雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下5-2

9-2.After School without You:君のいない放課後

  ――追憶の底から、浮上するようにゆっくりと目を開けた。

 我が家のリビングだ。夕方だが照明は消えていて、暗い。

 ダイニングテーブルの真ん中に置いてあった、胃薬の箱をなんとなく手に取った。銀の包装を破り、緑色の粉薬を呷る。それをコップに汲んだ水で流し込む。

「うぐ」

 発泡した薬の、何ともいえない臭気がこみ上げる。

 それから僕は、食卓の上の肉切りナイフを手にとった。

 しかしながら手に力が入らない。何度やっても手が震えて、取り落としてしまう。

「――菜々子さん」

 そして僕は今しがた気が付いたかのように、目の前にいる人に声をかけた。

 寂しい四人掛けのテーブルにぽつんと座った女。昼間なのに、よれよれの男物のパジャマを着ている。

 目の前で僕がこれだけ色々とやっているのに、彼女は無反応だ。その双眸はどこにも焦点を結ばない。義父が朝、身体が冷えないようにと掛けていった毛布も、少しもずり落ちずにそのままになっている。それは彼女がわずかも身じろぎをしていないことを示していた。

 だが彼女は生きている。

 鶩を思わせる蠱惑的な唇がかすかに開いている。耳を近付ければ、細く呼吸しているのが聞こえるだろう。

 絵画の世界から飛び出してきたかのように浮世離れしていた。いや、本当に絵画の住人なのかもしれない。僕たちの成長と共にそれなりに歳を重ねているはずなのに、歳を取らないように見えるから気持ち悪い。油絵の具で表現するのに適したような、毛穴一つない白い肌は、カバネルのヴィーナスの大理石の仕上げだ。

 何故彼女はこんな状態になっているのかというと、彼女の心は壊れているからだ。

 自発的な感情の動きが自分の中で完結し、外に出てこない。目は開いているが死んでいる状態で、その黒目は虚ろに光を吸い込むだけだ。学術的に言うならば昏迷というそうだが、それはまるで魂を抜かれたかのようだとは言えないか?

 座ったきりで運動しないのに、美しいのだから、彼女はろくに長生きしないだろう。

 こういう神の与えたもうた奇跡的とも言える美。佳人薄命という。天才と美女は神に愛される。美しい人間に限って、早く天に召される。若さを失う前に刈り取られてしまうのだ。やがて散る花のように、天は彼らに短い至高の美を与えるのだ。そうでなくても、ただでさえ死神と美女という美術表現は昔から多い。

 生きていながら死に近い存在。それが僕たちの母親だった。

「ねえ、母さん、元気?」

 まともに会話の成立しない母親を言葉で苛むのが、今の僕の趣味だった。

「どうして僕たちを堕ろさなかったの。産まれる前に、いっそ殺してくれればよかったのに」  

 相変わらず返事はない。

「いつ死ぬの? 僕と麻耶にやったこと、一生忘れないよ。あなたより僕は、長生きするんだから」

 部屋に引き返そうと席を立つ。日が落ちて帰ってきた義父と出くわしたら面倒なことになるので、それは避けたい。

「あ、そうだ」

 僕は足を止めた。

「下着は何色だった? 別に興味ないけど」

 僕は満足して居間を出た。

 そこで、職場の路加高校から帰ってきた義父こと、瀧上牧師と出くわす。

「ただいま、由一さん」

「……おかえりなさい」

 玄関で靴を脱ぎながら、僕の姿を認めて、何が嬉しいのか軽く微笑んでみせる。

 この人のこういうところが苦手だ。

 家の中に血の繋がっていない他人がいるということに、僕はある種の居心地の悪さを感じていた。多分、これはずっと抜けないものなのだろう。

 そこそこ背が高く、険のない柔和な顔立ち。目を伏せると、睫毛が長く、それなりに理知的に見える眼差し。

 彼は僕が物心つく前からずっと、実の父親としてこの家で暮らしてきた。母と結婚もしている。だが彼は書類上は継父だ。本来ならば義父というよりは養父と呼ぶべきなのだろうが、彼に養われているという事実自体屈辱的だ。まさに法律上の父親という言葉こそふさわしい。

 僕に瀧上という名を与えた男。

「胃薬、買っておきましたよ」

「見ました」

「また母さんと喧嘩したんですね」

「他人のあなたには関係のないことだ」

「――聖書には、このようにあります。『口に入るものは、人を汚さず、口から出てくるものが人を汚す』。不届き者の舌を制御することが、人間の務めです。汚れた心から出た言葉は、また汚れています。汚れた心から出た毒は、いつか自分を毒するのです。

 ――由一さん、何故母さんにあんなことを言ったのですか?」

 信者に説教するときのように、ゆっくりとした口調。

 柔和な口ぶりであるが、その実頑固で、その上空気を読む才能がない。説教されるときは厄介なことこの上ない存在だ。

 僕は鼻を鳴らして、とぼけた。

「あんなこと、とは?」

「――下着が、なんとか」

「あなたに聞かせるためですよ」

 彼が途中から聞いていたことは知っていた。だからこそ声を張り上げたのだ。

「――由一さん。母さんは動かないし、喋らないけれど、あなたの言ったことはちゃんと聞こえているし、覚えているんですよ。傷ついているんです」

 どうだか、と思った。僕にはどうしてもそうは見えなかった。

 黒の祭礼服の左胸に手を当てて、しっとりと目を伏せる。

「心は痛みませんか?」

「心臓が痛いなら、病院に行ったらどうですか」

「…………」

「痛みませんよ、そんな曖昧なもの」

「そんな子に育てた覚えはありませんよ。それに、そんな言い方は……なんだか傷つきます。僕は悲しい」

 そう言って彼は、わざとらしく傷心して俯いた。

「……どうして由一さんは、そんなに僕にあたりがきついんですか? 僕が何か悪いことをしたでしょうか。改めますから教えてください」

「都合のいいときばかり父親面するのやめてくれます?」

 瀧上牧師は呆れたように頭を振った。

「あなたがそう思っているならそれでもいいです。でも、家族であることに血が繋がっているということが、そんなに偉くてすごいことなんでしょうか?

 僕はね、たとえ血の繋がりがなくても、あなたと精神的な絆を育んでいきたいのです」

「…………」

「それに、母さんを貶したら、彼女から生まれた自分自身はどうなりますか? 由一さん、自分で自分の品位を貶めるのはやめましょう。全く、誇り高いあなたらしくもない。汚れてる汚れてるって、自分も汚れてるみたいな言い方……」

 ――その日は、ひどい雨が降っていた。

 まるで太鼓のように屋根に叩きつけ、滝のように視界を奪う、南国のスコールのようだった。

 母が若い頃の話だ。

 その日、彼女は家族の一人と喧嘩して家を飛び出した。そこで公園で泣いているところを襲われたのだ。当時学生だった義父がそれを助けて、二人は結婚した。

 彼女はそのときの精神的なショックで前後の記憶が欠落しており、犯人の顔を覚えていないという。人には心を守るために記憶を封じる機構がある。また、そのときは夜だったため、覚えていたとしても暗くてその男の顔は見えなかっただろう、と義父が言っていた。

 そうして生まれたのが僕たちだ。

 僕らを孕んだとき、取り除けない腫瘍のように、母体の養分を吸って日に日に大きくなるのに、彼女は絶望しただろう。

 望んだ子供ではない。どこの馬の骨とも分からない犯罪者の遺伝子を継いだ子供が、しかも二人も。

 僕の記憶は、母が涙を流しながら、壮絶な表情で刃物を突きつけてきたところから始まっている。麻耶と同じ布団に入って仮寝している平和な昼の一場面に、我が子共々母は心中しようとした。胸騒ぎがして目を覚ました。彼女は思いつめた顔で、まずはすやすやと眠る麻耶から殺そうとしていた。彼女が僕に気付き、振り向く。目の前に飛び込んできた、鋭い裁ち鋏の切っ先。

 金縛りにあったかのように身体が動かなかった。

 幼いころの話だ。心の殻が未熟だったのだ。陳腐な言い方をするならトラウマだった。

 僕たちの本当の父親は分からない。だが、日生央真だと思う。

 麻耶を見れば分かる。僕らに、日生央真の血が半分流れていることを。――あれを見たら、嫌でも認めるしかない。

 成長するほどにその才能を見せつける麻耶は、彼女にとって悪夢以外の何者でもなかっただろう。他ならぬ麻耶の才能が、彼女があの男の子供であることを証明していたからだ。

 彼女は、家族の誰にも絵が上手な人がいないのに、自分だけ他の血が混ざっているのではないかと、少なからず恐れていたらしかった。

 そして奴に誘拐されて以来、――そう、あれは誘拐というのが相応しい――麻耶は、赤の他人である日生央真が実の父親であるという妄想に取り憑かれた。

 ――今でもよく覚えている。

 義父が目を覚ましたと聞いて、病院に向かった日。

 ベッドの上の彼は、僕らを見て一瞬、どちら様、とでも言いたげな顔をした。

 無理もないことだろうな、と思った。僕らと彼が最後に別れたのは六年前。彼が知るのは三歳の双子の幼児で、成長期を経た僕らは急激な成長を遂げていた。それを我が子とすぐに認識しろとは、たとえ実の親でも無茶な話だ。

「由一さん……」

 長い間使われず衰えた声帯が紡ぎだす声は、雛鳥のように弱くかすれていたが、僕の知る懐かしい声だった。

「麻耶さん……」

「にせもの」

 腕を広げて麻耶を抱きしめようとした病み上がりの男の胸板を、そうして激しく叩いた。

「悪魔! お父さんを返してよ!」

 彼はひどく傷ついていた。決して表情には出さずとも。彼が眠っている間に、彼一人を置いて全てのものが変わり果ててしまったのだ。

 動揺するあまり、彼の呼吸が乱れている。

 僕は、彼を血の繋がった本当の父親だと思っていた。だが戸籍を見て、そうではないと知った。実の父親でなければ何なのだろう。さらに、僕らを代わりに養育した日生央真は一体何者なのだ。

 ぐるぐると頭の中で思考が渦巻いている。

 僕はただ一言、言った。

「――あんたは、誰だ?」

 その一言で、彼の精神は今度こそ地獄の底に叩き落とされた。

 

 義父とリビングに入る。できればこの人とこれ以上話をしていたくない。いつもならいそいそと二階の自室に引き上げるところなのだが、そうもいかないのだ。

 彼は母に声をかけながら、脱いだ祭礼服を無造作にソファーにかける。僕はそれをだらしがないな、と畳むふりをしながら、仕掛けておいた盗聴器を回収した。

 告解――信者の罪の告白を聴くのも牧師の仕事で、牧師には守秘義務がある。ともあれ、面白い話が聞けるし、その秘密を僕が利用することもある。秘密が漏れた責任を問われたとしても、仕掛けられるほうが悪いのだ。

 義父は母の世話を焼き始めた。

 彼女の反応を探ろうと瞳を覗き込みながら、車椅子の肘掛けの上で力なく投げ出された彼女の手に、ハンドクリームを擦りこんでいく。乾燥気味だったようだ。

 銀色がちらつく。

 動かした左手の薬指に嵌めている結婚指輪。肌身離さず身につけている。

 かつて一度、彼と彼女が心から愛し合ったという証。

 白く滑らかな彼女の指は、こねられて彼の手の中で形を変えていった。

「嫌がってますよ」僕は言ってやった。

 母が意識不明になったとき、彼はまだ眠っていたが、彼女が記憶喪失になったことは彼も知っている。僕が教えてやったからだ。もちろん、日生央真に寝取られたことも。

 記憶を失った彼女にとって、夫は赤の他人、見知らぬ男だ。

 彼との生活の中で再び惚れ直した可能性も零ではないが、彼女は喜んでいるのか、怖がっているのか、それとも意識が本当にあるのかさえも解らない。

 つまり彼女の生活を維持するために、知らない男が食事をさせたり着替えさせたり風呂に入れたりするけれど、眠る彼女は抵抗することも泣き叫ぶこともできない。

「今日もお美しいですね」

 肌がべたついたままだと不快なので、仕上げに軽くベビーパウダーをはたく。

「気持ち悪いからやめてくれませんか、それ」

 人形の世話をして何が楽しいのだ、と思う。

 彼はさっき、彼女には目の前で起きていることが見えているし、聞こえている、と言った。

 本当にそうだろうか。

 彼女は何も答えない。彼の声はただ虚空に吸い込まれていく。

 虚しくないのだろうか。その姿は滑稽で、まるで人形を抱いているようだ、と思った。

 僕は思わず訊ねていた。

「何が良くて彼女と一緒になったんですか? 美人だから、ですか? まさか彼女の魂を救ってやろうだなんて思ってはいないでしょうね」

「美しいものは人並みに好きですよ」

 そう言ってはぐらかした。

「――ただ、一緒に居たいから、じゃ駄目ですか? 僕はただ彼女を愛したいと思っているのです。あなたは否定的かもしれませんが、人を愛するということはとても素晴らしいことですよ。あなたも誰かを愛するようになれば、その意味が分かります」

「愛、とは随分と便利な言葉ですね」

 僕は皮肉を言った。

「知っていますか。愛とは、脳内物質が見せる一種のまやかし。フェニール・エチル・アミン。覚醒剤の主成分と同じだ。別れたあとの強烈な寂しさも、また求めたくなるのも。麻薬中毒者と同じなんですよ。どうです、肉体に支配される気分は」

 義父は目を丸くして僕を見つめた。そんな話はつゆも聞いたことがなかったらしい。

 ……そんなに驚くことか?

 逆に戸惑ってしまう。

「由一さんは物知りですね」

 真実の愛。

 人類の永遠のテーマだ。そんなもの、守備している範囲が広すぎて、一体誰が『愛』などというものを正確に定義できる? 何千何百年議論して、未だ答えが出ていないのに、そのていたらくは。

 夢想に生きる彼は、自分の情動が単なる脳内物質の化学反応ではなく、自身の心の底から湧き上がってくる、自分の自然な感情だと信じ込みたいのだろう。人の感情が、脳細胞間を駆け巡る電気信号の煌めきにすぎないということなど、彼にとっては不要な情報であるどころか、むしろ邪魔な知識だ。全ては神の奇跡であり、幸せなのは神様のせい。子供が可愛いのも神様のせい。おめでたい頭だ。信仰に知恵は不要。聖職者というものは、余計なことを考えて、〝神の奇跡〟に疑問をさし挟まれては困るのだ。中世の暗黒時代を見ても明らかだ。

 夢がないというかもしれないけれど、物事には何事も原理があるもので、物理的な仕組みが分かっていないのに現象だけが起きているというのも、それはそれで不気味な話だとは思わないか。

 いい人、という言葉の前には、次の五文字が隠れている。

 「私に都合の」いい人。

 僕はときどき彼に言ってやりたい。あなたの優しさは、自己犠牲や憐れみや罪悪感や同情は、打算に満ちた本能が、あなたを人類全体の奴隷にするための埋め込み回路にすぎない、と。

 宗教とは、個を集団に従わせるためのツール、躾の道具だ。

 ほぼ全ての文化圏で宗教が見られるのは、個人よりも集団で協力するほうが群れの生存確率が上がり、進化論的にも都合がよかったから、宗教を信じるという特性が人類の脳には組み込まれていったのだ。

 それを誰が利用するのか。多分、中世辺りの腐った聖職者だ。盲目的な信者を利用して私服を肥やしていた。――イエス・キリストのように、生贄の子羊になりましょう。それが素晴らしいことだ、と思いこませた。

 政教分離の現代になり、誰にも利用されずに純粋に信仰を追い求められる時代になったが、教義のいびつな構造は一目瞭然だ。聖職者には二つの道がある。この構造に気付いて信者を利用するか、それとも他の信者と同じように洗脳されて、彼らの歯車と化すか。彼は後者だ。

 宗教生活に浸かりすぎた彼は、実験動物の猿みたいに他人に奉仕し利用され、奪われ物質的に貧しくなればなるほど、歓びを感じる回路を脳内にこしらえてしまっている。

 僕は彼が愚かだと思うけれど、今のところ彼の世界は、どこまでも美しくて幸せだった。

 この世には善も悪も、美も醜もない。善や悪などは、所詮社会の作り出した妄想だ。善人と呼ばれる人間が好ましく感じるのは、いつか自分がその恩恵に与れるから。だが本来全ての事象に善悪は存在しない。あるのは自分に都合が良いか、悪いか。それだけだ。

 僕は僕の中の本能にすら、傅きたくなかった。

 根っからの宗教者で、性善説を信じている。重度のお人好しで、そろそろ人を疑うことを覚えなければ、いつか火傷してしまうだろう。

 僕は、無垢なる彼の舌に悪徳の味を覚え込ませたい。悪を教育したい。この聖人を絶望させ、どうしようもなく人を憎み、妬み、片手で人の心を弄ぶような、心の醜い怪物に堕としたい。

「母さんをこんなふうにした男が憎くありませんか?」

「果物食べますか?」

 そう言って彼は席を立った。

「……復讐は地獄行きの罪です。そんなことをさせる親にはなりたくありません。神の子もおっしゃいました。『右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい』と」

「そうやって両の頬腫らして泣いていればいい」

 母親の結婚相手がこんな男でなければ、僕らの計画はもっと早く進んでいただろう。だがいつか聖なる男にナイフを握らせてみせる。血も涙もない復讐者に変えてやる。時間はかかる。だが、できなくはない。その証拠に、彼も年々疲弊してきているのが見て取れた。

 例えば、彼は耳鳴りがするそうだ。

 まだそのような歳ではない。検査をしても器官自体に異常はなく、原因不明。だが、心因性のものだろう。そもそも耳鳴りというものは原因が特定しづらいものだ。彼が精神を病むのも時間の問題だと思っている。

 義父がきょろきょろと辺りを見回している。果物ナイフを探しているらしい。水切りかごに刺さっているのを見つける。僕もたまには手伝おうと、ナイフを持ってキッチンに寄った。

「確かに日生央真は、あなたよりずっと社会的地位が高いし、有名で偉い人間だ。

 でもあれほど強大に見えますが、生物学的にはただの肉の生き物です。試してみますか。刺せば普通に傷つくし、運が良ければ死にますよ」

 ありがとう、と言って、上から僕のナイフを取り上げた。やるから座っていなさい、と促す。

 器用に果物の皮を剥いていく。家事は手馴れたものだった。彼は精神崩壊した母に代わり、男手一つで僕らを育ててきた。

 ナイフを握った右手が痙攣していた。それを止めようと、人知れず僕はテーブルの下の左手で押さえつけた。義父はそれを見逃さなかった。

「由一さんはどうも、刃物に執着しすぎる。傷が癒えないのですね」

 見ると、両目に涙を溜めている。そういうふうに僕らを哀れむときの大人の目が、僕は何よりも苦手だった。何がかわいそうなんだ。お前たちに憐れまれる筋合いはない。

「……僕のせいです。でもそれを治す薬はない。神を信じなさい」

 どうしてそうなるんだよ。

 神は乗り越えられない試練を与えない、と彼は言う。

 個人的に信じ、喜んで苦行を引き受ける分には構わない。だがそれを僕らに押しつけるな。

「あなたは実の父親を憎んでいるかもしれませんが、彼に復讐したって意味はありませんよ。あなたがここにいるのは彼のおかげでもあるのですからね。彼に復讐するということは、自らの生の否定です。もういいじゃないですか」

 そんなのは分かっている。

 愛する人を寝取られた瀧上牧師が、彼に復讐するというのならまだ分かる。

 僕は別に母親のことを慕ってはいないし、彼女の仇を取りたいとも思わない。

 雫綺は、彼が婚前交渉するような男にはとても見えない、と言う。

 だが、たとえしていても言わないだろうと思う。

 面子ともいう。大人の都合というやつだ。聖職者である彼ならば尚更だ。何らかの事情で認めるわけにはいかないのだ。

 つまるところ、僕はどうでもいいのだ。たとえ瀧上牧師が本当の父親でも。

 僕のこれは復讐ではない。個人的な恨みのために動く悪党など三流だ。感情をさしはさむことなしに、ただ現象のように人を陥れる。それが理想だ。

 よく、異常犯罪者は幼少の頃のつらい体験が取り沙汰される。人々はその心の闇に原因を求め、安心しようとする。

 だが僕の目指すところは、突然変異の怪物だ。

 僕は悪のために悪を為すのだ。

 ありきたりな心の闇では説明のつかない。僕はそんな怪物になりたい。

 人面の悪魔。

 さしたる理由もなく人を陥れる。

 親も気の毒だ。子供というものは、産まれた瞬間から無条件に無償の愛を要求する。生まれてきた子が生まれながらの悪魔だったとしたら、親はいつか食い殺される運命にある。子供を産み育てるということは、従順ならいいが、殺人鬼を育てるということにもなる。

 子が親を選べないと同時に、親も子を選べないのである。

 重たい音を立てて、肉厚のガラスの器をテーブルに置く。いただきます、と手を合わせて、僕は櫛切りにした旬のオレンジを、一かけ口に運んだ。爽やかな酸味が口に広がる。

「あなたは食べないんですか」

「僕はあとでいいから」

 見ると、向かい側に座って頬杖をつきながら、自分が口にしているわけでもないのに、僕を見つめて何が嬉しいのか微笑んでいる。

 その様子が気に障って、言った。

「僕はあなたのこと信用してませんからね」

 僕がそんなに哀れな顔に見えたのだろうか。彼は場違いなほど深い慈愛と憐れみとを目に湛え、ふと僕の頭を撫でようとでもするかのように腕を伸ばした。僕は首を振ってそれを避ける。この歳にもなって、みすみす頭を撫でられてやる気はない。彼は何故か残念そうな顔をした。

「寄るな。教会臭い」

「没薬ですよ」袖のにおいを嗅いでいる。「そんなににおいますか」

 キリスト教会では、場を清めるために没薬と乳香を焚くが、その配合は教会ごとに違う。路加高校の礼拝堂では香を薫き染めているので、教会勤務の義父は、そのにおいを家に持ち帰ってくる。家にいてまで学校のことを思い出したくない。

 地を這うようなダーティーな香りだ。土を思わせる、苦く、それでいて甘い香り。僕はこれが嫌いだった。

 僕が彼を苦手とする理由がもう一つある。

 あの日。叫び声を上げながら、僕へ振りかぶる母の――。

 僕らを庇って、――刺されたのだ。

 その光景は今でも正確に描写できる。

 噛み合わない二枚刃が、僕と母の間に割って入った彼の背中を深々と貫いた。母は半狂乱で刺さった鋏を引き抜こうとする。傷をえぐられ、呻き声を上げて見開いたその目は、生理的な涙で濡れていた。にちゃりと水音を立てながら、赤に塗れた二枚の凶刃が義父の体内から現れた。その瞬間、水風船から水が抜けるように大量の血が溢れ出して、彼は急速に弱り始めた。突き刺さった鋏が、良くも悪くも栓の役割をしていたのだ。

 重油が流れ出るように縁側に広がる血の海。飛び散った血が庭の緑の上に降って、補色対比でぎらぎらと鮮やかだった。幼い僕は、彼の頬を軽く叩いてみるが、彼の皮膚は両生類のように冷たく湿っていて、最初こそ不安そうに視線を彷徨わせていたが、やがて不自然な方向に固まって、まるで僕など見えていないかのように妙に表情がぼんやりとしていた。

 尋常じゃない、喘ぐような浅く速い呼吸。青紫色の唇が怯えるようにわななく。何より、その双眸から徐々に光が失われつつある、ヒトがモノに変わっていく過程を見ていたのだった。

 ある瞬間、ぐったりと全身の筋肉を弛緩させると、うんともすんとも言わなくなった。目からふっと光が消えて、息をしているのがかろうじて分かるくらいか細い。

 昏い目で僕に目を合わせたまま横たわるそれは、もはや一個の死体だった。

 異変に目を覚ました麻耶が泣き出して――。

 それでその騒動は周囲の知ることとなった。義父は救急車で運ばれていき、それで母の神経衰弱が発覚し、責任能力なしと診断されたのだった。

 今でも、彼の背中には変な形をした二つのケロイド状の傷跡がある。傷自体は完全に塞がっているが、綺麗には治らなかったのだ。

 若い、線の細い牧師の男には似合わないそれ。

 その後遺症で義父は背中が弱い。一度切られたことで神経が表層に出てきて、他の場所よりも痛覚が鋭敏になっているらしい。体調によってはちょっと触れられただけで気を失うこともある。以前には一度、教会で遊んでいた子供にどつかれて失神、転倒したこともあった。

 僕はこの男に命拾いさせられたのだ。

 屈辱だ。

 思い出すたびに腹が立つし、僕が彼に対して何となく気遅れする要因でもある。

 僕と彼の中の何の要素が彼にそうさせたのか。

 当時の僕は、自分にそうされるだけの価値があるのかどうか分からなかった。これまでの彼の人生を投げ打ってまで、助けるべき存在だったのかも。

 つくづく子供のある親の心理状態が理解できなくて。

 よく出産した母親が我が子を可愛いと思うというけれど、あれは産んだ子が本当に可愛いのではなく、子育てをさせるために、脳に可愛いと思わされているのだ。そういう子孫を残すためのプログラムが、僕たちの脳には埋め込まれている。種の存続のために、世にも醜く弱い生き物の世話をさせる。ある意味精神疾患に近い。我が子を可愛い愛しい護りたいと思うのは。

 だが本人には洗脳と同じく自覚がないので、それを経験した大人どもは、子育ては素晴らしい、母性は素晴らしいだのとほざくのだ。

 自分が自分でなくなるのは怖い。

 レミング集団自殺

 それと同じくらい、生物全体に備わる生存本能からすれば、誰がどう見ても異常な行動を彼は取った。

 あの瞬間、オキシトシンに支配された彼の脳は、彼を刃物を持った僕の母親の前に飛び込ませた。

 当時の彼には、一片の恐怖も迷いも浮かんでいなかったと思う。

 結果、僕の代わりに彼は死んだ。心臓と呼吸が停まり、多分、脳も停まった。しかも蘇った。

 継父のくせに。

 ともあれ、彼の自己犠牲のおかげで今現在僕は生きているし、どんなに生意気な口を利いても彼は僕を追い出したりはしない。その上、彼の経済力と家事労働に甘んじて、衣食住は満ち足りている。というのもどうも、彼は僕を〝愛している〟らしいからだ。

 反吐が出る。

 幼い頃の僕は、目の前にいる義父と以前の義父とが上手く結びつかなかった。今も、そうかもしれない。

 中身が全く別物で、それが父親のふりをしているような強烈な違和感。

 一度死んだはずなのに。

 一旦物体に成り下がってしまったはずなのに、今目の前で動き、穏やかに微笑んでいるコレは何だ?

「?」

 僕が見つめるので、不思議そうに首を傾げる。

 いや、多分、香水をつけるようなちゃらちゃらした人間が、僕は嫌いなだけだろう。

 ――それは、冥府の香りだ。

 この夫婦からはどうも死のにおいがする。

 生きているのに死んでいる女と、一度死んだのに生きている男。それが目下僕の両親であり、僕が最も苦手とする人々であった。

「生まれ出て祝福されない命はないのです。僕は愛する人と、その子供たちを同時に手に入れた、世界一の幸せ者です。生まれてきてくれてありがとう」

 ――やりにくい。

 さすが〝言葉の職業〟と呼ばれるだけあって、言いくるめるどころか、これまで少しでも傷つけることができた試しがない。まともに相手をして、痛い目を見るのはこちらだと分かっている。

 精一杯の皮肉を込めて言い放つ。

「――感謝される筋合いはありませんよ。僕はあなたの子供じゃない」

「それでは、神の子供でしょう」

 キリスト教の世界観では、人類は皆、神の子であり、神の国、つまり天国に迎え入れられようと、徳を積む。

 寝言は寝て言え。

 馬鹿馬鹿しくて笑いが込みあげてきた。

 なあ、誰か知っているんだろう。僕と麻耶は、神と悪魔と、どっちの子供なんだい?

 君のいない放課後に、今日も僕は毒を吐く。