあるためか瞳孔が開き、白眼が充血し、首の付け根では血管が脈打っているのが視認できる。

 そこにあるのは瑛良ではなかった。

 東郷瑛良の姿に擬態し、東郷瑛良の声音を操る、そいつを彼の名で呼ぶとしたら、あまりにも彼への侮辱としか言えないような、冒涜的な一匹のケモノだった。

 そしてそいつは、僕を生徒会室から離れさせて、その隙に奇襲する程度の知性はある。

 頸の皮膚を吐き捨ててから、彼は人の言葉を発した。

「何平和ボケしてるんだよ。今は同級生として仲良しごっこしてるけど、戦場だったらこいつらと殺し合いしてたぞ」

 論理が飛躍しすぎている。

 第一、今は飢餓でも戦時下でもない。

 血に濡れた歯をてからせながら、彼は思いのほか静かに口を開いた。

「お前は美玲を愛しているか?」

「愛しているさ」僕は答えた。

「嘘だ。俺のほうが彼女を愛していた」

 こんなときに何を張り合っているのだ。眉間が痛い。僕はずっと眉をしかめたままだったらしい。

「お前は美玲のどういうところが好きだった?」

 ――僕は美玲のどういうところが好きだったのだろう。

 まず、頭がいい。美玲は同級生にしては珍しく、近代以前に限定されはすれども、美術の話ができた。僕はそういう点で、彼女に一目置いていた。

「お前は美玲の何を知っている? 美玲はな、ああ見えて重くて、飯マズで、腐ってて。それですごい悩んでいて――」

「……東郷?」

「お前は誰も愛してなんかいない。女も、男も。いや、全人類を愛することができないんだ」

 口を不自然に歪め、にい、と笑う瑛良。

「俺たち三人の命を捧げて、麻耶を蘇らせる。俺と美玲と、それからお前だ。ちゃんと魔術的な手順を踏めば、失敗しない」

「はあ?!」

 何を言っているのだ。今日の瑛良は頭がおかしい。

 彼の右手が閃く。彼の手に握られたナイフの銀色が、夕陽を反射して鋭く光っている。

 脳裏に、あの光景が蘇った。

 痛みにのたうち回る義理の父親

 冗談じゃない。僕はあんな無様を晒したくない。

 瑛良は、僕の腹の手前にナイフを突き出した。

「誰に刃を向けている?」

 僕は眉をひそめ、訊ねた。

「誰に刃を向けていると訊いているんだ!」

 腹の底から張り上げた声に気圧されたのか、瑛良が一歩あとずさる。

「やむを得ないわ」

 しゃんと露綺が呟いて、まっすぐにパレットナイフを突きつけた。

「刃物を下ろしなさい」

 何を思ったか、瑛良が突然奇声をあげながら露綺に躍りかかった。刃物同士が激しく交錯する。僕はその場で動けずにいた。流れ出る血で視界が悪いのか、彼の刺突はいまいち定まらない。露綺は刃物の扱いに慣れている様子で応戦するが、男性と女性だ。長く続けば分からない。それにパレットナイフは絵具を乗せるか削る以外の用途はないと言っていい。ナイフと言っても刃は潰れ、先端も丸い。

 と、澄んだ音を立てて、露綺が瑛良のナイフを跳ね上げる。彼は手を止めて、叫んだ。

「どうして邪魔するんだよ!」

 それはほぼ悲痛な叫びだった。露綺を心から信じ、目を潤ませている。

「友達だっただろ?」

 彼女は予想外のことを言った。

「あなたのことなんて知らないわ」

 瑛良の口から小さな呟きが漏れた。その表情が色を失っていく。

「私はあなたと話したことなんてないし、知っているとすれば、それはあなたの〝妄想〟よ」

 一瞬、彼の表情に真っ白な絶望がよぎった。僕の勘がまずい、と告げていた。それは、理性を手放した人間の顔だ。

「おい、よせ!」

 次の瞬間、瑛良は何を思ったか、声のない咆哮を上げながら、自らの左胸にナイフを突き刺したのだ。

 口からも鮮血を溢れさせながら足元にくずおれると、まるで溺れているかのような音を立てて息をしながら、地面の上を転がり回った。

 仕方なく、ざっくりと切られた傷口に体重をかけて出血を止めようとするが、肺に穴が開いているらしい。素人ではどうしようもないと判断し、血まみれの手で校則違反の携帯電話を取り出して一一九番に通報する。

 ふと、露綺はどうしているかと見ると、ほとんどパニックになっているらしく、いつもの冷静さなんて影も形もなく、泣き出しそうな顔で電話にすがりついて、誰かに助けを求めている。

 何度も、彼女の兄の名を呼んでいるのを聞いた。

 

 ――あれほど煩かった犬の鳴き声が、聞こえなくなっていた。