雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下4-7

8-7.Stratospheric Blue:成層圏の青

  軋む音を立てさせながら屋上の鉄扉を開く。闇に慣れた目に、眩しい光が容赦なく突き刺さってくる。僕は今しがた階段を登ってきたのと同じように、重たい身体を引きずりながら陽の下へ出ると、転落防止のフェンスによじ登った。そしてその頂端に座って、両手を祈りの形に組んだ。

 そのとき、背後から声がかかった。

「――祈るにはいいよねえ。天国に近くて」

 変声期特有の、少し掠れた声。

 振り向く。

 誰もいないと思っていたのだが、後ろには先客がいた。当時中学生くらいの、目を引くような美しい少年だった。男と女の間にあって、いわゆる小悪魔じみた美貌を持っていた。少年と青年の間にあって、一種玄妙な色気があった。

 そう。それが若き日の瑞山雫綺だ。

 胡散くさい笑みを浮かべながら近付いてくる。愛想良くしようとしているようだが、ペテン師のようで気持ち悪い。

「でもね、由一くん。随分と前に神様は死んだんだ。君が生まれるずっと前――。今から七百年くらい前かな」

 どうして僕の名を、とはならない。胸の名札に書いてある。

「『神は死んだ』――有名なニーチェの言葉だけれど、ただの中二病の台詞じゃない。本当に神様が死んで、神から人主体の世界観へと遷り変わっていった。それがこの言葉の本当の意味だ」

 少年は、もたれかかっていた給水塔から背中を離して、こちらへ歩いてくる。僕は手を出して制した。

「それ以上僕に近寄るな。不幸になるぞ」

「奇遇だねえ」だがそれを聞いて、彼はむしろ顔を輝かせた。そして予想外のことを言った。「実は俺もなんだ。俺と関わった人は何故か不幸になる。――ねえ、由一くん。俺を不幸にしてみせてよ」

 ……変な奴に目をつけられてしまったようだ。

 僕は無視を決め込むことにした。まるで彼など存在していないかのように、僕は慎重にフェンスから降りて、外側の絶壁に立つ。目の前には浩々としたビルの森が広がっている。あまりの高さに目が眩む。

 僕は死のうと思ってここに来た。

 何故ならば僕は悪魔の子供だからだ。どうやら僕と関わった人は不幸になってしまうようで、死ぬのが怖くないわけではないが、これ以上周りの人を不幸にするくらいなら、僕が死んだほうがましだと思った。

 目を閉じ、重心をわずかに前に移す。重力に身を委ねた、そのときだった。

 後ろから両腕をぴん、と引っ張られた。

「死ぬな!」

 あの中学生だった。フェンス越しに腕を掴まれたまま、身体を前のめりにして止まっている。だから僕は今、とても間抜けな姿勢だ。

 首だけで振り返る。

「何故止める」

「何故って……」

 どうしてそんなことを訊くのか、と意味自体が分からない様子で呟いた。

「何かあったの? 死ぬほど悩むようなことが」

 僕は彼に話した。

 母が僕を殺そうとしてきたこと。それを庇って父が刺され、今現在も目覚めないこと。知らない男が母を騙していること。僕のせいで母が意識不明になったこと。

「『テキサスタワー銃乱射事件』」

 雫綺が呟いた。

「え?」

「一九六六年。テキサスで妻と自分の母親を刺殺し、その後、時計塔の上からライフルで乱射撃し、十五人が死亡、三十一人が負傷した事件があり、犯人の男は警察によって射殺された。けれど彼はそれまで、温厚で模範的な一市民だった。誰の目にもそんな事件を起こすような人間には見えなかったそうだ。

 彼は遺書として書いた手紙の中で、死後自分の脳を解剖してもらうように頼んでいた。彼は数日前から、ひどい頭痛や暴力衝動に苦しんでいた。解剖して調べたところ、彼の脳から十セント硬貨ほどの小さな腫瘍が見つかって、それが恐怖や怒りを司る、脳の扁桃体という部分を圧迫していたんだって」

 腕がしびれてくる。いつまでこの姿勢を続けるのだろう。

「負け犬」

 雫綺は吐き捨てるように言った。

「このままだと君は負け犬だよ」

「なんだと」

 彼に対する怒りが湧き上がってきた。僕を負け犬呼ばわりするとはいい度胸だ。僕は、先ほどまで死のうとしていたことなどすっかり忘れていた。

「そんなに死にたいならさ、一回死んでみようか」

 この世で最も美しい生き物が嗤う。

 

「青を見よう」

 

 はっきりと、そう言った。

 転落防止のフェンスを勢いよく駆け上がる。

 まるで碧空の海に飛び込むように、屋上のパラペットを力強く蹴りだした。その顔にはすっきりと、一片の躊躇いもない。横から腕を掴まれて、気が付くと僕は宙に浮いていた。

 反作用と重力に引かれ、僕はなすすべなく、真っ逆さまに。

 明滅する光が、

 ああ、青い。

 どさ、と他人事のような音がして、彼の身体が地面に着いた。その間、ものの数秒の出来事だった。

 彼に抱きしめられ、彼の身体がクッションとなって僕は無傷だった。

 僕は内心どきどきしていた。らしくもなく、生きていてよかった、と思っている自分がいるのに気付く。僕は本当は死にたくなかったのではないか、と思った。誰もいきなり腕を引かれて引きずり落とされるなんて思わない。

 件の彼は、地面に大の字になって寝転ぶと、

「あははっ、くだらねー」と笑う。そして空を見上げて言った。

「青って近いようで遠い。空は青いけれど、だからといってどこまで行っても青色の何かがあるわけじゃない。青はどこにもない。精神の色は青色をしているんだって。ある芸術家は表現を追い求めるあまり、自分専用の青い顔料を発明して――」

「インターナショナル・クライン・ブルーだろ」

「ちょっと待って……なんでIKB知ってるの!?」

「は?」

 思えば、日生の家には画集が沢山あった。僕は専ら読書が好きで、よく読んでいたのだ。

 イヴ・クラインは言った。青は最も非物質的で抽象的な色である。彼は理想的な青色として、自身のインターナショナル・クライン・ブルーを発明した。精神の色は青色をしているのだ。

 彼は訊きにくそうに訊ねてきた。

「ねえ、もしかして、君のお父さんって日生央真なの?」

「……そうだけど、お父さんを知ってるのか?」

「知ってるも何も……。日生央真は、系統的には超写実の潮流に与している。写実を超えた写実。彼の絵は生きていると言われる。芸術に疎い人が真っ先に思い浮かべる上手い絵画。オレンジジュースのようなもの。それもとびきり高級な果実を使った一流のオレンジジュースだ。子供から大人まで誰にでもその美味しさが分かる。でも、飲み物って、芸術ってそれだけだろうか。世の中にはコーヒーだって紅茶だってある。もっと難しい味のものが」

 ふと、こいつは日生央真が嫌いなのだろうかと思った。

 彼は上体を起こして、僕に目線を合わせた。

「ねえ君、大物になるよ。俺が保証する。

 大きくなったら、俺の専属の画商になってよ。俺、画家を目指してるんだ」

 それは初耳だった。

「それにしても、日生央真に隠し子がいるなんて。すごいこと聞いちゃった」

「僕のお父さんじゃない!」

 ほっとした反動からだろうか。僕の目からひとりでに涙が溢れ出てきた。泣きたくて泣いているわけじゃないのに、こいつにこれ以上弱みを見せるようなことはしたくないのに、そのときの僕は自分の感情を表現する術を持たなかった。自分にも他人にも。

 僕の頭を撫でながら、

「とりあえず君、泣きながらキレるのやめような。超面白いから……痛ッ」

 ところで彼の様子がおかしい。肋骨の辺りを押さえて呻いている。

「痛ェ、痛ェ。由一くん、先生呼んで! 骨折れた!」

 

 それから数年後のことだ。

 小学校の卒業証書のために、住民票のコピーを取り寄せた。それは封筒の中に入っていたが、出来心で僕はその中を見てしまった。

 そこに書かれていた僕の本当の名は、まだ瀧上由一といった。しかしその続柄の欄を見ると、そこに書いてあったのは『妻の子』という三文字だった。

 ――それでは、僕らを庇って死んだあの男は一体何だ?