雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下5-1

9-1.Play on Words:言葉遊び

  ふと、とある情景が頭に思い浮かんだ。

 何の変哲もない朝。家族で食卓を囲んでいる。

 キッチンでは、今よりも若い瀧上牧師が、コンロの前でスクランブルエッグをかき混ぜている。

 僕はダイニングテーブルについて、目の前にいる人を見る。意地悪そうな笑みを湛え、くるくると前髪をもてあそぶ、僕に似た少女。その顔立ちは、鏡を見つめるように僕と似ていた。

「何してるのよ。次、あんたの番よ」

 ――でも、同じではない。例えば、僕は前髪を下ろしているけれど、彼女は目蓋の上で人形のように切り揃えている。僕はかけている眼鏡も、彼女はかけていない。それに冷静に見れば、全然似ていない。性別も違い、顔つきも似ても似つかない。

 彼女の名前は、瀧上麻耶。

 僕――瀧上由一の、双子の姉。

 麻耶が生きていた頃の話だ。

 僕と麻耶は一つ、ゲームをすることにした。

 一通りのゲームはほとんど遊び尽くしていた。だから、今回は麻耶にチェスを教えた。僕の教え方が上手いのか――冗談だ。おそらく麻耶の知能が高いからだろう――彼女は教えるや否や、すぐにルールを覚えてしまった。

 市松模様の盤の上、所定の位置に駒を並べる。僕は黒で、彼女は白。つまり僕が後攻だ。

 中央の白いポーンを一つ摘んで、前に二つ進める。

 麻耶は楽しんでいるのか、退屈なのか、テーブルの下の手の中でパレットナイフをもてあそんでいる。

「ねえ、あいつしつこい。さっさと殺して」

 突然そんなことを言い出す。

 どうも最近、ある男子生徒にしつこく言い寄られているようだ。

「君から誘っといて何言ってるの」

 彼女の最近の趣味は、誘惑し、自分に寄ってきた男を僕に始末させることだった。彼女は純粋に、自分がどのくらい魅力的かを知りたいだけなのだ。

 それでもやはり、麻耶みたいな女、地雷だと分かっていても惹かれる馬鹿な男も、一定数存在する。

 趣味が悪い。食虫植物のようだ。

「ねえ、こんなに可愛いお姉ちゃんが一つ屋根の下で暮らしているのに、襲わないなんて、不能なの?」

 麻耶はテーブルの下で、白い小さな素足を、僕のスラックスを履いた脚に軟体動物のように絡み付かせてくる。

 猫科の猛獣を思わせるしなやかな身体を、テーブルの天板に撓垂れ掛からせ、誘惑するように。が、たとえ麻耶の平べったい胸が潰れたところで、僕の心には漣さえ立たない。確かに麻耶は、双子の僕から見ても綺麗だ。母親と父親に似て端正だ。だが麻耶に落ちる男なんてよほどのペド野郎に決まってる。ただ感じるのは、生理的な嫌悪感だった。

 僕は盛大にため息をついてみせた。

「……物事には順序っていうものがあるだろ。待っててよ。もうすぐだから」

 足を残さないように、少しずつ追い詰める。

 僕は真剣に次の一手を考えていたので、麻耶が話しかけてくるのを、半ばうわの空で聞く。

 しかし彼女は、その返答がお気に召さなかったようだ。

「わたしの言うことが聞けないっていうの?」

 乱暴に盤上を薙ぎ払った。人工大理石の駒が澄んだ音を立てて、四方八方に飛び散る。

 俊敏な猫のようにテーブルに飛び乗り、彼女は僕に迫った。振り下ろしたパレットナイフが背後の白い壁紙に突き刺さり、僕は麻耶と壁との間に磔になった。彼女は舐めるように僕に視線を巡らす。

「あんた……今、びびったでしょう?」

 唾を飛ばすほど近くに顔を寄せると、一人で納得し、機嫌が良くなって、残忍に上気した顔で続けた。

「やっぱりそうよ。そんなので日生央真を殺すって? どの口で言ってんのよ――」

 まるで美しい獣だ。人間の姿をしているくせに、その実、食卓に飛び乗るなど、頭の足りないけだものなのだ。

「わたしがいなければ一人で復讐もできないくせに!」

「――お前、ますますあの男に似てきたな」

 そう言ってやると、麻耶は苦虫を噛み潰したような顔をした。

 興ざめした、と言わんばかりに身を引く。愉快だった。

「萎えた」

「こらこら、二人とも喧嘩しない」

 料理を載せた皿をテーブルに並べながら、瀧上牧師がのんびりと口を開いた。彼にとっては犬猫の喧嘩のようなものなのだろう。

 麻耶はうるさい、というふうに彼を睨みつけたが、追って止めを刺すようなことは言わなかった。呆れているのだ。

「チェスをしていたんですね。由一さんは本当にチェスが好きだ」

 こればかりは彼の言う通りだ。チェスは運の要素が一切なく、計算と駆け引きが中心になるから好きだった。僕は、運命や宿命とかいう言葉が大嫌いだ。

「そうですね。あなたも僕とやりますか」

「僕はオセロなら得意ですよ」

 そんなことを聞いているわけじゃない。

 ……全く。

 この能天気な父親はどこかずれている。おっとりとしたところは梓川律人に似ているが、彼とはまた別の意味で扱いづらい。宗教空間に長く身を浸しているせいで世間擦れしているのだ。

 麻耶がトーストをかじりながら、白のルークでこつん、と黒のビショップを蹴倒した。

「天にまします我らの父よ、ねがわくは御名をあがめさせたまえ――」

 義父は食卓について、長々と祈りの文句を垂れ始めた。いつも通りの朝だ。つまり各々好き勝手なことをしている。

 箸を動かしていると、彼が振り向いて話しかけてきた。

「由一さん、紅茶はいかがですか?」

 我が家の朝食には紅茶、もしくはハーブティーと決まっていた。ティーバッグではなく茶葉から淹れているのはこだわりだが、いかんせん蒸らし時間が長すぎる。

 見ると、麻耶はコーヒーにミルクを入れてかき混ぜている。猫舌なのだ。

「いい」

 僕は冷蔵庫を開けて、ペットボトルの冷えたミネラルウォーターを呷った。

 それから、義父は寝室の母の様子を見に食卓を立った。

 うるさいのがいなくなったので、麻耶は再び話し始めた。

「わたしたち、仲悪いわね。絶交しましょうか」

「むしろ、仲は良いよ。喧嘩するほどにね。君の言うことだって何でも聞く」

「由一って本当に馬鹿ね。知らないの? それは単純に悪いって言うの」

「『窓から落ちる人間を五方向から描けなければ画家ではない』――君がやってみたいと言うから、お膳立てしてやったじゃないか。ほら、中学のときに、自殺した奴」

「ふうん」

 麻耶は興味がなさそうに呟いた。

 犬猿の仲、針の筵。

 皮肉と装飾に塗れた言葉。

 今でも、この身体を意識するとき、僕は言いようもない嫌悪感を覚える。

 僕の身体を形作る細胞の中の遺伝子はきっとあいつのものだ。僕は腕から自分の血を全て搾り出したい衝動に耐えながらここまで生き延びてきた。そんなことをしても何の意味もない。僕の一部となったこれは、僕が死ぬまで永遠に一緒だ。

 あいつの遺伝子を乗せた船。

 同じく麻耶も気持ち悪いと思う。ただあるのは、憎いあいつを前にする嫌悪感だ。僕は全世界に存在する、あいつの欠片を全て消し去りたいのだ。

 同じ境遇の者同士、傷を舐め合うことなんて、しない。

 ――壊滅的被害を受けた不毛の土地のように、駒が僅かに残された盤上で、僕は何事もなかったかのようにチェスを続ける。

 それに気が付いて、麻耶が割り込んできた。にやりと笑みを見せながら駒を置く。

チェックメイト

「違う。それはただのチェックだ」

 麻耶は勘違いをしているようだが、チェックメイトとは、あと一手でキングを取りに行ける状況であり、かつ相手に回避する手が残っていない状況を指す。いかに執拗に相手の駒を囲い込み、時に誘導し、逃げ道を塞ぐか。それがこのゲームの醍醐味であって、先の一手はそれではない。どうやら麻耶はチェックメイトしか知らないようだ。

 僕はキングを退避することをやめ、向こう側――白のキングに、黒のルークを、

チェックメイト

「負けてくれたっていいじゃない」

 はっきり言って、僕が負けるとは一切思っていない。

 数あるゲームの中でもチェスは、僕が負けたことのないゲームの一つだった。

 僕はふと訊ねた。

「君、日生央真に話したこと覚えてる? 母さんのお腹にいたときの記憶がどうとかって」

「覚えてない。何か言った?」

「あいつ、僕たちのこと、中絶しろって言ったんだぜ」

「由一の嘘つき。なんでそんなこと言うの?」