雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下3-16

7-16.Melt Down:メルトダウン

 『奴に復讐したいかい?』

 由一の問いに、俺は首を横に振った。

 復讐するな、と瀧上牧師に言われていたし、その相手は俺の守りたい大切な人々のうちの一人だったからだ。

 それよりも俺は、生徒会の奴らのことが気になっていた。

 この世界の人々は、無自覚に他の誰かを虐げている。この世界のバランスは他者を損ねることによって成り立っている。

 幸福というものは、シーソーの上に乗っていて、どちらかからどちらかへ、サラサラと砂のように流れ落ちていく。

 富豪に富が流れ込めば、その分庶民たちの富は小さくなる。誰かが富めば、他はその分だけ貧しくなる。

 俺たちがコンビニで安くチョコレートを買い求められるのも、ガーナやコートジボワールの農民からカカオを安く買い叩いているからだ。そうでなければ、チョコレートは子供が気軽に買うことのできない高級品になってしまうだろう。

 幸福の総量は決まっているということだ。

 この世は小さな悪意で満ちている。

 神様は俺たちを完璧には作らなかった。

 俺が捌きたいのは、巨悪ではなくグレーの近くに存在する、露呈せず浄化されることのない悪だ。

 自分だけは無実で、罪がないと思っている偽善者ども。

 自分が念願の昼食にありついているとき、一体どれだけの人が紛争地域で虐殺されている子供たちのことを思い出すだろう。

 どうやら俺も潔癖性になってしまったみたいだ。

 これは復讐ではない。牽制だ。

 俺の愛する人たちが、彼らの幸福のために搾取される前に、彼らを排除することにした。

 俺は自分の通えなかった高校に忍び込んだ。俺は元々ここに入学する予定だったので、制服を持っている。

 書類の上で、路加高校に東郷瑛良という生徒は存在しない。

 二十一gの魂よりも軽やかで重い、俺の実存。

 俺は歌でも歌い出しそうな足取りで廊下を歩く。身体が軽い。背中に羽が生えたみたいだ。

 面白いもので、制服姿でいると誰もが俺がこの学校の生徒であることを疑わない。

 俺は階段の踊り場の鏡の前で、東郷瑛良という人間を規定している包帯を、一つ一つ解き放っていく。

 そしてまた歩く。

 二年生のフロアに辿り着いて、当時の生徒会会計を呼び出す。

 第一印象で、良い奴そうだな、と思った。爽やかで人当たりがよくて、清潔感がある。友人として付き合ったらきっと楽しそうだ。だがそれは彼の世界の内側の人間の話で、外側の人間に対しては驚くほど冷淡なのだろうな、とも思う。

「何の用?」

 初対面の俺にも一切の警戒心を抱かずに、微笑みを浮かべた彼の喉笛を、懐から取り出したナイフで切り裂いた。

 背後で悲鳴が上がる。彼は頸から霧状に血を噴き出して倒れる。それを見て、神様すごいな、と思った。あんなに圧力をかけて脳に血液を送っているのに、俺たちの血管は壊れないのだ。

 噴き出した血は壊れた俺の脳によって、紙吹雪の幻覚に変換される。

 命を紙切れのように散らす。

「こんな、ひどい……」

 辺りはみんな逃げ出してしまっていたが、一人だけ事切れた少年の傍にいる。

 怪物を見るような目で俺を見る。

 でもさ、

 『普通』って何だ? 『正常』って何だ?

 そんなもの、どこにもなくて、みんなが信じている神様のようなものなんじゃないのか? そんなどこにも存在しないものを信奉している奴こそ、異常だし、危ない奴なんじゃないのか。

 ごく普通の人が、犯罪者を声高に殺せと言う権利はあるのだろうか。鬼の首を取ったかのように。そのほうがよっぽど残酷じゃないのか。ときに、なんでもないただの人間のほうが残酷なときがある。

 イエス・キリストは言った。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい』と。

 逃げ出さないのはあまりのことに感情が麻痺してしまったからか。何にせよその勇気には敬意を表する。だが俺はそいつのことを、ものすごくどうでもいい、と本心から思った。

 魂のある鶏や豚や牛を、食べるために殺してもよいのならば、魂のある人を殺してはならない理由は一体どこにあるのだろうか。

 俺にとって今や、人の命とは紙切れのように軽いものだった。もちろん魂は存在しない。繁殖しては死ぬ蠅と同じ。何匹生まれようが、何匹死のうが世界は変わらない。

 俺は殺された彼の恋人の気持ちを想像できなくなっていた。彼の両親の気持ちを想像できなくなっていた。

 この頃、よく考えるんだ。シェイクスピアハムレットは正気だったのか、それとも狂ったふりをする前から、とっくの昔に発狂していたのか。それと同じで、俺の本性は最初からどこか壊れていたのかもしれない。

 俺は走りながら、今までに感じたことのないような気持ちを味わっていた。

 世界がこんなにもはっきりと見える。

 目が醒めたような気分だった。今まで俺がいたのは偽りの世界で、こっちの世界こそが本当だったのだ。

 この気分の高揚したまま、行く先は一つしかない。

 俺は自分の世界の内側の人間――美玲や由一や律人や露綺やその他の人たち――を、それ以外の外側の他者に、潜在的な悪魔に傷つけられないように守ることにする。

 

 俺のやることは、嬉々として麻耶の死体を見に行った当時の生徒会役員どもを、皆殺しにすることだった。