雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下3-10

7-10.Possession:悪魔憑き

 美玲の家で夕食をご馳走になったときのこと。

 彼ら夫婦は、俺たちが恋仲になったと知るや否や、是非婿に迎えたいと張り切っているようだった。俺を娘の恩人として、婚約者として厚遇してくれる。

 この人たちと家族になれたら、どんなに素晴らしいだろうと思う。

 趣味の良い家だ。裕福なのにいやらしさがなく、実に質素に暮らしているようだ。落ち着いたベージュの壁には、ミレーの『種まく人』の複製画が飾られている。掃除が行き届いているのは、美玲やおじさんも時々掃除に参加しているのだろう。

 最近、美玲は花嫁修業と称して食事の支度を手伝うようになっていた。

 どうもおばさんが、学生たちはゆっくりしていなさい、と言っても、やると言って聞かないらしい。美玲は基本的に父親似だった。その頑固なところを、おじさんから受け継いだのだ。

 実際に結婚するのは当分先だろうけれど。

 美玲の料理はお世辞にも美味しいとはいえない。彼女の作る菓子と同じで食感が固いし、焦げているし、変な味がする。新妻の失敗と言うと微笑ましい美談になる。

 食事の席で義母がよく話しかけてくれて、娘婿を退屈させないようにしてくれる。

 彼女は実は盲目だった。だがそんなハンデキャップを微塵も感じさせないような明るさがあった。ちっちゃくて、品の良い奥さん。いいところのお嬢さんだったのか物腰が優雅で、口許に手を当てて笑う。

 一方の義父は、黙々と箸を進めていた。

 職人を思わせる野暮ったい男で、若白髪が目立った。こちらは無口で、にこりとも笑わない。俺は彼が笑ったところを一度も見たことがなかった。いつもにこにこしている奥さんとは対照的だ。

 それにしても、本当になんでこのおじさんがこの女性と一緒になったのか分からない。美女と野獣だ。

 素朴な疑問が口をついて出た。

「なんでおばさんは、おじさんと結婚したんですか?」

「それはね。この人となら不幸になってもいいと思えたんです」

 箱入り娘らしい、おっとりとした口調で答える。

 この人となら不幸になっても構わない。

 幸せそうなその言葉は、女性が結婚を決めるときの定番の文句。直感だという。女にしか分からない感覚なのだろう。しかし男の俺には薄ら寒いものを感じる。

 ふと、箸を止めてリビングの仏壇を見つめている美玲に気付く。おばさんが声をかけた。

「美玲ちゃん」

 猫なで声で宥めるように。

「仕方がなかったのよ。あなただけでも助かってよかった。あの子の分まで幸せになってほしいとお母さんは思っているのよ」

 サバイバーズ・ギルト。

 それは、災害などで生き残った人が感じる罪悪感のことだそうだ。俺たちは犠牲者にそういう言葉をかけてしまいがちだが、実はそのような言葉が、一番彼らを傷つけるのだ。

 寡黙なおじさんは相変わらず何も言わない。彼も同じ痛みを背負っているからだ。

 しかしそれは、母親の気休めの言葉さえ嘘のように思えるのだった。

 彼らを見ていると、時々どうしようもないな、と思うことがある。まるでこの家は海の底に沈んでいるみたいだった。彼らはきっと、自分たちを責めずにはやっていけないのだ。死んだ人がどう思っていようと、望んでいようといなかろうと、彼らは自分たちのために自分を責めるのだ。

 美玲の魂は、未だに川の底に残されたままなのだ。

 テーブルの下でぎゅっと手の平を握る。闖入者たる俺は、何ができるのだろうか。

「――ごめんなさいね。樹さん、これでもあなたのこと、結構気に入ってるのよ」

 本当だろうか。ちらりとおじさんを見る。相変わらず仏頂面で、考えていることが読めない。

 おばさんは、彼が人見知りなのだと言った。

「ものを直すくらいしか能のない人だから」

 その瞬間、おじさんは苦いものを口にしたように不本意そうな顔をしたが、否定はしないらしい。怒らないのは仲が良いのだろう。

 俺の目には、一家の仲は良好そうに見える。たとえ、言葉にできない何かがその間にあるとしても。

「ねえ、瑛良くん。あなたさえよければうちの子にならない? 樹さんと一緒に決めたの。どう?」

「あ、はい」

「ちょっと、樹さんも何かおっしゃってくださいな」

 対する美玲の父親は押し黙っている。

 美玲は事故で生き残った一人娘として、大切に育てられた。叱責されることも覚悟していた。

 彼は重たい口を開いた。

「瑛良くん。私は娘をやれないなんてつまらない意地を張る気はない。むしろ君のような男に貰ってほしいと思っている。ただ、君を心配している。彼女は君の手に負えるだろうか。人一人の存在は君が思っている以上に重い。君も彼女も行く先は決して順風満帆とはいかないかもしれない。――それでも投げ出さないと誓えるだろうか。もしそうじゃないなら、彼女のことはまだしばらく、私たち親に任せてほしい」

 俺は口ごもってしまった。あまりにも俺の想定とは違っていたからだ。もっと器の小さい怒り方をしてくれたら、何とでも言い返せるのに。

「幸せにしてやってくれ、なんて言わない」

 テーブルの下で、美玲が俺の手に自分の手を重ねてきた。

「いいです。私はこの人と不幸になる。それが私の幸せです」

 そう言って、世にも幸せそうに微笑んだ。

 ふと義父と目が合って、彼は哀れむような目配せを送った。

 

 風呂から上がってリビングを通りかかると、声をかける前におばさんが口を開いた。

「あら、瑛良くん。お湯加減はどうだった?」

 見えていなくても足音で判別できてしまうらしい。まるで超能力のようだ。

「いいお湯でした」

「そう。よかった」

「あ、そういえば、あの絵観てきました」

 そう。例の絵は近くに来ると聞いて、観に行きたいと彼女が以前話題にしていたものだったのだ。だから興味が湧いて観に行ったのである。

 彼女はよく、県外へ美術館巡りをするおじさんについていく。見えないが、彼の薀蓄を聴くのが楽しいらしい。

 おじさんが絵について、クロワゾニズムとか綜合主義とか難しい用語を出して説明していたが、最後に一言、

『よく分からないけれど、いい絵なのね。樹さんの声が明るいから』

 と締めていたのが面白かった。

「どうだった? 感想を聴かせてくれる?」

「ものすごく大きくて。全体的に青っぽいんだけど、黄色が印象的で、色遣いがそりゃもう、ステンドグラスみたいに綺麗。そこに女の人が沢山いるんです。ほとんど裸の、南の島の原住民っぽい人たちで――」

「瑛良くん、ちょっといいかしら?」

「はい?」

「〝ステンドグラス〟ってなあに?」

 俺は続けてステンドグラスというものについて説明する。

 俺は、話しながら思った。

 どうしてこの女性は、見えない、存在しないかもしれないものを、無条件に信じることができるのだろうか。俺が口から出まかせ言っているとは疑わないのだろうか。

「おじさんに風呂上がったって言ってきます」

「あら、悪いわね、瑛良くん」

「お安い御用ですよ、お義母さん」

「まあ……」

 というわけで、俺はリビングを出て、廊下に面したドアをノックする。部屋の中から、はい、と不機嫌なんだかそうじゃないんだかよく分からない、低い返事が返ってきたので開ける。

「お邪魔します」

 おじさんは仕事をしていた。

 彼の前には一枚のイーゼルに立てかけられたキャンバス。画材類が周りに広げられていて、歯医者の手術台に似た、照度の高い光で煌々と照らされている。顔半分を覆う拡大鏡で、その表情は見えない。

 おじさんの職業は保存修復家だ。

 古くなって劣化した絵画を修復し、後世に伝える。いわば絵画のお医者さんで、仕事道具の中には文字通り外科手術用のメスもある。

 ゴーグルに似た拡大鏡をして、細い筆を動かしている。無骨な手には似合わない繊細な作業だ。修正したところが分かるように、油絵でもあえて水彩や合成樹脂の絵の具で修正するらしい。未来の時代にもっといい修復技術が出てきたとき、それに託すためだと聞いたことがある。

「瑛良くんか……」

 振り返らずに言う。

「風呂空きました」

「…………」

 今手が離せないところらしい。

 ところで俺は、この無口なおじさんが嫌いではなかった。寡黙な男はかっこいいし、いい歳して不器用で、人とのコミュニケーションが下手くそなところが親しみを持てたからだ。

「不安を感じやすい家系でね。気苦労が多いのだろう。君は本当によくやっている」

 美玲が手首を切った夜のことだと分かった。

「結局私は逃げてばかりだ」

 俺には、一つだけ言いたいことがある。

「でもあんたは何も悪くない。あの事故はあんたのせいじゃない。仕方のなかったことだ」

 誰が逆走してきたトラックを避けられる? あれは事故のようなものだ。

「ありがとう」彼は相変わらず仏頂面で、でもその声が少しだけ濡れているように思った。

 美玲は彼に対して風当たりが強い。

「美玲は昔からああなんですか。昔は可愛かった頃もあったんですよね」

「今も、可愛いよ……」

 ぽつり、と呟く。

「すみません」

 作業の様子をしばらく見物させてもらっていると、彼は朴訥と話し出した。

「この画家は絵を描くことしか能のない不器用な男で、生きている間は絵が評価されることはなかった。ただひたすら愚直に絵を描き続けることしかできなかった」

 名前を聞いたが、聞いたことがない。無名の画家のようだ。

 暗い絵だ。技巧的だが、きっと本人も根暗な性格をしていたのだろう。

 絵画のこととなると饒舌だ。だがその手元には狂いがない。

「よかったっすね」

「そうだな。……自分のことのように嬉しい」

 こういう芸術作品を観ると、いつも考えることがある。

 芸術家の作品は後世にまでその姿を残し、その人物が存在したということを証明する。

 だがそうやって歴史に名前が残る人というのはほんの一握りで、それ以外の無名の夥しい死者のほうが多い。この大地の下には、無数の人々の死骸が埋まっている。名前がないから、俺たちはその質量を忘れがちになる。

 それこそ天才と犯罪者以外は。何かせっせと描いたり書いたり、ものを集めたり綺麗に整頓したり。後世の人々に見せて誇れるようなものを準備したとしても、無駄な行為だ。

 俺は特別勤勉でも仁愛があるわけでもないので、将来何か偉業を成し遂げることはないだろう。彼のように何かを磨き上げる努力をするわけでもない。

 俺の存在が彼のように後世の誰かの心を動かしたりもしない。

 俺の生きた証を刻みつけたい。

 手っ取り早いのが、パートナーと子供を作って、遺伝子の一部を子孫へ伝えることなのだろうが、生憎幼すぎて、自分が親になるということにイメージが湧かなかった。

 と、

 いきなりドアを開け放って美玲が現れた。

「……よお、美玲」

「…………」

 美玲は無言でつかつかと絵に歩み寄ると、いきなりそこに硫酸をぶちまけた。

 絶望的な音を上げながら、泡を立てて融け落ちる繊細で美しい絵肌。

 鞭を打つような音がした。

 あまりのことに、おじさんが美玲を引っ叩いたのだ。多分、彼もあまりのことに動揺しているのだろう。

 美玲は目を逸らさずに、涙目で彼を睨みつけている。

「……なあ美玲。今のはさすがにやりすぎだと思うぞ」

 俺はおじさんに同情して、つい彼の味方をしてしまう。

 彼女は昂奮していた。

「あなたは誰の味方なんですか?」

 確かに彼氏である俺は、こんなときに美玲の味方をするべきなのだろうし、女子供に手をあげるのはよくないが、やっていいことといけないことがある。美玲の行動はそれだと思う。

 それに公共の財産である芸術作品を損ねたことは、彼の責任問題になる。最悪職を失う。そうすれば彼に養われている美玲も、自分で自分の首を締めることになる。

「誰の味方って……。お前一体、誰のおかげで食べさせてもらってると思ってるんだ?」

「食べさせてることがそんなに偉いんですか? そんなことで無条件に従わないといけないんですか? 親は選べないのに。それにこの人は妹を殺したんですよ?」

 この人、と言いながら指を差す。

 彼女のこういうところが嫌いだ。自分の親に向かってなんてことを言うのだろう。俺の恋人じゃなきゃとっくに殴ってる。

「美玲」

「死にたい」

 虚ろな目で呟いた。

 その単語に、応急処置をしていたおじさんが振り返って口を開く。

「……軽々しく死ぬなんて言うんじゃない。生きたくても生きられない人たちだっているのに」

「私だって生きたくても生きられない!」

 悲痛な叫びだった。

「どうして私たちを作ったの? 義務感? 二人の仲のため? そんなの、あなたたちの都合じゃありませんか。こんなに苦しい世界なら生まれてこなければよかった」

「そんなことを言わないでくれ……」

「そんなこと言うなって、それはあなたの都合でしょう?」

 美玲が部屋から出て行く。

 途中、運悪く母親に出くわしたようで、勘が良いのか、まるで見えているかのように言う。『美玲ちゃん』

『黙れ!』

『美玲ちゃん……?』

 愛娘に怒鳴られたことが、箱入り娘の彼女にとっては相当ショックだったのだろう。

 ……マジで悪魔憑きみたいだ。

 残された彼は、床に膝をついて声を震わせた。

「そんな言葉言わせたくなかった。この世に生まれてきて幸せだと言ってほしかった――」

 ――美玲、きっとお義父さんは、生まれてきた子を幸せにするために、奥さんとでお前を作ったんじゃないのかな。

 俺たちは何のために生まれてくるのだろう?

 俺たちは、自分の意思で生まれてくるわけではない。両親が作るかできるかして生まれてくる。俺たちは一度も自分で自分の肉体を作ったことがない。自分の身体であって、自分の身体ではない。

 世界に一つしかない、二度と作者によって作られることのないある人の生きた証が、跡形もなく消え失せた。

 おじさんは一晩中つきっきりでその絵を看病した。直ってくれ、と祈りながら。