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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下3-9

7-9.Death Drive:デストルドー

 「十八歳になるまでに死にたい」

 それが俺の恋人、美玲の口癖だった。

 萩原美玲。成績優秀で品のいい、どこにも非の打ちどころがない憧れの生徒会長の頭の中が、希死念慮で一杯なことに一体誰が気付いているだろうか。

 ――それもそのはずで、学校での彼女はそんなことおくびにも出さない。無意識に笑顔を作って、優等生の萩原美玲を演じてしまう。

 実のところ俺も、美玲と打ち解ける前は、彼女を明るくて親しみやすい少女だと思っていた。

 実際は違った。

 深く付き合ってから知っていったのだが、実際彼女はかなりネガティブだった。

 もう分かっていると思うけれど、事実を言う。

 あの日、彼女は自殺しようとしていたのだ。

 ――ある夜中、美玲に泣きながら電話で呼び出された。俺は秋の寒空の下を自転車でかけつけた。

 手首を切ったらしい。白いシーツを鮮血で染めながら泣き腫らした目をした彼女は、死んだまぐろのように横たわっていた。

 俺は彼女のベッドの傍に寄り添って、秋雨のようなすすり泣きを聞いている。真夜中の午前一時のことだった。

 このような夜に、彼女は時々嘆いている。

 何故彼女は手首を切るのだろう。俺は自分の手首を切ろうなんて発想も浮かばない。痛いし見た目も気持ち悪いから。

「お前はどうして自分を傷つけるんだ?」

「分かりません」

「はあ?」

 自分でした行動なのに、分からないだと?

 美玲の話では、とにかく衝動的に自分を傷つけずにはいられないらしい。彼女は自分がいかに無価値であるかを語って聞かせる。

 俺は彼女の話を聞き流しながら、別のことを思っていた。

 でもさ、俺からしたら、

 ……なんでこいつ悩んでんの?

 顔はブスであるどころか中の上だと思うし、成績はトップクラスだし、優しい両親が健在で、家も裕福で、高級住宅地の一軒家に住んでいる。

 それが明日にでも食べるものがなくなるとか、住む場所を追われるとか、学校に通えなくなるとかいうわけじゃないだろう。

 俺にはさっぱり理解できなかった。というか、一ミリたりとも共感できなかった。

「――そんなこと言うなよ。俺はさ、お前は自分が思ってるよりすごい人間だと思うけど」

「あなたに何が分かるんですか?」

 励ましてやったのに、逆効果だったようだ。

 じゃあ、こう言ってやればいいのか?

 ――ああ、そう。分からないよ。

 でもそれはそれで、彼女を怒らせると分かっているので、嘘でも言わない。卑屈モードに入っている彼女には、何を言っても届かないのだ。

 美玲がそう言うのには、彼女の過去が関係していると思う。

 彼女は十数年前のとある嵐の夜に、交通事故に遭って車ごと橋から落ちた。逆走するトラックが、彼女の乗った車に突っ込んできたのだ。幼かった彼女の妹は、命を守るためのチャイルドシートに拘束され、溺れて死んだ。

 それを新聞で読んだ。

 美玲はよく言う。

 『お父さんが妹を殺したんです』

 父親の運転する車が事故を起こしたからだ。

 でも、それにしたって、自殺したいほど悲しいことなのだろうか。俺は当事者ではないので失礼かもしれないけれど。

 日本の自殺者は年間約三万人だという。

 戦争のない、こんなに豊かな社会になったというのに、決して少なくない数の人たちが、自分で自分を殺す道を選んでいる。ということは、現在の社会の在り方にどこか問題があるということだろう。

 俺には一つ不思議に思っていることがある。

 全ての生物には生存本能が備わっているのならば、どうして俺たち人間は、自分で自分を殺したいと思うのだろう。

 脳が発達して頭でっかちになってしまった人間は、他の生物のように、生きることだけを考えて生きることができなくなってしまった。

 美玲は、妹が死んでから、自分が必要とされていないような感覚を感じているらしかった。

 そして、愛されないことを極端に恐れた。

 美玲は物腰が柔らかく、誰に対しても丁寧な口調で話す、俺にはもったいないほどよくできた女だったが、一つ難点があって、自己肯定感が極端に低かった。

 そんなわけがないのに。あれを見れば分かるだろう。

 美玲の両親は、美玲たち姉妹それぞれを平等に愛しているのだと思う。妹のほうがとか、美玲のほうがとかはなくて、妹も大事だし、美玲も大事。それなのに、自分のほうばかりを愛してほしいというのはおこがましい話だ。生きてそこにいる姉を置いて、死んだ妹のことを悲しむのが、彼女にとって許せないのだ。

 そんな彼女は絶望していた。

 これ以上何を望むのだろう。俺は彼女の絶望を癒せそうにない。

 どうしてあの日にこんな娘を助けてしまったのだろうか、と悩むときもある。

 そんなに死にたいなら殺してやろうかとさえ思う。

 事実、俺は美玲に生きていてほしい。調子のいいときの彼女は、なかなかこれで可愛らしくていいのだ。

 だから俺は、彼女の意思を無視して彼女を助ける。

 それは彼女の願いに反している。死にたいという願望を踏みにじって生かす。

 死ぬのは彼女の自由だ。

 本人が終わらせたがっているのに、他人が生きていてほしいから、という理由で、生きろ、まだ苦しめ、と言うのは正しいのだろうか。

 死にたい、と言われて、じゃあ死ねば、と言ってしまいそうになる自分がいる。それをなけなしの倫理で抑えている。それは簡単だが、そんなことを言えば、彼女は本当に死んでしまうと思う。

 彼女といると、自分のエネルギーが吸い取られていくような気分を覚える。

 そして俺は、自分が付き合っていて疲れるような女は嫌いだ。

「――なあ、美玲。別れよう」

 何度目かの死にたいのあと、彼女の話を遮って俺は言った。

 俺たちは、俺たちのために別れなくてはいけない。でないと俺が病んでしまう。

 彼女は俺には重い。手を離さなければ、いつかその重さによって、自分も地中の底まで堕ちていくだろう。

「私を捨てるんですか?」

 美玲は据わった声で言った。

「私、瑛良さんと離れたら生きていけません。瑛良さんも私無しじゃ生きていけないでしょう? そうですよね?!

 私のこと、もう好きじゃなくなってしまったんですか。私にそんなに魅力がありませんか?」

「いや、そうじゃなくて――」

「そういえば聞きました。絵を持った美人の女の子が部屋に出入りしてたって」

 絵を描く美少女と言われると、露綺くらいしか思いつかなかった。

「あー……、露綺はただの友達だよ」

「その人、露綺さんっていうんですか?!」

 畳み掛けるように言う。

「愛してくれないなら死にます。瑛良さんは私が死んでもいいんですか?」

 いきなりカッターナイフを取って、きちきちと薄刃を出した。

「待て!」

「離して!!」

「分かった、分かったから!」

 半狂乱になって暴れる。

 声量を抑えろ、と思った。隣の部屋におじさんとおばさんがいるんだぞ。聞こえるかもしれない。

 しばらく美玲ともみ合った挙句、凶器を取り上げることに成功した。

「なあ、美玲。病院行こう? 治療しよう」

「私が病気だって言いたいんですね」

「いや、そうじゃなくて」

「なんでいつも私を悪者にするの?」

「だから、そんなこと言ってないって!」

 どうしてそう飛躍するのだ。正直言って、彼女の思考回路が全く理解できない。

「ねえ、瑛良さん。私のこと愛してる?」

「愛してる、って言ってるだろ……」

 俺はこんなにも彼女を愛しているのに、どうして伝わらないのだろう。

「おい、泣くなよ……」

 女の涙ってほんと困る。

 迷惑だ、とまでは言わないが、なんかこっちまで泣きたくなってくる。そういう物質が含まれているんじゃないか。男が戦意喪失してしまうような。

 自分のはいつくばった姿を鏡で見るようで、苦しかった。自分の無能さを叩き付けられるようで、自己嫌悪が募るのだ。

 俺は彼女を愛しているのだろうか。

 分からない。

 愛している、と言うけれど、ほんとはもううんざりしているのかもしれない。

 いつも自分を押し殺している美玲が、俺だけにこんな姿を見せるのは、俺を信頼している証だと分かってはいる。けれど、俺がつらいから俺の前で愚痴を吐くのはやめてほしい。俺の前でもみんなと同じように笑っていてほしい。そう思ってしまう俺は、薄情者だろうか。

 生徒会長で優等生。色々と気苦労もあるのだろう。でも、そんなにつらいならやめてしまえばいいのに。

 例えば頭の悪い美玲がいたところで、それが全てではない。俺の前で美玲は美玲であり続ける。

 結局彼女は何も捨てられないのだ。

 俺は自分の心に確信が持てなかった。

 それでも俺の心は彼女を愛しているはずだ。何故ならば、彼女に死にたいと言われるたびに俺が傷つくから。

 ただ思うのは、日本が銃社会じゃなくてよかった、ということだった。そうでなければ、彼女はとっくの昔に頭を撃ち抜いていただろうから。

 結局、彼女が泣き疲れて眠るまで寝られなかった。

 なんというか、すごい疲れた。