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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下3-13

7-13.Capgras Syndrome:カプグラ症候群

 「瑛良って、心を閉ざしているよね」

 律人が言った。

「そうか?」

 俺は両手の人差し指で口の端を引き延ばす。いびつな笑顔になった。

「うん。いつもニコニコしているけれど、本当の自分をそれで隠しているような気がする。でもって本当の君は、海の底からカメラみたいな目で、僕らをじっと観察しているんだ」

「そんなことないって。俺はいつだってオープンだぜ」

 ……律人の奴、こういうときだけカンがいい。鈍感に見えて変なところでキレがある。

 それにしても、彼に指摘されたからには、もう少し上手に演じないとな、と思う。

 俺は、頭の検査のために入院を希望した。

 眩暈と幻覚を伴う頭痛。医師はなんともないと言うが、それでも俺は心配だった。

 律人が病室に見舞いに来てくれた。

「なあ、俺の病気、何か分かったか?」

「分からない。頑張って調べてるんだけど……」

 律人は図書室で借りてきたという医学辞典をめくっている。たかが高校の図書室だから入門書にすぎないけれど、それでもいい。

「そうか……。なんか、ごめんな」

「ううん、僕も勉強になるからいいよ。面白い――いや、変わった病気があるんだなって」

 俺は律人の失言に笑った。

「いいよ。続けてくれ」

「例えば、この『カプグラ症候群』。見知っている人がその人と瓜二つの偽物に入れ替わっているという妄想で、親しい人を見たときに湧き起こるはずの情動が、彼らの中で切れてしまうことで起こるんだって。それで、最初の患者だったM夫人が言うには、乳児のときに死んだ夫人の子供たちは実は替え玉で、本物は悪の結社によって地下に幽閉されているんだって。旦那さんも替え玉で、彼女の話を相手にしなかった警察庁長官も替え玉。さらにパリ市民もみんな替え玉で、一人につき数人から数千人いて、本物はパリの地下に幽閉されているんだってさ」

「壮大な妄想だな」

 でも本人はそれを現実であると信じているわけで。

 悲しいな。きっと夫人は、子供たちが死んでしまったことを信じたくなかったのだろう。寂しくって仕方がなかったのだ。

「――平和だね」律人が窓の外を眺めながら、眩しそうに目を細めた。

「だな」

 非日常に片足を突っ込んでいる。

 彼女の兄という、ミズヤマシズキという架空の人物。正体の見えないモノを悪者に仕立て上げて、崇めるのではなく忌み嫌う新興宗教のようだ。それを信じている間は幸せになれる。教祖は露綺だ。なんて。

 それ以外はあまりにも平穏で、退屈すら催す日常。

 相変わらず敵の姿は見えなかった。

 ――と、麻耶が病室に入ってきた。俺たちが話しているのを、訝しそうに見ている。

「あきら、そいつ誰?」

「ああ、梓川律人だよ。お前と同じクラスの」

 眠そうに半分閉じたような、三白眼気味の目で虚ろに俺たちを見上げた。

「真人間のふりするのやめたら、化け物」

「おい、失礼なこと言うなよ」

 見ると、律人は暴言に純粋にショックを受けているようだった。

 俺は麻耶を軽く羽交い締めにする。

「何よ。本当のこと言っただけじゃない」

 言い訳か、付け加えた言葉もなかなかに無垢で残酷だった。無邪気か故意か、根元まで刺したナイフを、さらに押し込むような真似をする。昔からよく知っているだけに恥ずかしくて、俺は弁解を加えた。

「悪いな。こいつ、他人を怒らすことにかけては天才なんだ」

 麻耶の言葉は小憎たらしい。

 まともに相手をしていたら身が持たない。特に、露綺みたいなタイプとは決定的に合わないだろう。

「瑛良」彼は蒼白な顔をしていた。「誰と話してたの……?」

「誰って、麻耶だよ」

「〝マヤ〟ってもしかして、瀧上麻耶さんのこと?」

「知ってるのか?」

「うん。同じクラスだよね。名前だけ知ってる。よくは知らない」

 珍獣でも見つけたかのように。腫れ物に触れるように。彼の態度は、その二つが矛盾なく同居していた。

 普通はそうだ。彼の性格からして、不登校の女子に気さくに話しかけられるような奴じゃない。そのほうが異常だ。

 麻耶は聖書科教諭の瀧上副牧師の娘ということで、意外と名前が知られている。

 だが彼は次に驚くべきことを言った。

「でも、その瀧上さんがどうかしたの?」

「さっきまで話してただろ。忘れたのか?」

 たった今さっきまでそこで話していたのに。もしかして忘れたのか? こんな短時間で?