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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下4-2

8-2.Santa Maria:サンタマリア

  週末、母に会いに僕たちが向かったのは病院だった。彼女はどうも頭の手術とかで入院していた。事前に聞かされていたのは、早い話、母は記憶喪失になっていた。

 病室に入ると、白いベッドの上で一人の女性が上体を起こしている。

「あなた、だあれ?」

 彼女は日生を見て、無垢な生娘のような表情で首を傾げる。

 彼は少なからずショックを受けたようなそぶりを見せたが、それでもベッドの傍に跪くと、優しい声でこう語りかけた。

「覚えてないだろうけれど、俺は君の夫だったんだよ」

 僕はぎょっとして、思わず彼を見た。嘘をつく彼の表情は一つも変わらない。何を言っているのだ、と思った。

 違う、と言おうとしたが、どうしてか声が出なかった。喉の奥が――今なら声帯と言えるのだろう――固まってしまって、震えない。声の出し方を忘れてしまったみたいに、僕の喉からは、きいきいという音しか出なかった。理不尽だと思った。呪われた。僕は人知れず地上で窒息していたが、誰もそれに気が付かなかった。

 だが彼女もそこまで単純ではない。

「嘘。指輪がないわ」

 彼女は彼の左手を引き寄せると、穴が開くほどの距離で睨んだ。それからふにふにと揉んだ。

 意外と鋭い。

 対する彼女の左手の薬指には、指輪が嵌っている。白魚のようなほっそりとした指に、華奢な白銀色の、どことなく優美な曲線を描いている、小指の先ほどの小さな、水のような青とも緑ともつかない微妙な色合いの宝石が埋め込まれた指輪。

「来ないでよ!」

 さらに詰め寄ろうとする彼に、手当たり次第に机の上の私物を投げつけ始める。

 宙を舞った聖書が彼の顔面を直撃し、鼻を覆った掌の下から血が垂れている。ぽたぽたと音を立てて床の上に散った血が、開いた聖書の上に降り注いで染みを穿った

 と、麻耶が日生を庇って前に出た。

「パパをいじめないで」

 両手を広げて立ちふさがる。驚いた彼女は手を止めたが、既に放たれた小物が麻耶の胸に当たって落ちた。さすがの彼女も子供相手に申し訳なく思ったようだ。溜飲を下げて優しく語りかける。

「ごめんね、わたし。お名前は?」

「麻耶」

「麻耶ちゃん、初めまして」

 麻耶はそこでこらえきれなくなったのか、振り向いて日生のズボンにすがりつき、堰を切ったように泣き出した。対する母は邪気のない表情で、きょとんとそれを眺めている。

 日生はため息をついた。

「この子たちは君の子供だよ」

「私の? 本当に?」

「君の名前は日生菜々子だよ」

 それから彼は彼女に写真を見せた。そこには確かに、彼と彼女が一緒に写っていた。僕から見ても相当仲が良かったらしい。そんな写真が存在すること自体夢のようだ。彼女は妙に納得して、

「あなたのこと思い出したいわ」

 とまでのたまった。

 

「おい」

 こいつは、刷込みよろしく記憶のない母のからっぽの脳に、偽りの記憶を注ぎ込んだのだ。

 こいつと母が夫婦のわけがない。彼女の夫だった人は、もっと別の人だ。それに麻耶だってあの男を庇うような真似をして。大体そういう奴じゃなかったのに。日生は一体どんな手段を使って麻耶に取り入ったのか。

 一旦病室を出て、麻耶が泣き止んだところで、

「ねえ、お母さんどうしちゃったの?」不安そうに訊ねる。

「悪い奴がやってきて、魔法をかけたんだよ」

 何を言っているのだ、こいつは、と思った。

 お母さんはお父さんを×したのだ。しかし肝心のその部分が霞がかかったようにぼやけて、うまく思い出せない。

 その後、再び母の病室に戻り、今度は彼女を連れてとある病室を訪ねた。

 見知った父がベッドの上で眠っている。

 心拍計の規則正しい電子音が鳴り響き、彼の周りを取り囲んでいる無数の透明な管は、青白い蛍光灯の光に照らされて銀色に煌めいていた。

 それはまるで呼吸する巨大な肉塊だった。

 口から管を挿れられて、ベッドの上で横たわったままぴくりとも動かない肉体の、胸郭だけが規則的に盛り上がるのがかえって不気味だった。それは人の形をした風船に無理矢理空気を入れているかのようで、その行為はどこまでも無意味に思えた。

 後に僕が瀧上牧師と呼ぶその人だった。どちらかというと男性性を感じさせない柔和な顔立ちをした男で、今は目を閉じている。

 血の気のない蒼白な顔は、白い布団に融けてほとんど埋もれそうだった。

「この人に見覚えは?」

 日生が母にそう訊ねたが、彼女は首を横に振るばかりだった。

「ごめんなさい。あなたの名前をどうしても思い出せないの」

 日生は温度の低い目で、ベッドに横たわる彼の身体を眺めながら、

「思ったより大分容体が悪そうだな……」

 病室に入ってきた医師が話しかけてきた。

「ご家族ですか?」

「兄です」

「そうですか。そこに座ってください」

 そうして医師は、極めて事務的に彼の状態を説明し始めた。

 今になって分かるのは、当時の彼がかなり死に瀕していたらしいことだ。

 片方の瞳孔が開いたまま閉じないこと。心肺停止の時間があまりに長かったので、脳細胞の一部が壊死して脳に障害が残る可能性が大きいこと。

 それから、今後のことについて相談し始める。

「――正直、おすすめはしませんね。回復の見込みはほとんどない。この状態で目覚めたら、奇跡と言ってもいいでしょう。これ以上続けても弟さんの身体を痛めつけるだけ。それなら、最期くらい静かに眠らせてあげたいというのが、私個人の本心です。医療人としては、言っちゃいけないことなんでしょうけど」

「――パパ、見て! 蝶々が沢山飛んでる。捕まえてもいい?!」

 麻耶は笑顔で病室の中をはしゃぎまわっている。

「延命を望みますか?」

 一瞬、日生の目が揺らぐ。そして麻耶を気の毒そうにちらりと見た。彼女は笑いながら、その見えない蝶とやらを無邪気に追いかけている。

「――考えさせてください」

「そうですよね、すぐには決断できませんよね」

 それを見越していたというふうに医師は淡々と言った。

 医師が退出し、入れ替わりに看護師が入ってきた。初老の男女を伴っている。彼らは横たわる彼を見るなり、人目も憚らずに彼の身体に縋り付いて嘆いていた。

 僕は確信した。彼らは僕たちの祖父母だ。

「おじいちゃん、おばあちゃん」

 駆け寄っていく。彼らは僕を認め、きっ、と睨みつけた。予想もしなかった反応に、幼い僕は少なからず傷ついた。

「お前たちは悪魔の仔だ」

 その声は呪詛に満ちていた。

 さらに祖母は母を指差して言う。

「この女がどこの馬の骨とも知れない男の子を孕まなければ。変な女に引っかかって、この子は優しいから結婚してやることにしたんでしょうけどね。あんたがいなければうちの子は死ななかった。大体ね、もっと早く処置していれば、こんなことにはならなかったんですよ!」

「私が何をしたっていうの?」

 だが記憶喪失の彼女に覚えはない。その言葉も火に油を注ぐばかりだ。

 穢れた女。畜生腹。一方的に罵られて、彼女も頭にきたようだ。こんな台詞まで吐いた。

「くそばばあ」

 ――と、一見冷静に見える日生が歩み寄り、いきなり老婆の鳩尾を拳で殴った。祖母はあっけなく床に倒れこんでむせている。祖父が慌てて介抱する。

「何するんですか!」

「二度と子供たちの前でそんなことを言うなよ。殺すぞ」

 わけが分からない。

 話によれば、今度目覚めたお父さんは、僕たちの知っているお父さんじゃないかもしれないらしい。何が何だか分からない。母は記憶を失い、見知らぬ男が父親面しているし。姉は相変わらず頭のおかしいことを言っているし。

 僕は病室の真ん中でただ一人、沈黙している父の指を握りしめた。全身を冷却剤で包まれていて、恐ろしく冷えている。弾力がなく、人間の肉とは思えない感触がした。まるで保冷箱の中の生肉のようだ。

「お父さんはどうなった」

 帰りの路で僕は日生に訊ねた。

「由一」

 しゃがんで僕と目線を合わせた彼は、ひどく生暖かい目をしていた。

「諦めろ」