雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下3-14

7-14.The Hermit:隠者

  瀧上牧師に呼び出されて、俺は由一の家を訪ねていた。

 彼らは古い借家の一軒家に住んでいる。事故物件らしく、格安で借りている。昔この家で刃傷沙汰があったそうだ。廊下の板張りには、前住んでいた人のおびただしい血が染みついている。クリーニングは済んでいるそうだが、そこを通るとき、彼らは何を思うのだろうか。

 家は小さいながらも庭付きで、サッシの外にはハーブガーデンをこしらえている。基本草なので、植物に詳しくない俺には、無造作に雑草が生えているようにしか見えないが。最近忙しいのか少し荒れ気味のようだ。

 ところで、カトリックプロテスタントの違いを知っているだろうか。

 儀式や行事が多くて、華やかなのがカトリック。だが中世は聖職者が腐敗し、免罪符が横行した。そこでルターが立ち上がり、宗教改革が起きた。

 プロテスタントには秘儀がなく、彼がいつも首に提げているロザリオも、何か宗教的に意味があってつけているのではない。ただのアクセサリーだ。さらに聖人信仰がなくて、マリアさまはただの人間。プロテスタントでは聖書の言葉だけが根拠であり、言葉に忠実だ。

 そんなキリスト教の中で最も禁欲的な、プロテスタント牧師の家庭は、ものがほとんどなくてすっきりと片付いている。由一も麻耶も欲しがらないのだ。

 リビングには大きな本棚があって、神学書の他、雑誌や漫画もある。瀧上牧師が説教に使う言葉をいつも探しているのだ。彼は文字の書いてあるものなら何でも読む。画集は麻耶と由一のだろう。

 閑話休題

 家には彼一人しか見当たらない。由一はバイトだ。

 いつもの祭礼服ではなく、その下のワイシャツ姿の彼は、なんというかどこにでもいる普通の壮年男性だった。

「これを君に持っていてほしいと思って」

 一枚の紙切れだった。

 畳まれているのを開く。それは失踪宣告書という見慣れない書類のコピーだった。欄には瀧上麻耶の名が記入されている。

「何、これ」

「日本の法律では、失踪から七年経つと、失踪者を死亡したことにできることを知っていますか?」

 俺は別に法律に詳しくない普通の高校生なので、首を振る。

「もう一つ別に、特別失踪というものがあります。災害や墜落事故といった、誰がどう見ても死亡したのが確実な状況で失踪して、生死が不明な場合、その一年後を待って家庭裁判所に申し立てることで、失踪者を死んだ者として扱うという制度です」

「それと麻耶と何の関係があるんだ?」

「麻耶さんがいなくなってから、これで一年が経ちます。由一さんや弁護士の方と相談して決めました」

 そこで俺は初めて知ったのだ。

 ――麻耶は一年前に自殺していたのだそうだ。

 そんなのはおかしい、と思った。だって彼女はずっと俺の病室に顔を出していたのだから。

「そんなはずはない。麻耶はいるぞ」

「ではきっと、君の見たのは幻でしょう。麻耶さんは……学校の屋上から飛び降りました。それを由一さんが見ていたそうです」

 あの由一が嘘を言っているとは思えなかった。

「僕たちはこうすることでしか、気持ちの整理をつけることができませんでした」

「もう少し待ってやったらどうなんだ?」

「麻耶さんはきっと帰ってきません」

 俺は自分の子供を亡くした親がどんな気持ちになるか、想像することはできない。

 だが期待を持たされたまま生殺しにされるのは、想像する以上につらいことなのだろうな、と思った。

 それにしても、

 どうして俺なのだろう。

 答えは分かりきっている。麻耶は友達がいないからだ。それこそ彼女の世界には、両親と弟の由一と俺しかいない。

 いや、麻耶は本当にいるのだろうか。

 俺たちが頭の中で作り出した幻ではなかったか。

 

「なあ、お前、本当にいるの?」

「何よ、藪から棒に」

 訝しげな目で見る。

「どうして俺の前に現れるんだ?」

 俺の隣には相変わらず彼女がいる。俺はおかしくなってしまったのだろうか。側から見たら、俺が一人で会話しているようにしか見えないのだろうか。

 死んでしまった奴が生き返るわけがないのに。

 いや、麻耶が自殺する前から、俺は疑い始めていた。瀧上麻耶という人間は本当に存在するのか。俺にしか見えていない幻ではないのかと。

「お前は本当にいるのか?」

「さあね」

 麻耶の幻影はとぼけてみせる。

 その悪霊に瀧上牧師から託された書類を渡してみると、彼女はこの世の終わりみたいに慟哭していた。

「わたし、どこにもいない子になっちゃったよお!」

「取り消す方法はないのか?」

 例えば、死んだものと思い込んで失踪宣告したものの、何事もなかったかのように帰ってきたりとか。

「わかんない……」

 涙目で言う。麻耶も法律に詳しくない普通の女子高生だ。

 俺はちょっと考えたほうがいいと思っていた。

 この失踪宣告書が本物かどうかも分からない。それに、麻耶の自殺がその特別失踪とやらに入るのかどうかも。

 要するに、もう少しよく調べてみる必要があると思うのだ、俺は。

 だが動揺している麻耶にその言葉は届かない。

 というか、

「そもそもお前はなんで自殺したんだ?」

 俺は失踪宣告書を見つめた。

 この紙切れ一枚が。サイン一つが、人を殺した。

 社会的に麻耶は、この世界のどこにもいない人間になってしまった。

 俺たちの存在なんて、社会の上では一枚の書類にすぎない。

 書類といえば。

 シェイクスピアの戯曲『ハムレット』で、伯父から「ハムレットを処刑せよ」という手紙を持たされて、イギリス行きの船に乗る場面がある。ハムレットは機転を利かせ、ハムレットではなく一緒に乗っていた従者二人を殺すようにと手紙を書き換え、祖国に舞い戻ってきた。

 ローゼンクランツとギルデンスターン。

 彼らも、国王からの書簡という一枚の紙切れと言葉で殺された人々だ。

 彼らはスパイで、ハムレットを監視するべく、幼少の頃から一緒に育ってきた幼馴染だ。

 その箇所を読んで俺はぞっとした。たとえ護身のためとはいえ、旧い学友を二人も生贄にできるだろうか。何の罪悪感もなく。あの時点でハムレットはとっくの昔に狂っていたのだと思う。

 ちょっとは、心は痛んだのだろうか?

「あきら」麻耶はさっき喚いていたのが演技だったのかでもというふうに、けろっとした顔で言う。女の切り替えは早い。「死ぬってそういうことよ」