雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下3-15

7-15.Colorless Dinosaurs:無色の恐竜

  恐竜の皮膚はピンク色だったという。

 そんなことをまことしやかに言うが、本当のところは誰も知らない。恐竜は俺たちが生まれる遥か昔に、絶滅してしまったからだ。

 恐竜の皮膚の色について、新発見があるたびに恐竜図鑑は描き換えられていく。実際恐竜には何かしらの色がついていたのだろうけれど、その皮膚の色という、ヒトの皮膚が肌色であるくらい一目見れば自明な事実は今となっては失われ、もう分からないのだ。

 ……まさかゼラチンのように透明だったということはあるまい。

 でも恐竜の皮膚の色が何か分からなくても、俺たちは今のところ生きていけている。遥か大昔に死んだ生物のことなんて、実際のところみんなどうでもいいのだ。

 そして現在の俺たちがそうであるように、未来の人々は現在の俺たちのことなんて多分どうでもいい。誰も名もなき俺たちのことを、必死になって調べて、探してはくれない。

 人は、人から忘れ去られたときに死ぬのだ、と誰かが言っていた。

 人の記憶から消え、記録から消え、歴史から消えたとき、その人は存在しなかったのと同じになると思う。誰かの胎内から産まれ、生きたという事実を証明できなくなる。

 イエスさまは実在したのだろうか。それを知る術はない。彼は二千年以上前の人で、今生きている人たちで彼を見たことのある人は誰もいない。

 最近の歴史の教科書では、聖徳太子を習わないのだという。どうも彼は実在しなかった架空の人物であるという説が有力になってきたようだ。逆を言えば、俺たちはしばらくの間、存在しない人を実在する人だと思い込んでいたということだ。いつの日か、ガンジーは実在しない人だったと言われる日が来るかもしれない。

 本当の意味で歴史は存在しない。

 世界が五分前に始まったとしても、誰も反論できないのだ。

 俺は麻耶が死んで、初めて律人に話しかけた。

 彼は俺を初めて認識したような顔で俺を見た。普通に接していた週の終わりに、俺と自分は友達だったのか、と申し訳なさそうに訊ねてきたのだった。

 あとで分かったのは、彼には深刻な部分健忘症があるということだった。彼は俺のことを忘れていた。

 麻耶のことを話すかどうか迷ったが、やめた。

 記憶という、一番大切なものを失ってしまった律人は、あの頃と比べて随分頼りなくなってしまった。

 いや、あの頃は露綺に影響を受けていたせいか、大分殺伐としていた。露綺と同じ目をしていた。

 だが今の彼は、そんな重荷から解き放たれたかのように安らいだ表情をしていて、憑き物が落ちたかのようにすっきりとしていた。多分、これが本来の彼の姿だ。

 俺は彼の友人として、寄り添い支えていくことを決意した。

 

 あの後、瀧上牧師は俺に麻耶の写真のアルバムを貸してくれた。どうも彼女を偲ぶ来る人来る人に見せて回っているらしい。

 ……やっぱり、あの人のこういうところが苦手だ。

 真綿のような善意で緩やかに首を絞めつけてくるから、窒息しそうになる。

 ところで写真を見ると、カメラを向けられているので当然笑顔が多い。

 それを見ていると、まるで麻耶という人間は明るくて可愛い女の子だったのではないかという気がしてくる。

 だが、記憶を辿れば、彼女は怒ったり、憎んだり、妬んだり、もっと様々な、むしろネガティブな感情を表現する子だったような気がする。

 美玲とテーマパークに遊びに行ったときのこと。

 そこの係員が、写真を撮りましょうか、と提案してくれたのだ。

 美玲はどうします、と言わんばかりにこちらを振り返った。彼女は写真映りを気にしているのか、写真を撮られるのがあまり好きではない性格のようで、俺はどちらでもよかったが、それを知っていた俺は断った。今日のことは俺たちの頭の中に、思い出として記憶されているから、写真なんて必要ないと。

 すると、本業はカメラマンなのかもしれない、心底写真が好きそうな彼は、笑いながらで深刻そうな口調ではないものの、念を押すようにこう言ったのだ。

 『でも、思い出は裏切りますよ』

 実物があるんだから写真なんか撮らなくていいじゃないか。

 ――実物があるときは実物を何よりも表しているのはその実物自身だが、それが失われたとき、写真は実物を伝える唯一の資料として、実物以上の価値を帯びる存在へと昇華する。

 紛い物が本物を超えうるということ。何者も頭の中で作り出した像には敵わない。

 例えばサイコロの一番良い面を切り取ることによって、全ての面もそれであるかのような錯覚。

 写真は彼女の最も良い一面のみを切り取ることによって、麻耶という実物全体の魅力を底上げしてしまったのだ。

 写真は思い出を美化する力を持っている。実物を実物以上に見せる力。

 もし彼女を知らない人がこの写真を見たら、麻耶を明るくて何の悩みもない子だと誤解してしまうだろう。

 俺たちのことは、いつも正しく伝わらない。史実と言われているものだって、結局は研究者の解釈したそれだ。

 俺が死んだあと、俺を真に理解してくれる人はいない。

 麻耶は俺に色々なことを訊ねたものだった。

『ねえ、あきら』

『何』

『なんでにんげんって二足歩行するんだろうね』

『知らねえよ』

『四つん這いで歩いたほうが動物としてずっと合理的なのにね。

 この前、登校してる高校生を見て、みんな同じ制服を着て、腕を振って二本足で彷徨うゾンビの群れに見えて、ぞっとしたの。無理のある姿勢で歩いているのが滑稽で滑稽で』

『うん』

『それを言ったら由一に馬鹿にされた』

『ふっ』

『ちょ、笑わないでよ!』

 また、こんなことを言う日もある。

『なんで赤ちゃんって泣くんだろうね』

『赤ちゃんは泣くだろ』

 彼らは言葉も心も未発達だから、自分の心を言葉で表現できないし、なんなら自分の感情も自分でよく分からない。だから泣くしかない。

『あんたおもしろくない。張り合いがない』

 分かったよ。

 悟ってしまった俺には、彼女の言葉も所詮子供のわがままだ。

『きっと頬を撫でるそよ風すら沁みるんだ』

 目を細めて、碧く煌めく窓の外を見た。

『多分、この世界の本当の姿はもっと過酷で険しくて、それを感じないようにわたしたちは無意識にフィルターをかけているんだ。きっと魂のまま裸でこの世界に放り出されたら、痛みで狂っちゃうんだと思う。みんな、ものすごくドンカンになっているの』

 ――そよ風が痛かった麻耶。

 どうして麻耶は自殺してしまったのだろう。

 幻覚が原因でいじめられたのかな。

 あの日、学校が嫌いだと言った彼女は、何かを訴えようとしていたんじゃないか。あれは彼女なりのSOSだったんじゃないのか。

 なんで彼女を止めてあげられなかったのだろう。

 後悔ばかりが募る。

 俺は律人が恐ろしい。

 人が人をあんなに簡単に忘れられるものなのか。

 やっぱり記憶が全てなのか。どんなに尽くしたところで、彼の中ではなかったことになるのだ。

 あまりにもえぐい。

 彼女はもう俺の頭の中だけにしか存在しないのだろうか。

 でもあの揮発油の鼻をつくにおい、白い鳩の暖かさはリアルで、それが偽物だったとしたら、俺はもう何も信じられないではないか。

 抱きしめる身体はどこにもない。彼女の残り香をかき集めるだけ。

 ふと一人になった瞬間、麻耶がもうこの世のどこにもいないという現実が襲いかかってきて、俺は膝を抱えて泣いた。

 

 東郷瑛良という人間は、複数の人格からなる複合体である。

 ……別に多重人格者だと言っているわけではない。俺も含めて人間というものは、いくつもの仮面を時と場合によって使い分けているものだ。家族といるときの自分、友人といるときの自分、教師と話すときの自分――サイコロが六つの面を持っているように、俺たちは無意識に見せる面を変えている。

 そういうわけで、俺は今、友人と接するときの人格を表に出している。これは反射のようなもので、どんなに物思いに沈もうが、自分の名前を呼ばれた瞬間、俺はこのちゃらんぽらんな底抜けに明るい人間を演じてしまう。

 目の前にいる律人も、俺がこうやって内心色々考えていることには気付いていないだろう。元気なふりをするのはほとんど無意識的にできた。

「――おい律人、聴いてるか?」

「ん…………何?」

 窓の外を見ながら物思いにふけっていたらしい。驚いて目をしばたたかせる律人の顔は、幼く見えた。

 名前も知らないクラスメイトの椅子を拝借しながら、俺は律人と話している。

「だから、教育実習生だよ」

 五月下旬の月曜日のことだった。

 路加高校には今日から二週間、春の教育実習生が来ることになっているようだった。その中に、ミズヤマシズキの名前があったのだ。

 ところで俺は、あの顔をどこかで見たことがあるような気がしていた。露綺の実の兄なのだから顔が似ているのは当たり前なのだが、それ以外で。

 俺は彼に直接被害を受けたわけではないのだが、嫌な予感がする。

 何と言ったって、露綺と律人が危険人物だと口酸っぱく言ってきた人物だ。

「美術の実習生が、男だけど何か、滅茶苦茶美人だって騒がれてる奴なんだけど。……って、何言ってっか分かんねえな。男に美人って言うとか認めん、邪道だ」

 ……どうやら見る限り、彼は俺に警告したことを覚えていないようだ。

 ここで下手に警告して信用を失い、話を聴いてもらえなくなるのもそれはそれで困る。彼が奴と接触する機会はそうないと思いたいのだが、何かいい方法はあるだろうか。

 気付いてくれ。

 俺はとりとめのないことを口にしながら、脳を回転させ続ける。

「そうそう、美玲が好きそうな顔の奴だな」

 そういえば、彼女は俺と別れたあと、幼馴染の由一と付き合っているようだ。裏切られたような気持ちになるかというと、別にそれはよかったんじゃないかと思う。

 反応が薄い、と麻耶は言った。

 その通りかもしれない。

 自分の心の振れ幅が段々小さくなっていくのを感じる。

 全てを悟った気になって、物事への興味も薄く冷めている。末路は廃盤になった人間だ。だから、普通の人間である律人は関わらないほうがいいし、彼だけは関わらせたくない。

 図書館で読んでいた本で、ある一節が頭に残った。

 ――異常な人間は自分が異常だということに無自覚です。

 ――普通の人でも、見えないストレスの蓄積が臨界を迎え、突然奇行に走ることがあります。

 まさに俺のことだな、と思う。自分では正常な気がするが、周りから見るともう発狂しているのかもしれない。

 閑話休題

 彼女が彼の手に負えるかというと微妙だが、男の友情だ。彼らが付き合うと決めた以上、とやかく言うなど野暮なことはしない。

「ミレイ?」律人が首をかしげる。そして笑って言った。「新しい彼女さん? 本当にすぐに変わるよね」

「は? だから美玲だ……あ、ごめ、ん……」

 美玲が俺の新しい彼女。そうか、と自虐的に顔を歪めた俺の表情を敏感に読み取ったのか、彼も伝染したように顔を苦くする。

 俺は空気を変えようと頭を振った。

「律人は覚えてないのか、これ。いいや、忘れてくれ。それより、その先生のことなんだけど――」

 と切り出したところで、始業開始のチャイムが鳴った。前扉から彼のクラスの担任が入ってくる。俺はこの学校の存在しない生徒なので、同級生は騙し通せても教諭に見られるのは少々まずい。

 俺は舌打ちをして、雑踏に紛れながら教室を出た。

 

 それから、由一に話を聴きに彼の元を訪ねた。麻耶の死を目撃したことについて訊くためだった。

 麻耶が自殺したのは、一年前の春のことだった。

 彼は生徒会室にいて、仕事をしていた。その教室の窓を麻耶が逆さ向きに落ちて通過していった。人体が地面に激突する音と、後ろから上がる悲鳴。

 窓の傍へ麻耶の墜落死体を見に行った他の生徒会役員全員とは裏腹に、由一は上に向かった。屋上だ。

 だが、そこには何もない。誰もいない。

「なあ、東郷。僕は麻耶は自殺じゃなくて、誰かに殺されたと思ってる」

 由一はそんなことを言う。テーブルの上で組んだ手に顎を載せて、前に身を乗り出す。

「麻耶を突き落とした犯人には、思い当たりがあるんだ」