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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下3-5

7-5.Phantom Limb:心の坐する場所

 「君のこと、瑛良って呼んでもいい?」

 俺の病室に、律人と露綺が見舞いにやってきた。

 ところで俺は、露綺よりも隣のこの平凡な少年に興味を持っていた。

 こういうのが一人いると安心する。

 どうして好き好んであんな女と行動を共にしているのだろうか。

 改めて彼を観察する。路加高校の学ランに身を包んだ男子生徒。線が細く、露綺とは対照的に気の弱そうな印象を受ける。

 特に取り立てて書くことがないような普通の奴。部活動には所属していない。母親は蒼美大の卒業生。それが暇つぶしに彼から聞き出した情報の全てだ。 

梓川ってさあ……」

 俺は何気なく口にする。律人が、ん? と振り向く。

帰宅部の割には姿勢いいよな」

 今も、背筋を伸ばして立っている。

 例えば、道端で知っている人に出くわすとき。顔のパーツというより、その歩き方の癖で人を見分けている分が大きいように思うのだ。人って、本当に色々な歩き方をする。

 律人は姿勢がいい。特に歩くとき。有象無象の中で歩いていても分かる。というか、目立つ。水平移動しても身体の軸がぶれないというか、無駄のない動きをしている。やたら綺麗。美しいということは、突き詰めれば異様、ということ。

 律人は、んー、と考え込んだあと、

「そういえば、剣道ならやってたよ」

「どのくらい?」

「小学校低学年から」

 聞いてみれば、中学体育でかじったって程度じゃなかった。

「へえ、マジか。強そう」

「全然大したことないよ……」

「じゃあさ、俺と喧嘩したら、どう? 勝てる?」

 ふざけて軽く拳を握る。

 ちなみに本気で喧嘩したら勝てないらしい。ただ、それで培った反射神経や姿勢の良さは、今でも身体に染み付いているのだった。

「騎士道だな」

「それを言うなら武士道だよ……」

 今日の律人は舌好調だな。つっこみがキレッキレだ。

「じゃあ高校も剣道部入るのか?」

「うーん、迷ってるんだけど、露綺さんと一緒にいられる時間が減るのは嫌だな」

 と、優しく微笑むのだった。

「天然たらしめ……」

「え? 天然たわし?」

 きょとんとした律人が声を張り上げる。

「……もういい、お前黙れ」

 律人は腑に落ちないという顔をしていた。どうやらこいつは無自覚らしい。

「変?」

 俺は彼の質問をいぶかしく思った。

「変って」

 剣道のことだろうか。こういうの、そういう普通か変かっていう次元じゃないと思うのだが。というかなんでこいつ、自分の長所を恥じているんだ?

「俺なら憧れるな。女子にキャーキャー言われそうじゃん」

「瑛良はいっつもそうだね」

 苦笑する律人。

 ところで俺には一つ気になっていることがあった。

「あのさ、不謹慎かもしれないけどいいか? あいつ、目を怪我してるのか? 何かあったのか?」

 露綺の左目を覆う包帯。それは彼女の美貌を刺々しいものに変えていた。

「露綺さんは、僕が最初に会ったときからああだった。お兄さんを恨んでいる人たちに襲われたんだって」

 ミズヤマシズキ。俺は彼に恨みを持つ者に襲われ、彼らに助けられた。

「お前たち、どういう関係なんだ?」

「パートナーみたいなものかな」

 彼は躊躇いも臆面もなく言った。

「パートナー? 何のだよ」

「人助け、かな?」

 信じられるだろうか。

 彼らは本当に人助けをしているらしい。元々、露綺が一人で活動していたのだが、彼は彼女に助けられたのだという。

「露綺さんはああ見えて、結構優しいよ」

 軽く微笑みさえ浮かべて言う。俺が彼女を恐れているように見えたらしい。

 俺はその言葉に耳を疑う。というより、彼と彼女の関係が分からない。弱みを握られたのか?

「彼女が何と闘っているかは分からないけれど、きっと何か大きなものと闘っているんだと思う」

 彼は遠い目をして言った。

 もう一つ訊いておきたいことがある。

「なあ、ここだけの話だけど、露綺って人を刺したことがあるんだって?」

「――そうよ」

 後ろから、少女が現れた。ぎょっとした。

「私は実の兄さんを殺すつもりで刺した。それだけのこと」

「…………」

「でも、しとめそこねた」

「やあ、露綺さん」

 律人が拍子抜けするほどのんびりとした調子で声を上げた。

 調子を挫かれて、露綺は彼を睨みつける。「この……」

 その事件はニュースにもなっていた。

 今から二年前の殺人未遂事件。当時中学二年生の少女Aが、大学一年生だった実の兄を包丁で十数箇所も刺した。傷の一部は肺にまで達し、意識不明の重体。

「刺し傷は兄さんの犠牲者の数」

「さながら、オリエント急行だな」

 俺は露綺に慣れてきた。

「それって真相? 僕まだ読んだことないんだけど」

 律人が控えめに抗議する。

 それにしても、

 予想以上に衝撃的な話だった。刺したのは実の兄だって?

「なあ、ミズヤマシズキについて教えてくれないか」

 妹に刺されるくらいの悪人。一体どんな人間なのだろう。

「私の兄さんは――」

 彼女の兄は、生まれつき心を持たない人間なのだという。そういう人間は、一定の確率で生まれてくる。

 人の皮を被った悪魔。見分けることは不可能だ。しかも厄介なことに、彼は他の人間の目にとても魅力的に映るらしい。

 その話を聞いて、

「心がなくて、生きてて何が楽しいんだ?」

 喜びや悲しみのない人生なんて、無味乾燥としていて、俺だったら早々に自殺してしまいそうだ。

「勘違いしないで。感情がないと言っているわけではないわ」

 ちなみに、どうやら彼も喜怒哀楽は感じるらしい。

 ただ、他人の感情に共感することができないので、他の〝正常〟な人間の反応をコピーし、心ある普通の人間に擬態するのだという。

「心を理解できなくても、心を理解しているふりをすることはできる。例えば、ある部屋に英語しか理解できない一人の英国人を閉じ込める。部屋には中国語のこの文字が書かれていたら、このような文字を書いて渡せ、と書かれている一冊の分厚いマニュアル本があって、外から中国語が書かれた紙が渡される。彼らは文通をする。外の人間は手紙を読んで、中にいる人が中国語を理解している人間だと思い込むけれど、実際は中の人は、中国語を理解できない英国人で、マニュアル通りの作業を繰り返しているだけ。中国語を理解していなくても、中国語でコミュニケーションをすることは可能なのよ」

「まるでコンピューターのシステムみたいだな」

 心はどこにあるのだろう。

 古来、心は心臓に宿ると考えられてきた。

 感情の動きが、ダイレクトに心臓の鼓動に影響を与えるからだ。

 研究が進むうちに、そういった感情は脳の働きによることが分かってきた。

 十九世紀、フィネアス・ゲージという人が、鉄の棒に頭を貫かれた。彼は幸いなことに一命を取り留めたが、前頭葉を損傷し、温厚な性格だったのが気まぐれで乱暴な性格に変わってしまったという。俺のように、脳の一部を損傷した人間の人格が、崩壊する例が確認されたのだ。

 一方で、内臓に宿るという考え方もある。

 臓器移植を受けた人間に、ドナーの嗜好が現れるという事例が報告されているからだ。

「でも、何のためにそんな人間が生まれてくるんだ?」

 自然が反社会的な人間を生み出すなんて、種の繁栄に反していると思うのだが。

「戦争を起こすため」露綺は言った。「世の中温厚な人間ばかりだったら、外敵に食われるか、外国から攻め入られて大人しく滅ぶしかないわよ」

 ……そうか?

 猛獣はともかくとして、本当の本当に全ての人間が優しく穏やかになれば、世の中から争いはなくなるのだろうか。

 キリスト教とは、アメリカの銃撤廃運動のようなものだと思っている。

 あれは、全世界の人々がキリスト教化されることを前提にした教義だ。全ての人が聖書の教義を守れば、本当に愛に溢れた優しい世界になるんじゃないかと、俺は結構本気で思っている。

 でもその均衡は、一人でも銃を持った人間が現れれば崩れてしまう。

 銃を持たない人々は、一方的に搾取され殺害される対象に成り下がる。

 自分が銃をなくしたとしても、他人が持っていて自分を攻撃する可能性があるから、自衛のために銃を持たざるをえない悪循環。

 日本みたいに、銃が一掃されていればそんなことは起こりえないが、その理由のために、銃規制には未だ反対の意見も根強いのだ。銃なんて犯罪の元にしかならないというのにだ。

 自分が愛を持って人を許すとしても、他人はそうではないかもしれないから、俺たちは武器を取って戦うしかないのだ。

 そうでなくても、俺たちの何気なく言った一言が、相手を傷つけてしまうこともある。

 俺たちは何故互いに武器を取り、傷つけ合わなければならないのだろう。

 だからこそ『隣人を愛』する必要があるし、自分に良いことをしてくれる人だけにでなく、そうでない人にも良くする必要がある。良くしてくれる人に報いるのは、『罪人でも同じことをしている』から。

 報復の連鎖を自分の番で止めなければならない。復讐は争いしか生まないのだ。

 閑話休題

 また、彼らは人間の数が増えすぎたときに、人を殺すことで人口を調整する役目を担っていた。地球上の食料には限りがあるからだ。だがこのご時勢に、戦争が得意な人間は不要になってしまった。というかむしろ危険だ。

 彼らは罪悪感や同情による歯止めがきかず、飽きるまで快楽を求めたり、他人のものを平気で損ねたりする。

 俺は思考停止していた。

「はあ? わけわかんねえ……」

「じゃあさ、逆に」

 律人が口を開いた。

「君は何故自分に心があるか、考えたことはあるの?」

 ――そんなこと、考えたこともなかった。

 何故心があるか、だって?

 なんてそんなこと訊かれても、道徳の教科書の、最初の一ページ目に書いてある。

 全ての人間には心がある、って。

 俺たちは心があることを当たり前だと思っている。

 でも実はそれは間違いで、心があるということのほうが、むしろ不思議で異常なんじゃないのか。

 心とは、俺そのものではなく、ミズヤマシズキが戦争を起こすという使命を背負って生まれてきたように、心も人類が生き残るために必要上生まれた機能にすぎないのではないだろうか。

 何故俺には心が備わっているのだろうか。