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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下3-12

7-12.Confession:告白

  俺は瀧上牧師に告解を頼んだ。

 他宗派では懺悔ともいう。現代風に言うとカウンセリングだ。精神科医の仕事を、中世ヨーロッパでは聖職者が担っていたのだ。

 わざわざ他人の愚痴を聴いてやるなんて、気分がいいものでもないだろうに。そんなことをするのはよっぽどの物好きに決まっている。こんな、便器みたいに扱われて、彼らの人間の尊厳は傷つかないのだろうか。

 俺は悪臭を放つ疲れ切った心を、目の前のゴミ箱(しかも喋る)に吐き出す。さんざん吐く。彼はむせながらそれを受け止めた。

 一通り話を聴いてもらったあと、彼は流れでこんなことを言う。

「――ええ。主は僕たち一人ひとりを愛しておられます」

「どのくらい愛してる?」

「頭の髪の毛の数を知っておられるくらい」

「おお、すげえな神様……」

 素で驚いてしまった。

 でもさ、

 そういう実感ないな。本当に俺が愛されているのかどうか。

 そんなに愛しているのなら、一度でいいから俺の前に姿を見せてくれよ。

 ――例えば、俺の父親は仕事であまり家に帰ってこない人で、寂しがる子供を母親はこうなだめるのだ。

 お父さんはあなたを養うために一生懸命お仕事しているのよ。あなたは愛されているのよ、と。

 けれど子供にとってはそんなことよりも、父親が目の前にいることのほうが大切だ。

 そんなのは愛の証明にならないと思う。

「俺の心は今どんな状態に見える?」俺は目の前の鏡に自分の心を映す。

 彼は悲しそうに言う。

「惑っているように見えます」

 そうか。俺の心は迷っているのか。

 他人のことであるかのように淡々と思った。

「――ともかく、君には休養が必要だと思います。善い言葉だけを耳に入れるようにしなさい。言葉は心の栄養素です。悪しき言葉を聞いていれば自ずと心が病んでいきますから。しばらくは優しい、耳障りのいい言葉だけを選んで聞きなさい」

 言霊という概念がある。

 愛やありがとうという単語を目にすると、自分には関係なくてもなんだかいい気持ちになるし、逆に死とか憎悪とかいう単語を見かけると、どきり、とする。

 言葉には力がある。正確に言えば、言葉と言葉の緻密な編み目に力が宿っていると思う。

 世界は言葉でできている

 光あれ、と神が言うと、混沌は光と闇とに分かれた。

 それが聖書の世界の始まり。神は言葉によって世界を作ったのだ。

 だからコンピューターが〇と一で動いているように、この世界が言葉による記述でできていてもなんらおかしくはない。

 ときどき考えることがある。俺たちの人生も、実は誰かが書いた物語なんじゃないか。

 愛している、とほざきながら、神様が俺たちをつらい目に遭わせるのは、きっとそのほうが断然物語が面白くなるからに違いない。

 くそったれ。

 何故自殺してはいけないのですか。

 何故人を殺してはいけないのですか。

 戦場なら合法なんですか。

 何故何故何故。

 俺の様子がおかしいのに気付いたのか、彼は言う。

「――東郷くん。世の中には深入りしないほうが幸せでいられる問いが、沢山あるように僕は思います。今はもう、それ以上考えては駄目です……危険です」

 彼はじっと俺の瞳を覗き込んでくる。淡い茶色をしていて、吸い込まれそうな瞳だ。まるで心を読まれているみたいでむず痒かった。

「何だ」

「神の存在を疑っていますね」

 そうだよ。

 愛の宗教を謳いながら、魔女狩りで罪のない一般人を拷問して殺し、正義の名の元に戦争をけしかけたことは、あんたの宗教の罪だ。

 神様は本当にいるのだろうか。死んだあと、実は死後の世界には何もなかったとしたら、俺たちは信仰し損じたことになる。それはすごく腹が立つ。

 それに、人間にそんなことをさせることになった宗教の神は、信仰するに値する善なる存在といえるのだろうか。

 俺は、俺たちは、神様を本当に信じてもいいのだろうか。

 神様にちょっとでも疑いを持った俺は、きっと地獄に堕ちるだろう。

 それでも俺は、問わずにはいられない。

 彼を眺めていると、牧師という生き方はむしろ楽なんじゃないかと思えてくる。

 何故なら神様が本当にいるかなんて煩わしいことを悩まずに済むからだ。

 でも結局それは思考停止にすぎない。

 進化論では、ヒトは猿から進化したのだという。

 それが正しいとすれば、聖書で、人は神様に土から造られたというのと矛盾してしまう。

 だから、キリスト教徒の多いヨーロッパでは、進化論を信じず、創造論を支持している人も結構いる、というのを知って、驚いたことがある。

 彼ら牧師のような人間は、現代日本にいながら、どう信仰と折り合いをつけているのだろう。きっと日曜日は創造論を信じ、それ以外の曜日は進化論と使い分けているのだ。

 ――俺たちは二重写しの世界に生きている。物質の世界と精神の世界だ。

 本屋に行けば、本棚には読み切れないほどの沢山の本が並んでいる。

 それは人間は現実の世界だけでは生きていけないということの証拠だ。

 現実の世界と虚構の世界の両方に足をつけている人間は、生活圏が二倍になるということだから、他人よりも広い世界を飛び回ることができる。たまに行く夢の国は楽しいものだ。

 だから俺はキリスト教の神様も、ギリシャ神話の神様も、幽霊も宇宙人もいるということにしておきたい。

 だけど俺は、この欺瞞だらけの二重の世界に疲れてしまったのだ。

「頭痛ェ……」

 俺は人知れず痛む頭を押さえる。

 瀧上牧師が気遣うように背中に手を添える。

 そんな身体接触にさえ反応し、安心してしまう我が身が卑しくみじめだった。

「僕と静かなところで一緒に祈りましょう。ね?」

 この人は何も分かっていない……。

 俺は彼に話す気にはなれなかった。自殺衝動に取りつかれている恋人のことも。

 俺は心を閉じた。

 悪い言葉を耳に入れるな、だって?

 そんなの無茶だ。だってあっちからやってくるんだから。

 耳から注がれる毒を避けるのは、嵐から逃げるくらい難しい。そんなの、あんたならよく分かってるだろう。

 ――モーツァルトは、晩年耳が聞こえなくなっても作曲を続けたという。何故なら音は彼の中にあり、彼の頭の中で鳴り続けていたから。

 見たくなくて目蓋を閉じても、眼球をえぐり出しても、脳に焼き付いている。耳の奥にこびりついている。

 そして彼の頭の中にある限り、彼はどこにも逃れられない。

 宗教は俺を救わない。

 俺は気付いた。

 雨が強くなっている。

 きっとあれは彼の罪だ。

 宗教は彼を救えていなかった。

 彼も無理に聞き出す気はないようで、立ち上がりざまに言う。

「東郷くん。もっと僕に頼ってくれてもいいんですよ。僕は、君のもう一人の親みたいなものなんですから」

 

 俺の両親は亡くなっている。俺が生まれた頃、無差別テロに巻き込まれたのだ。

 隣の市の横浜の港。今はランドマークタワーが建つ整備された美しい広場に、人々の死体がごろごろと横たわっていた。

 夏祭りの日だった。大勢の人で賑わっていて、屋台なんかも出ていた。雲ひとつない晴れた空に、夕陽が燃えていた。

 そこに突如、空飛ぶクジラが現れて、硫黄の雨が降り注いだのだ。

 ヘリコプターで上空からばらまかれた猛毒。当然傘など持っていなかった人たちは、毒に触れるか気化したそれを吸うかして、大勢の人々が死んだ。

 次に、ヘリコプターが墜落して、その下にいた人たちを押し潰した。

 実行犯たちが自分の毒にやられてみんな絶命し、制御を失ったヘリコプターが墜ちてきたのだ。

 彼らは何のためにそんなことをしたのか。未だ解っていない。

 でもどこぞの国の兵隊は、お国のために喜んで突撃したし、ビルには飛行機が突っ込んだ。

 だからそんなことがあっても全然おかしくはない。

 俺たちと同じ人間が、人間を殺したのだ。

 倒れこむヒトヒトヒト――。実行犯の彼らの目に、死んでいった人たちの人生は映っていただろうか。

 ベトナム戦争で、帰国後に心の傷で苦しむアメリカ軍兵士が続出し、〝PTSD〟という単語が一躍取り上げられるようになった。

 俺はそれを聞いて、あの人たちも心が痛むのだな、と思ったのである。

 アメリカ兵なんて、一般人の俺たちとは感覚の違う、ターミネーターのような殺戮マシーンだと思っていたのだが、違ったみたいだ。

 街のそこらへんに歩いているサラリーマンと大差がない。彼らは殺人が大好きな戦闘狂というわけではなくて、仕事だから仕方なくそれをやっているのだ。

 人の良心とは、人の本質ではなく、後天的に獲得されたもの。極限状態では簡単に麻痺してしまう、ちっぽけなものだ。

 閑話休題

 彼らは天国で幸せに暮らしているだろうか。それとも、精霊となって傍で俺を見守ってくれているのだろうか。

 幸いにして、俺は両親の代わりとなる善良な大人たちに恵まれた。施設の人は元より、父親代わりの人は瀧上牧師と美玲の父親、母親代わりの人は美玲の母親だ。

 瀧上牧師に初めて会ったのは、彼が由一の継父になったばかり頃だ。神学校を出たての新米牧師だった。

『あなたのご両親は天国に行かれましたよ』

 聞けば、天国とはあらゆる苦しみのない美しい場所であるらしい。

 というかこういうとき、「あなたの両親は残念ながら地獄に行きました」なんて言う聖職者は見たことがない。それはそれで子供心にはキツいものがあるのだが。

 結局のところ、死んだ人がどこに行ったかなんて誰にも分からないのだ。

『実行犯の方々を恨んでいますか?』

『…………』

『復讐してはなりません。復讐は神がなさいます』

 心を見透かされていると思った。そして俺はその言葉で、俺の心の中にあった憎しみが不思議とすっと消えていくのを感じたものだった。

 だから俺は、意外に思われるかもしれないが、当時の犯人に対して憎しみがあるかと訊かれたら、ほとんどないといえる。俺の両親が亡くなったのが物心つく前だったのもある。俺は両親がどんな人だったかを知らない。どんな人生を辿ってきたのかも。

 死後の世界は存在するのだろうか。

 人間にはどんな汚れにも染まらない魂が、脳や肉体とは別に備わっているのだろうか。

 『どうして君には心があるの?』

 あの言葉が脳裏を離れなかった。そのくらい律人の言葉は衝撃的で、俺の中の常識を脅かすのに十分だった。

 例えば、俺は犬に魂があると思っている。

 家族同然のペットが死ぬと、人々はお墓を建てて魂を鎮める。

 逆に、魂がなくて、あの生き物たちは平穏無事でいられるのだろうか。俺なら無理だ。

 それは魂がなくても生き物は存在しうるということ。

 彼らに魂がなくても、嬉しそうに跳ねまわったり吠えまわったりできるということ。

 つまりは人間には魂がなくても、表面上問題なく生活していけるということの証明に他ならないのではないか。

 逆に犬の魂の存在を認めるとして、鶏や豚や牛に魂がないとは思えない。彼らも犬と似たようなものだ。

 それでは、魂を持つ存在を食べるために殺してもよいのか。

 食事のときに、俺たちは何故いただきます、と手を合わせるか、知っているだろうか。それは生きとし生ける命を頂くことに対する感謝の言葉だ。

 キリスト教では、他の動物は人類のために喜んで命を差し出してくれるし、それを許してくれるということになっているらしい。

 馬鹿馬鹿しい。

 聖書。キリストの王国の法律を記した書物

 人々はファッションのように身体にルールを巻きつけて、魂のカタチを絞っている。

 かくあるべし。

 そのルールの洋服がきつすぎて、苦しんでいる少女を俺は知っている。

 魂なんて、生きている人間が作り出した慰めの幻想にすぎないんじゃないか。

 霊安室で魂(のようなもの)を見たのはいいが、所詮俺の頭の中で作り出した妄想だ。

 彼らの肉体が滅びても魂が不滅だったならば、いつか会えるといいなと思っている。

 もしくは彼らの思考は彼らの生の終焉と同時に、遥かな宇宙の分子へと不可逆に融けてしまったのか。

 ――もし神様がいたとしたら、何故罪のない俺の両親を殺したのだろう。

 

 我々はどこから来たのか。

 我々は何者か。

 我々はどこへ行くのか。

 俺は思考実験を繰り返す。

 神のサイコロを振り続ける。何度もなんども……。

 俺は一人で本を読む。俺よりもずっと賢い、俺よりも先に死んだ人たちが考えたことを。

 そのうちに俺の心はゆっくり深層へと沈んでいく。グロテスクな深海魚が潜む、真っ黒で冷たい無意識の海へと。