雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下4-3

8-3.Morpho Helena:モルフォ蝶

  母が退院してから、僕たちは元いた家から日生の住む家に引っ越すことになった。

 奴の家は、天井から床まで、とにかく嫌味なほど白かった。

 非日常的で生活感がない空間だ。フローリングも白く艶々としているし、家具はモダニズムか何か知らないが、奇妙な形をしている。

 初めて部屋に入ったときのことを覚えている。

 居間に一歩踏み入れるなり、十数匹のモルフォ蝶の群れが一斉に飛び立った。

 モルフォ蝶とは、青い翅をした熱帯の蝶だ。

 彼の家では絵を描くために蝶を放し飼いにしていた。蝶に餌をやるため、部屋には熟れすぎた果実の、甘ったるい香りが充満していた。

 幼心に襲われると思ったのかもしれない。それまで先頭で意気揚々としていたのに、麻耶は泣きそうな顔で、後ろにいた日生の脚にしがみついた。

 彼は麻耶の反応が面白かったのか、笑っている。

「大丈夫だ。生きてる人間は襲わない」

 そう言って、麻耶の頭を優しく力強く撫でた。

 モルフォ蝶。――ある程度成長してから知ったことだが、熱帯の蝶は動物の死骸や腐った果実を食むという。

 その群がった蝶の向こうに、腐った死体が見える気がした。

 

「死体ごっこしよー」

 幼い僕たちの間で流行っていた遊びがある。

 死体ごっこというのは、文字通り死体のように横たわって、周りからどんな刺激を与えられても反応してはいけないという遊びだった。大抵の場合、死体の役をするのは麻耶で、それをつつくのは僕の役目だった。

 当時の僕は、正直それのどこが楽しいのか分からなかった。そんなことよりも外でサッカーや縄跳びをしたかった。だが、仕方なくそれに付き合っていた。姉に逆らうとあとが怖いからだ。

 日生が不謹慎だからやめてくれと言ったが、幼い彼女は何かを恐れるように、強迫観念にかられるようにそれを繰り返していた。

 

「仕事行けよ」

 朝。

 一般的なサラリーマンが出勤する時間になっても、日生は家に居座っていた。テーブルの上に平置きにしたキャンバスに、白い絵の具を下塗りしている。

「俺の仕事は絵を描くことだよ。画家なんだ」

「へえ。あなた、ゲージュツカなのね」

 テレビを見ていた母が声を上げた。

「あなたの絵、見たいわ」

 日生は渋ったが、どうしてもと言うので、僕たちは倉庫代わりに使っていた一室に入った。立てかけられたキャンバスの山の中から、彼が無難な静物画を引っ張り出していると、

「これ、私?」

 たまたま表に出ていたのを発見した。

 それは母が描かれた裸婦画だった。一糸まとわず生まれたままの姿で、しかし身体の前で交差した足の親指に、アメリカンチェリーのごとく真っ赤に艶めくピンヒールを引っ掛けているのが、妙に倒錯的な絵だった。

 と、母が素朴な疑問を口にした。

「なんでこの私裸なの」

「君の裸が美しいからだよ」

 彼は、彼女が昔、絵のモデルであったことを説明した。

 自分の裸体が美しく描かれていることは、この女にとってまんざらでもないらしい。

「央真さん」

 母は足の親指を、かぎの形に引っ掛けるようにして曲げて、髪を振って扇情的に彼を振り返った。

「踏んであげようか」

 彼女にとっては軽い冗談のつもりだったのだろう。

 だが僕は、彼が少なからず動揺したのに気付いていた。