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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下3-11

7-11.Надежда:希望の始まりの音

  パロマが死んだ。

 退院したあとも俺のところで飼っていたのだが、ある朝、見ると冷たくなっていたのだ。

 獣医が言うには、

「こういう野生の鳥は、本当に死ぬ直前まで弱みを見せない。目に見えて弱っていると気付いたときには、大抵もう手遅れなことが多い。弱っている個体は真っ先に狙われるからね」

 つまりあれは空元気だったのだ。

 麻耶は項垂れている。

「元気出せって」

「うん……」

 俺も、鳩が死んだことに少なからずショックを受けていた。あんなに元気そうだったのに。

 白鳩。平和の象徴。

 俺は翼を傷めた鳩を見下ろしながら、考えていた。

 誰がこんなことをしたのだろう。

 世の中には、こういう残酷なことを心を痛めずにやってのける人間がいる。

 鳩の翼を切ったのは、きっと平和を信じられない人だ。

 日本人は大抵無神論者だけれど、石のお地蔵さんや神社の狛犬を破壊したりはしない。そんなことをすれば、なんとなく罰が当たるような気がするからだ。

 そういう信仰を失くした人間、一線を越えてしまった人間というものは、人間でないものになってしまうような気がする。

 病院の裏庭に墓を作って、二人で手を合わせた。

「麻耶、ごめんな」

「なんであんたが謝るのよ」

「いや……」

 どうしてだろうな。こんな、巻き込まれただけだっていうのに。

「今度こそ助けるから」

「変な奴」

 

 それから俺は久しぶりにテニスボールを手に取った。実は中学の頃、硬式テニス部に入っていたので、テニスは好きだ。

 公園の壁に一人で壁打ちをする。

 球が、当たらなかった。

 確かにブランクはある。思うように身体は動かない。だがそれ以上に何というか、突然球が視界から消える感じ。

 そういえば医師が、俺の病気は片側が認識できないという症状が出ることもある、と言っていた。俺の脳は左側をシカトした。

 こんなこともできないなんて。

 その事実に、俺の中の何か張りつめていたものが切れた。

 テニスなんてできなくても、この世の中笑って生きていける。テニスが下手だってことが、一体何になるのだ。

 頭ではそう分かっているのに、俺は泣き崩れた。

 リハビリのときにはこんな症状なんてなかったではないか。症状が進行しているというのか。

 彼女なんて助けなければよかった、と残酷なことを思った。

 そうすれば俺はまだ普通で健康でいられたのだ。

 彼女と出会わなければ、俺は普通に高校を卒業して、奨学金とバイトで何とか大学に進学して、働きながら借金を返して、いい歳になったら誰かと結婚して子供を設け、家庭を作っていただろう。

 それがどうしてたかが高校生の軽い恋愛で一生ものの障碍を負って、その上延々と聞きたくもない愚痴を聞かされ、結婚までさせられそうになっているのか。

 それにもし美玲が裏切ったら、残された俺はただの障害者だ。

 やっぱり俺は美玲が嫌いだ。

 自分の胸に問いただしてみる。

 いや、美玲が憎いとさえ思っているのかもしれない。

 それでいて彼女を愛している。

 隣人を愛さなければ。

 俺の愛はそれだけのものだったのか。自分に都合が悪くなったら捨てるのか。

 美玲だって望んでそんなことをしているわけじゃない。一番苦しんでいるのは彼女自身だ。

 自分が楽しむだけで苦しみは背負わない遊びの恋愛。それは偽りの愛なんじゃないか?

 心は脳にあるはずなのに、頭と心が別々のことを主張している。

 普段よりも心が弱っていて、俺の足は自然と街へ向かっていた。

 

 真夜中の午前二時。

 夜中のストリートの空気は心地が良かった。そこは既に慣れ親しんだ場所だった。

 そして、騒々しい高架の隙間から空を見上げた。

 無機的なビルはやはり無表情なので、見ているのにも飽きて、バラバラの街をぼんやりと眺めた。

 真昼のように明るくて、人も多く、一見賑わっているように思われるが、よく見るとそれぞれが自分のためにバラバラに蠢いていて、周りを見ていないのだ。

 それは放任みたいで、今の俺には楽なものだった。

 自分たちのすぐ横を、息を絶え絶えにした少年が走り過ぎようが、誰も気にしない。透明な壁の、触れられない向こう側にあるかのように。

 例えば、

 もう歩けない、とその場でしゃがみこんだら、誰か俺を助けてくれる人はいるのだろうか。

 しかし、ここを歩く誰もが、自分以外の誰かを気にかけることなど、できやしないということを俺は知っていた。普通の人は自分の悩みで精一杯で、他人のことなんて構っていられないのだ。

 急に吐き気が襲ってきて、俺はその場でうずくまった。胃がむかむかする。身体を抱いて、戻してしまいそうになるのをこらえる。冷や汗が顔を伝う。

 この頃、眩暈が起こるようになっていた。

 ただ一つ言えるのは、交通事故の後遺症が今になって進行し始めている。頭の中が破裂しそうに圧力を増し、吐き気を伴う頭痛に襲われる。そんなとき、俺が思うことは一つ。

 ――死にたくない。

 目に映る繁華街のネオンが鮮やかで、俺が膝をついても、世界は変わらないように見えた。

 俺は死ぬのだろうか? 目の前にこんなに沢山の人がいるのに、誰にも気付かれないで。

 目前に汚れた地面だけが見える。

 ――そのときだった。

 一つの足音が立ち止まり、声が降りかかったのは。

「どうしたの? 大丈夫、ぼく?」

 それは追い詰められた俺にとって、救いにも等しかった。

 顔を上げる。目の前にいたのは、見たこともないほど美しい女だった。

 俺に向かって手を差し伸べる彼女は、輝いて見えた。

 大丈夫、と答えようとしたが、声が出ない。そうこうしているうちに彼女が去っていってしまう……と思いきや、ヒールの音を響かせながらまた戻ってきた。自販機で買ってきたらしいスポーツドリンクのペットボトルを差し出したり、背中をさすったりして俺を介抱する。

 俺は彼女を観察した。女にしては大柄で、俺よりもずっと背が高く、いわゆるモデル体型で脚が長い。ハイヒールまで履いているから余計にそう感じる。ハスキー気味の低い声をしていた。可愛い、という感じではない。妖艶で、大人の女という感じがする。尻軽そうでありながら、一筋縄じゃいかない。そんなような。

 と、巨大な女がいきなりすっころんだ。

「いったあ~」

 と柄にもない、バカっぽい声を上げる。靴の裏を見る。ピンヒールの踵を折ったのだ。

「履き慣れていないんだな、ハイヒール」

 そこで、俺の乾いた顔の上に、笑顔が浮かぶのが分かった。

 久しぶりに笑った気がする。俺には何故か、彼女が俺を笑わせようとしてくれているように思われたのだった。だってこんなところで転ぶような女にはとても見えなかったし、どうせ演技なのだろう。

「優しいところあるんだな」

「え? 何の話?」

 やっと声が出るようになり、礼を言う。だが彼女はすぐに立ち去ろうとはせず、なんだか誰かと話がしたいように思われた。というか、彼女にもただならぬ事情があるだろうことを、俺は察していた。

 例えば、こんな真夜中に女一人で夜道を通りかかったのとか。

「職業は?」

「画家の愛人」思考停止した俺に、彼女はこう付け加える。「モデルだよ。みんな何故か描きたがる」

 画家の愛人。言い得て妙だ。

「なるほど、美人だと思った」

 お世辞ではなく。

 美人といえば、俺が露綺と初めて会ったとき、綺麗だ、とは思ったが、それでどうこうしたいとは思わなかった。彼女からもそういう印象を受ける。美しすぎるのだ。

「あんた、名前は?」いくらなんでも軽すぎたかなと思う。「……いや、深い意味はないんだ。ただ、呼び名がないと不便だからさ」

「作品も人も、陳腐にするくらいなら名前なんてつけないほうがいい。そうは思わない?」

 要するに名乗りたくないのだろう。

 それから俺は、しばらく彼女と話をした。意味があるものも、無意味なものもあった。

 言葉遊びだろうか。無意味な言葉が浮かんでは消える。

 俺は痺れるような感覚を味わっていた。

 こういう闇の中では、ともすれば精神病院送りになりそうな人間が、普通に生息しているものだ。

 真っ当な陽の下は駄目だ。それは彼らを照らしすぎる。虫眼鏡で収束した理性の光が、彼らを跡形もなく蒸発させてしまう。

 この女も、きっと夜の中で逢うからこそ面白いのだ。もし日中出遭ったとしたら、醜すぎてとても耐えられないだろう。だから俺は、夜が好きだった。

「お前面白いな」

「君こそ面白いよ」

 彼女はとにかく享楽主義者だった。面白いことがあるとひどく喜ぶ。

 こういうのを浮気というのだろう。しかしながらそこまで深く考えていなかった。娯楽を求めて映画を観るような感覚だった。

 ふと笑い疲れて、本音が出てきたのだろう。俺はぽつりと呟く。

「俺、変なのかな」

「『狂ったこの世で狂うなら気は確かだ』」

 俺は笑みを作った。

「『マクベス』か」

「知ってるの?」

 女は意外そうに言った。

「知ってるの、って有名じゃん」

 読書は元々しなかったが、入院してから暇なあまり、名作と呼ばれる作品を片っ端から読んでいたのだ。もちろん、シェイクスピアも。

「読書は結構するんだ」

「見かけによらず博識なんだね」

「もしかして馬鹿っぽいと思ってる?」

 からかって訊ねる。自分の容姿があまり頭が良さそうに見えないのは自覚があるし、実際頭は良くない。

「『あなたの呼吸が終わるとき、私の呼吸が始まる』」

「?」

「あ、さすがに知らないっか」

 女は一人で納得して、からからと笑う。

「生きるのに支障があるから、本当の姿が見えないのかも」

 俺は美玲のことを話すことにした。

 初対面の人間にあまり情報を与えるべきではないのだろうが、そうは思いながらも、話す。彼女にはどうも話をしたくなる独特のオーラがあった。

「きっとその娘は賢いんだろうね」

 彼女の言う通りだ。美玲は頭が良い。

「生きる意味を追い求めるからつらいんだ」

「俺たちは何故生きる」

「種の存続のためじゃない?」

 俺が一番聞きたくない答えだった。

「美しい花というものがあるんじゃない。ただ、花が美しいだけだ。生きる意味なんて追い求めること自体が無意味で、ただ現象として生きているだけ。だから人生ってものはもっと気楽に楽しむべき」

 俺たちは、少しでも遠く長く人類を繁栄させるための、遺伝子の容れ物にすぎないのだろうか。

 俺個人の人生には意味なんてないのだろうか。

「俺が生きていることには意味はないのかな」

「そうだね。まあ、君が生きていることは、他の人にとっては意味があるかもしれないね」

「神様は本当にいるのかな」

 宇宙はフラクタルの構造をとる。大きいものはどこまでも大きく、小さいものはどこまでも小さい。

 不遜だが思うのだ。

 俺たちが神様と呼んでいるところの高次生命体は、俺たちが思っているほど全能ではないのかもしれない。確かに、人間よりも遥かに高い能力を持っているけれど、完全というわけではなくて、そんな自分を下等な人間たちが必要以上に崇め奉るのにうんざりしているかもしれない。過剰な期待をかけられて、自分はそんな全知全能じゃないのに、今度こそ失敗してしまうのではないかと恐れているのだ。

 ……何故なら、人間は上から落ちてきたものを、ここぞとばかりにぶっ叩くのが大好きだから。

 便宜上、その高次生命体を神様と呼ぶ。

 彼らは俺たちがAIを作るのと同じように、自分たちに似せて人間を作った。やがて神様は絶滅した。自我を持つ肉の機械は、自分たちが作られた存在であることも知らずに繁栄し始めた。これから先の未来、人間を上回るロボットが発明されるだろう。人類が絶滅し、ロボットは自分の姿に似せた存在を作り始める。自分たちを作ってくれた不完全な人類を崇拝しながら。そうやって歴史は繰り返す。

 ……そんなシナリオを考えたことが、幼い頃の俺にもあった。

「へえ、神様、信じてるんだね」

「悪い?」

「ううん。神は人間の最大の発明だよ。装置だ。神が人を造ったのではなく、人が神を創ったんだ」

「寒いよ……」

 震える声で俺は呟いた。

 季節は秋。外気温的には凍えるほどではなかったが、なんだか心の芯が寒かった。

 人を不安にさせる、身に沁みいる冷気と闇。寂しい。

 ――ふと、目の前の人に抱きしめられた。

「え、何」

 戸惑いが半分。彼女の体温はむしろ平均より低いくらいなのだが、人の温もりを感じて、俺の心は奥底から湧き上がる幸福感に包まれた。胸の奥がじんわりと暖かくなる。衣服越しの体温が、香水のさっぱりとした香りと滑らかな皮膚が。俺を落ち着かせた。

「悲しいときは誰かを抱きしめてごらん。ヒトは肌と肌が触れ合うと、脳内で幸福な気持ちになる物質が作られるから。愛を感じてるからじゃない。君たちの脳みそはそういうふうに設計されてるから」

 俺を抱きとめながら、彼女は言った。

「ヒトの感情は、この脳内物質に左右されているんだよ」

 俺は、この気持ちを信じてもいいのだろうか?

 心のある辺り、左胸の上に手を当てる。

 俺たちが感じている喜びや悲しみは、全てまやかしなのだ。

 彼女との抱擁は、それを証明した。

 俺たちは幸せでなくても幸せを感じられるように設計されているということ。

 美玲の死にたいという気持ちは、生涯にたったスプーン一杯分だけ作られる微量の化学物質に支配されている。

 虚しい。俺たちの感情は、心は、一体何ものなのだろう。