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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下3-6

7-6.Survival Lottery:臓器くじ

 『「そういえば、知っているかい。かの悪名高きナチスヒトラーも、かつて民意で合法的に選ばれたんだよ」

 机に向かっていた白衣の男が、椅子を回して振り向いた。年若い医者だった。

 白磁を思わせる肌。同じ男とは思えないほど線が細い。首からは聴診器を提げ、手には何故か実用的でないぴっちりとした革手袋を嵌めている。元々の眼鏡と相俟って、なんだかとてもよく似合っている。

 だが背景は普通の部屋だ。そして実際に人の暮らす家にしては、ものが極端に少ない。

 名前を仮にT医師としておく。名前を伏せるのは大人の事情ってやつだ。

 俺は天蓋付きのベッドに寝そべりながら、彼の話を聴いていた。

 ――二〇××年、増大し続ける社会医療費に対抗すべく、日本政府で新たな法案が施行された。

 その名も『臓器くじ法』。

 健康な人の中から一人を公平なくじで選んで、殺す。そして彼から取り出した臓器を、それを必要としている人に配る。

 拒否すれば死刑だ。

 人を助けるためとはいえ、健康な人を殺すのは倫理的にどうかと思うのだが、何故かこの法案が通ってしまったのだ。

 ……という設定で、俺たちは医療プレイをしている。

 二人とも、高校の制服を着ている。T医師は――瀧上由一は、白衣の下には学ランを着ている。

 つまりこれは〝ごっこ〟なのだ。見立てなのだ。

「どうしてこんな世の中になってしまったのだろう」

「よかったじゃないか。君も病気になったときは臓器が貰えるし、全体で見れば救命率は上がっている」

 T医師はクールだ。

「この先、病気になることなんてないけどな」

 俺は明日死ぬ。

 公正な抽選の結果、くじに当たってしまったのだ。明日には腹を開かれて、心臓、肺、肝臓、腎臓、小腸を取り出される。

「せめてもの花向けだ。手術の痛みを低減する薬だよ」

「ありがとう」

 俺は手渡された水薬を呷る。甘苦いシロップ薬。

「お前は俺が死んでしまっても悲しくないのかよ」

「悲しいよ」

 彼は机の上に広げられたカルテに目を落としながら、うわの空で言った。手元にあるのは臓器を必要としている患者のカルテだろうか。俺のいる角度からは、その内容までは見えない。ただ、目に入るのは彼の真剣な横顔だけだ。

 ここに五人の患者がいて、それぞれが異なる臓器を必要としている。彼らは余命僅かで、移植をしなければ間もなく死ぬ。そこに、臓器はいずれも健康な患者が現れた。彼を殺し、取り出した臓器を移植すれば、そいつは死ぬが、彼らは確実に助かる。

 健康に何の問題もない一人を殺し大勢を救うのか、それとも公共の利益に逆らって大勢を殺すのか。倫理的にどちらが正しいのか。

「彼らは明日死ぬ」

 T医師はカルテを放り投げた。五人分の紙片が宙に舞い、綺麗だった。

「僕は彼らを見殺しにする。ずっと一緒にいよう」

「匿ったら死刑だぞ」

「〝健康な人〟から一人を公平なくじで選ぶと言っただろう。僕は君に死んでほしくないから、君を損ねるよ。君を病気にする」

 スプリングが軋む。

「何、言って、るんだ……」

 T医師はベッドの端に腰掛け直すと、鴉を思わせる黒い唇を歪め、手袋を嵌めた指で、つつ、と俺の唇をなぞった。

 俺は柄にもなく顔を熱くする。何故、と戸惑う俺に、彼は口許を近付けて囁く。

「――ところで、そろそろ薬は効いてきた?」』

 

「――お茶入りましたよ」

「ん。そこ置いといて」

 美玲の声で現実に引き戻された。

 再び没頭するのも野暮なので、湯呑みを手にした美玲を見上げ、目が合って、ちょっと照れくさくてにやけたあと、読んでいた本を一旦傍らに置く。

「なんですか」

「いや」

 病室に美玲が遊びに来ていた。

 ちなみに俺が読んでいたのは美玲の本だ。しかも、彼女が自分で描いたのだ。

「あ、私の漫画勝手に読みましたね」

 面白い奴で、どうも美玲は、俺と幼馴染の由一をゲイカップルに見立てた漫画を描いているようだ。

 これはフィクションである。

 まあ、そうだよな。そもそもあいつ文系だし。でもなかなか、由一が医者だったら、という仮想現実の元で展開する物語は面白い。いや、俺も現実で彼とあんなぎりぎりの会話を交わしたくはないけれど。

 俺と由一が医療プレイをしている設定らしい。

 現実の彼は、将来は弁護士になりたいって言ってたっけ。大分昔の話だけれど。

 だが継父の瀧上牧師はいい顔をしないそうだ。彼は弁護士という人種が嫌いだった。倫理的に正しかろうと正しくなかろうと、依頼人を勝たせるためなら何でもする。一方の聖職者とは、人の法を容易く超越し、神の教えを実行する存在であり、対極にある。

 このようなジョークがある。

 神様と悪魔が訴訟をしたが、悪魔が勝った。弁護士は全員地獄にいたからである。

 閑話休題

「なあ、前々から思ってたんだけど――」俺は切り出す。「お前ってもしかしてふ」

「腐ってはないです」

「そうか」

 見ると、顔を真っ赤にしている。可愛い。

 なんだかんだ言って俺は美玲が大好きなのだ。

「あと、薬を呑むところは口移しにしたほうがいいんじゃないか、やらしい」

「うわあ」

 腐女子にどん引かれた。

「なんでそんなノリノリなんですか。男の人って……」

 心配しなくても同じ穴の狢である。

 訊いちゃいけない気がするが、訊いてしまう。

「ちな、俺が男と浮気したとしたら、どうする?」

「許さない……! でも、正直おいしい」

「おお……」

 業が深いな、腐女子……。

「何も思いませんか?」

「いや、いいんじゃないか、面白いし。絵上手いし。美玲ってすげえな」

 俺なんかすごい美化されてるし。だってほら、瞳とか、キラッキラだよ。

 美玲が言いたいのは、自分が同性愛者として扱われることに抵抗はないか、ということだろう。俺自身はノーマルだが、それはそれでフィクションと割り切って読むのは面白い。他者から見る自分の姿がどう見えているのかを知るのは。

 蓋し、東郷瑛良という人間は受動的だ。

 もう寛容なのだ。なんでも受け容れよう。あと多分由一には言わないほうがいい。

 美玲は口許を隠し、なんか複雑そうな表情で微笑んだ。あれ、駄目か。こういうところで褒めるのって。

「――で、どうするんだ、この漫画。売るのか?」

「え」美玲は動揺した。「そんなわけないじゃないですか?!」

 そうだよな。現実の知人描いちゃってるもんな……。

 彼女は誰にも見せない漫画を、一人で描き続けている。

 どうして彼女は漫画を描くのだろう。

「描くのが楽しいから、ですかね」

「過程が大事、ってことだな」

「私が死んだらちゃんと処分してくださいね」

 親には絶対見せないでくださいね、と念を押す。

 俺が美玲の立場だったら、自分が死んだあとに自分の性癖を知られてしまうと思うと、悶絶してしまう。

 それとも意識の宿る脳細胞は死滅し、恥ずかしいという感情すらも消えてしまうのだろうか。

 死んだあと、俺の意識はどうなってしまうのだろう。

 答えは日本最古の物語に書いてある。

 天の羽衣を着せられた瞬間、かぐや姫の翁を愛しい、かわいそうだと思っていた気持ちは消え失せてしまった。

 かぐや姫は天界の人だったのだと思う。彼女は天界へ昇っていったのだ。

 例えば、臓器移植。

 キリスト教の教えでは、肉体は魂の宇宙服にすぎないから、死んだあとに脱ぎ捨てられた肉体は、死後の世界にはどうしても要らなくなる。どうせならばということで、臓器を必要としている人々にそれをやれば、その人は生きられるし、自分は人助けに貢献できて、win-winになると思う。

 つまり、死後の自分のものがどうなろうとどうでもよくなってしまう。

 ……と、頭では分かっているのだが。

 というわけで、俺の前には一枚のカードがある。

 ドナーカード

 病院の待合室に置いてあったのを手にとったはいいものの、ためらっている。というのも、こんな簡単に偽造もできそうな紙切れ一枚で、と思うし、それがあるのを盾にして、医療関係者に好き勝手何をされるとも分からないからだ。

 人の死ってのは、もっと役所に書類を出すとかさ、これこれの臓器を提供しますって宣言して、厳かにやるもんじゃないのかね。だって葬儀のときに臓器が全部揃っているかそうでないかは、結構大きいことだと思うのだ。