雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下4-6

8-6.The Green-eyed Monster:緑の目の怪物

 「最初から長くなかったんだ」

 皮肉なことにも、僕らは始まりの場所――昏睡する父の入院している病院にやって来ていた。

 あの後、母は救急車で搬送された。脳に異常があり、緊急手術が行われることになった。

 手術室の前のベンチに背中を丸めて座る日生の姿は、普段より小さく見えた。

 そこで告白したのだ。

 話によれば、僕たちが日生と出会う前から、彼女は脳に病気を抱えていて、例えば父が倒れた頃に彼女が入院していたのもその手術のためで、それが再発したらしい。

「どうして教えてくれなかったの?」

 咎めるように麻耶が言った。

「どうしてって。言っても分からなかっただろ」

 僕にも彼を責めたい気持ちはあったが、彼の言っていることは本当だった。幼かった当時の僕らは、死の概念すらも理解できなかったからだ。

 その後、僕らは医師の部屋に通された。壁にほの白いレントゲン写真が掲げられた暗い部屋で、輪切りにしたヒトの頭部が写っている。

 そこには、車椅子に座る母の華奢な後ろ姿がある。一命を取り留めたのか。

「菜々――」

 日生が駆け寄って行くが、彼女は無反応だった。魂の抜けたような昏い双眸で虚空を見つめたまま、人形のように佇んでいる。

「手術は成功しましたが、意識は戻りません。おそらく、一生このままかと」

「…………」

「――ところで最近、奥様怒ったりしませんでしたか?」

「さあ……」

 日生は思い当たる節がないらしく、大真面目に首を捻っている。

「――あ!」

 麻耶が声をあげた。

「そういえば、由一がお母さんと喧嘩してた」悪気の一切ない表情で僕の顔を覗き込みながら、「何話してたの?」

「なんでもない」

「教えてよ。気になる」

「――血圧が上がって、脳のここの血管が切れたのでしょう」

 写真を見ながら大人たちが話をしている。

「そうか……」

 日生は母の前にしゃがみ込んで、泣きそうな顔で彼女を見つめていた。最初は落ち着いていたのに、次第に感極まってきたのか、こう叫んでいる。

「どうしてッ! 天上の神様とやら。俺みたいなクズを生かしておいていいのかよ」

「お兄さん、落ち着いてください」

「俺の命なんていくらでもくれてやるから、どうか彼女を助けてくれ――!」

「パパ」

 麻耶が日生のシャツの裾を掴んだ。振り向く。

「……何だ、麻耶」

「パパはいなくならないでね」

 それを聞いて日生は一瞬驚いた顔をしたが、やがて憔悴しきった顔に、わずかに笑みを浮かべた。

「ああ。俺はいなくならないよ」

「約束よ」

 口約束では信用ならないのか、彼女はさらに自らの小さな小指を差し出した。彼はしゃがみ込んで、それに小指を絡ませた。

 

 僕は入院している父親を見舞うために、日生と別れ、他の階の病棟に向かった。

 ……ベッドの上で上体を起こしている人影がある。

 父が目を開けていた。焦点の合わない瞳を、部屋のあちこちに彷徨わせている。

「お父さん?」

「……由一さん?」

 寝起きの彼の瞳は緑がかっていて、赤茶色が瞳孔の周りを光冠のように取り囲んでいる。

 彼の瞳は周りの普通の人のそれとは少し違っていて、瞳の中に宇宙の星を散らかしたようで、不思議だった。この黒い瞳も、大人になったら澄んできて美しくなるのだろうと、無邪気にも思っていた時期が僕にもあった。

「お父さん!」

 幼い僕は彼に飛びついた。彼の大きくて温かい身体に抱きしめられながら、僕はこの上ない幸福感に包まれていた。

 僕は告白した。

 僕の言葉のせいで、お母さんは意識不明に陥りました。

 誰かに話さずにはいられなかったのだ。そうしなければ、この身は罪の重さで潰れてしまいそうだった。

 それを聞いた彼は、急に目の温度を低くした。

「悪い子」

 氷点下の声で呟くと、いきなり僕の首を掴んだ。そしてベッド際の窓から頭だけを出させる。目が眩むような遥か向こうに地面が見えた。

「『もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれないほうがましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちないほうがましである』

 ――かわいそう。僕は由一さんが地獄に落ちてほしくないので、悪いその手を切り落としてあげます」

 どこから取り出したのか、いつの間にかその手には巨大な裁ち鋏が握られていた。もう一方の手が、容赦のない大人の男の力で僕の後ろ首と二の腕を押さえつけると、鋏の鋭い二枚刃をしゃき、と嚙み合わせて――。

 

 ――はっと目が覚めた。

 僕は悪夢を見ていたようだった。荒いのは自分の呼吸の音だ。

 父の様子を見に病室を訪れたのだが、知らない間に寝てしまっていたらしい。

 僕はしばらく呆然と座り尽くしていた。

 彼は驚異的な回復を見せて、今や一般病棟に移されていた。最初の頃からは確実に良くなっている。容体が安定してきたので、点滴やモニタ類も全て取り除かれ、傍目にはただ眠っているように見える。ただ、目が覚めないだけだ。

 自力で呼吸ができて、全ての内臓が正常に働いているのに、一向に目が覚めないのは、脳の中の見えないところに故障があるからだ。誰にも手の施しようがない。素人が壊れた電化製品を直せないように。

 父は相変わらず呑気な顔で寝息を立てている。目を覚ます気配は依然ない。

 あなたの妻は元恋人だとかいう男に寝取られたんですよ。――成長した今の僕だったら、そんな言葉の一つでもかけてやったかもしれない。

 柔らかな午の日差しが差し込む相部屋の片隅で、忘れ去られたように眠っていた。

 麻耶も日生も、この頃には彼を見舞いに行くのをやめていた。

 僕は、眠る彼に向かって言葉を投げた。

 

「さよなら」