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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下4-1

8-1.Angel Fall:天使が落ちてきた日

 「ゆういち、お腹空いたねえ」

「…………」

 僕が返事をしないので、僕の片割れはむっと顔をしかめてから、興味を失ったようにそっぽを向くと、上機嫌に鼻歌を歌い始めた。僕はただ彼女を軽蔑して、何を呑気なことを言っているのだ、と思った。胸が詰まって、到底食欲なんて湧かなかった。

 白い病院のロビー。高層の大開口の窓に面していて、見下ろせば湘南の湾岸が見えるなかなかの絶景だ。

 幼い僕は夕焼けを見上げる。ベンチの下でぶら下がった足は床につかない。

 と、

「すまない、待ったか?」

 前方から一人の男が歩いてきた。細身の黒いジャケットに、その中に着た傷一つない白。ブランドものとかいうのは分からないが、一見シンプルでありながら細部にこだわり抜かれたそれは、その男がひどく美的感覚に優れているらしいことを、控えめに主張していた。

 背の低い、痩せた男だった。美形とまで言っていいかは微妙なものの、鼻筋の通った整った顔立ちをしている。彼は、僕たちの父親とは全く異なる属性を持つ人間だった。研ぎ澄まされた鋭利な気配が、狼を思わせた。無造作に伸びた前髪の間から、ひび割れた眼が覗いていた。それを見て、生理的な嫌悪感が駆け上った。それは近親憎悪だった。鏡で見た僕の眼によく似ていたのだった。

 開口一番、麻耶は訊ねた。

「おじさん?」

「お兄さん、って呼べよ。まだおじさんって言われるほど年を食ってないつもりなんだけどな」

 男はちょっと傷ついたというふうに頭を掻いた。確かにおじさん、は言いすぎだろう。彼は当時二十代半ばくらいだった。

「おじいちゃんとおばあちゃんは?」

「来れないんだって。だから代わりに俺が来た」

 子供の警戒心を解くように、しゃがみこんで目線を合わせる。人当たりがいいがどこか作ったような笑顔が胡散くさい、と思った。

「行こうか」

 信用できないが、この人についていくしかなさそうだ――。子供ながらにそう悟って、僕は力なく頷く。

 さらに、男は麻耶の手に指をひっかけようとする。

 ――だが、幼い子供が赤の他人にそう簡単に心を許せるはずもない。

「やだ!」

 と、一目散に駆け出していく。

 男は――日生央真は、残念そうに頭を振って、先ほどから黙りこくっていた僕を振り返った。

「悪いけど、ここで待っていてくれないか?」

 僕が頷くと、満足げに僕の頭に手を置いて、続いて肩に触れ、麻耶のあとを追って走り出した。

 

 どうしてこんなことになった。

「チェストベリー……。ハーブティーか。コーヒーとか気の利いたものはないのかこの家は」

 あの男が、人の家の戸棚を勝手に開けて覗き込んでいる。ガスコンロでは薬缶が喚いている。何か飲もうとしているらしい。

 戸棚の底をひっくり返して探し、やがて仕方なくそのチェストベリーとやらを湯で抽出し、一口すするなり、「まっず」と顔をしかめたりした。

 なんなんだ、こいつは。一人芝居のようだ。

 ただ、家のもの全てが彼を拒絶している、その事実だけがいい気味だった。

 彼はひとりでに、今度コーヒーを買ってこないとな、と呟いた。

 僕の父と母が座っているはずだったリビングのソファーには、出会ったばかりの謎の男が腰掛けて、分厚い本を読んでいる。

「『愛と疑いは一緒に居られないのだよ』」

「何読んでるの?」

 麻耶が日生の太ももの上に飛び乗り、訊ねた。そこを自分の特等席だとでも思っているらしい厚かましさだ。

 その本は黒い革表紙に金糸で刺繍がされている。

ギリシャ神話だよ」

「お前、神様なんかを信じてるのか?」

 僕は半ば馬鹿にするように訊ねた。そのときの奴の言葉を忘れられない。

「信じてはいないけれど、神様を信じていない人より、信じている人のほうが面白いだろう?」

 そう言って笑った。純粋な、少年のような笑顔だった。

「世の中の偉大なものは、それを信じていた人たちによって作られたということを、忘れてはならないんだろうな」

「これは天使?」

 麻耶が挿絵の上の羽の生えた赤子を指差す。

「これはアモル。翼のある神様で、彼は黄金の矢と鉛の矢を持っていて、黄金の矢が刺さった人は、目の前にあるものに恋をしてしまう。反対に、鉛の矢が刺さった人は嫌いになってしまう。そして、一方に黄金の矢が、もう一方に鉛の矢が刺さったときは、永遠の片思いに苦しむことになる」

「パパも苦しんでいるの?」

 麻耶がどうしてそんなことを訊ねたのかは分からない。ただ、彼女は敏感で、大人の心を読むことに長けていた。

「パパは好きな人いるの?」

 ああ、とも、いや、とも言えない調子で言葉を濁す。

「パパ、奥さんいないの?」

「俺の恋人は芸術だよ。作品は俺の子供たちだ」

「つまりいないんだな」

 僕は口を挟んだ。

「やった」

「やったってなんだよ」心なしか傷ついて見える。

「わたし、パパと結婚する!」

「俺と麻耶は結婚できないんだよ」

「なんで? パパ、わたしのこと好きでしょ」

「どこから来るんだよ、その自信は」

「きらい?」目を潤ませて訊ねる。

「好きだよ」

 ため息をつく。

「……大人になったら分かるよ」

 何よりも僕を苛立たせたのは、姉の麻耶の態度だった。

 あの日。日生が麻耶を見つけて戻ってきたときには、彼らは異常なくらい仲良くなっていた。もう一人のお父さんだから、これからは『パパ』と呼ぶのよ、なんて大して年も変わらないのに、偉そうにご高説を垂れたりもした。最初は拒絶していたくせに。僕は、麻耶が媚びているようで嫌だった。

「ねえ、お父さんとお母さんは?」

 先日から帰ってこない父と母。幼い子供でもさすがに不審になってくる。

 日生は急に神妙な顔になった。迷うように天井の片隅を見上げ、

「なあ、お前たちの父親、死ぬかもしれない」

 きょとんとしている僕たちに、

「死、分かるか?」

「わかんない」

 あっけらかんと麻耶が言う。

 彼は生暖かい目で僕らを見つめると、頭を撫でながら、

「――なあ、もしあいつが死んだら、一緒に逃げようか。俺と、お母さんと、お前たちで。どこか遠いところへ。一緒に暮らそうか」

 うっとりとした目で、僕らを撫で続けた。