雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下4-5

8-5.The Boy Who Cried Wolf:狼少年

  クラスメイトが何やら卑下た笑みを浮かべながら、僕に話しかけてきた。

「なあ、日生。あの女の人、誰?」

 僕は小学校で『日生』と呼ばれていた。いつの間に名字が変わったのか、名札にはそう書かれていたのだ。

「女の人?」

 嫌な予感がする。

「この前、お前んちに回覧板届けに行ったときさ、裸の女の人が出てきたんだけど。あれ、お前のかーちゃんだろ。お前のお母さん、いつもあんな感じなの?」

「違う。母さんじゃない」僕は咄嗟に否定していた。

「じゃあ、愛人? なあ、お前のお父さん、浮気してるんだろ」

「あんた、死ぬわよ」

 麻耶が嫌悪も露わに彼を睨みつけている。その歯の隙間から低い唸り声が聞こえてきそうだ。

「ねえ、由一、こいつ殺してよ!」

 僕が無反応なので、麻耶は泣きわめくようにヒステリックに叫ぶ。

「なんか言いなさいよ!」

 俯いた僕は内心恥ずかしく、腹立たしく、顔から火が出る心地だった。弱みを握られた、と思った。

 ――母は天真爛漫だが、頭が弱かった。記憶力が悪く、日生のこともすぐに忘れて、何度か名前を聞き直していた。人間というよりは植物や獣に近い。人工というよりも自然に近い存在で、本能と直感に従って行動する。

 確かに彼の言う通り、母は家の中では全裸で過ごしていた。衣服のまとわりつく感じが嫌、らしい。

 説得の末、外出時はさすがに服を着ることにしていたが、彼女は服を着て生活する僕らや日生を、こいつらは正気なのだろうか、という目で見たものだった。

 

 僕たち家族はリビングで、何をするでもなくただぼんやりとテレビを眺めていた。ソファーに並んで腰掛けている。

 そのとき、麻耶がふと言ったのだ。

「わたし、この中で眠っていたの」

 母の平たい腹、子宮の辺りを懐かしそうに撫でている。

「ほんとに? 信じられない」母は素直に驚いている。

 隣でくつろいでいた日生がふと口を挟んだ。

「麻耶、お母さんは好きか?」

「うん、好き! あのね、わたし、お母さんのお腹の中にいたときのこと、覚えてるの」

 幼い子供の中には、産まれる前の出来事を話し出す子供もいるという。だが僕にはそんな覚えはなかった。どうせ作り話だろうが、僕はそれに耳を傾けていた。

 それは双子の僕も初めて聞く話だった。

「お母さんとお父さんが話しているのを、お腹の中から聞いてたの。わたしたちの名前もお母さんがつけてくれたのよ。女の子が麻耶で、男の子が由一よって」

「そうか」日生は笑っている。「他には何か覚えてる?」

 彼は面白がって訊ねた。

 麻耶はもったいぶるように指を口元にやり、視線を斜め上に向けてしばらく考え込む。

「そういえばね、お父さんが『産まないで』って、泣きながらお願いしてた。わたし、殺さないで! ってお腹の中で叫んでたの。そしたらお母さんは嫌だって言って。守ってくれてありがとうね」

 一切の邪気がない顔だった。

 僕はふと日生の横顔を盗み見たが、目が笑っていなかった。時間が凍りついたように表情を喪失している。

 僕が見ているのに気付いたのか、はっと我に返って、先ほどから無言でいる僕を見かねて話を振った。

「由一は――」

「僕はそんなの聞いてない。麻耶の嘘つき」

 僕は部屋を飛び出した。あとから日生が追いかけてきたが、無視した。

 

「由一くん」

 振り返ると母がいた。手を後ろに組んで、僕の機嫌を取るように笑顔でいる。日生が弁解を諦めたので、大方様子を見てくると言ってあの場を立ったのだろう。

 僕が黙り込んでいると、目線を合わせてしゃがみこんだ。

「いいお母さんになれなくってごめんねえ」

「服着ろよ。恥ずかしくないのか?」

 母は今も裸でいる。

 いつからそう変わってしまったのだろう。僕はどうしてもこの変わり果てた母に馴染むことはできなかった。

 彼女の胸に抱きしめられると、温かくて柔らかくて、それが僕は嫌だった。

 僕の本当のお父さんが目を覚ましていれば、そんな露出の多い格好は許さなかっただろう。彼女は、堕落してしまったのだ。

「私の裸なんてみんな知ってるのに、今更なんだっていうわけ?」

 半ば自棄気味の、据わった声で言った。だがすぐに元の猫なで声に戻る。

「いつになったらお母さんとお父さんに懐いてくれるのかなあ」

「あばずれが」

 母は目を丸くした。

「それ、どこで覚えたの?」

「あいつに頼まれたのか?」

「……え?」

「お母さん。あいつに騙されてるんだよ。思い出してよ。僕たちの本当のお父さんは、あの病院で眠っていた人だよ」

 だが彼女は信じないようだ。ゆっくりと諭すように言う。

「由一くん。そうやって人を騙す嘘ばかりついていたら、本当のことを誰も信じてくれないよ。狼が来たと言って、嘘をついた男の子みたいにね」

「嘘じゃない!」

 まるで僕の頭がおかしいみたいな言い方をするなんて。

「じゃあ、彼はどんな人だったの?」

「…………」僕には笑えるほど、過去の父親の記憶がなかった。

「同罪だね」

 彼女は優越感を感じているのか、鼻で笑った。それが僕の気に障った。

 僕の喉から毒がこぼれ落ちた。

「人殺し」

「え、何? 私に言ってるの?」

 瞬間的に頭に血が上ったのか、母が腕を振り上げた。僕は身の危険を感じて、咄嗟に身を庇った。

 と、

「お母さん、由一、おやつだよ!」

 麻耶が扉の向こうから顔を出している。母が手を振り上げている状況を呑み込めないのか、僕らを交互に見る。

 母の腕を引っ張って、

「ねえ、お母さん、おやつ」

「はいはい。行きましょ、由一くんも」

 よく分からない状況よりもおやつを優先する彼女は、呑気な性格だったようだ。

 こんなことがあった手前、あまり同席したくなかったが、何かあったと奴に感付かれるのも面倒なので、表向き従順についていく。

 テーブルの上では既に喫茶の準備が整えられていた。

「頭いたぁい」

 頭を押さえながら、涙目でテーブルに着く母。

「薬呑むか?」

 日生は救急箱から頭痛薬を探している。

 麻耶は焼菓子に手を伸ばす前に、両手を胸の前で組んだ。それは祈りのかたちに似ていた。

「何してるんだ?」

「お父さんの真似! 嬉しいことや悲しいことがあったときは、神様に祈りなさいって。そしたら神様が助けてくれるんだって」

「麻耶はいいよな」

 僕は皮肉を言った。

 どうやら麻耶のほうは、生前の父親のことを覚えているらしかった。

 コーヒーメーカーに漆黒の液体が音を立てている。

 マグカップに注いだそれを、日生が一口すするのを見て、

「何飲んでるの?」

 黒い液体が麻耶にとっては未知のものだったのだろう。

「わたしも飲みたい」

「やめとけよ。大人の飲み物だから」

「苦い」

 制止を待たずに一口含んで、うげ、と吐き出しそうになる。日生は言わんこっちゃない、という顔をした。

 目を涙で潤ませながら、彼女は言う。

「わざわざ飲むなんて、大人って馬鹿なの?」

「そうだよ、大人は馬鹿なんだ」

 そういう顔はまんざらでもなさそうに見えた。

「嫌いな奴もいるだろう。けれど、一度その味を知ったら、病みつきになる。そういうものだ」

「へんなの」

 そんな会話を横目にしながら、僕はふと、黙り込んでいる母に目をやった。そして言葉を失う。

 僕の異変に気付いたのか、日生もつられてその視線の先に目をやる。

 白い陶器の取り皿に、頭を突っ伏して倒れている母を。

「……菜々? おい、菜々、しっかりしろ!!」「お母さん!」