雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下3-3

7-3.Black Knights:黒の騎士

  ところで、俺はある少女のことが気になっていた。

 毎週、週末になると通ってくる。路加高校の黒いセーラー服を着て、透き通った白磁の肌、凛とした気の強そうな目元に、肩甲骨辺りまで伸びたさらさらとした黒髪の美人だった。街を歩いてもそうそう見かけないたぐいまれな美貌だ。さらに彼女は、白い包帯で左目を隠していた。目を怪我しているのかもしれない。だがそれは瑕であるどころか、彼女の美貌に刺々しいものを加えていて、一種倒錯的だった。

 そんな彼女は、傍にスケッチブックを抱えて、神経質そうに精神科の待合席に座っている。

 俺は遠目から彼女を眺めながら、彼女に話しかけるシミュレーションを頭の中で何度も楽しんだ。

 そしてついに本当に話しかける機会を得た。

「何描いてるんだ?」

 何気なく隣に腰掛けて、横からスケッチブックを覗き込む。彼女は警戒してキャンバスを脇に隠した。

「いや、ずっと見てて、気になってたんだ。君、美人だからさ。お近付きになりたいなーって。どんな絵描いてるのかなーって」

「…………」

「照れないでよ、本当のことなんだから。俺、ここの入院患者で暇なんだ。迷惑だと思うけど、付き合ってくれないかな? 俺、東郷瑛良っていうんだ。君は?」

 無視。でも慣れている。押していくのが俺のスタイルだ。面白いね、と言ってくれる娘もいる。

「聴いてくれよー。俺さ、大変なんだよ。目を覚ましたら病院でさー。頭打っちゃって、なんか幻覚? みたいなもの見えるようになるし。笑っちゃうぜ。いや、笑いごとじゃないのにさ」

 ミズヤマさーん、と呼ぶ声がする。診察の時間のようだ。

 と、彼女が口を開いた。

「ミズヤマシズキを知ってる?」

「え?」

 そんなものは知らない。かろうじて人名なのは分かるが。

「そう。ならいいわ。彼には近付かないほうがいいわよ」

 そう言って診察室に吸い込まれていく。それにしても、ミズヤマという名前なのか。できれば下の名前も知りたいが、今のところは収穫だ。

 その後も、俺は彼女にちゃらく話しかけ続けた。

「よ、ミズヤマちゃん」

 少女は不機嫌そうに舌打ちをする。んだよ、感じ悪いぞ。

「話しかけないで」

「えー、だって君の絵まだ見せてもらえてないし。ね、見せてよ」

「見たら消えて」

 彼女は嫌々ながら俺にスケッチブックを手渡した。

 厚紙の表紙をめくる。黒い絵だった。希望もへったくれもない、女子高生に似つかわしくない、黒いクレヨンのみで描かれた絵。

「お、おう、なんかすごいな……」

 俺は感想を述べようとして、予想の斜め上を行く代物に閉口してしまう。これはあれじゃないか。ガチで心を病んでる奴の絵。

「別に無理して褒めなくてもいいわ」

 彼女は精神科の通院のために週末通っているそうだ。芸術療法というらしい。

「ところで、前言ってたミズヤマシズキとやらは何者なんだ?」

「私の兄よ」

 ――彼女の話はこのようなものだった。

 彼女の兄は危険な人物だった。

 しかしそれを信じる人はいなかった。彼は大抵の人にいい顔をするので、そうするうちに騙され、みんな破滅していった。

「とにかく兄さんには近付かないで」

「おう、分かったよ」

 そう答えると、彼女は意外そうな顔をした。

「――んだよ、鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔して」

「別に。ただ珍しかっただけ。今までの人たちはみんな信じなくて自滅していったから」

 彼は自然現象のようなものだ、と彼女は説明した。

「兄さんに目をつけられたらまず逃げられない。自分だけは騙されないなんて思わないことね」

 嵐のようにやって来ては全てを滅茶苦茶にし、何事もなかったかのように去っていく。

 とりあえず、とんでもない野郎だってことは分かった。

 ところで、

「とは言っても、お前の兄貴ってどんな奴なんだ?」

「美しい男よ」

 ……そりゃそうだろうな。美人な露綺の兄貴なんだから、美形に決まっている。

「分かった。とりあえず、やたら綺麗な男には近付かなければいいんだな」

 まあそんな危険な奴なら、好き好んで近付いたりはしない。綺麗な女ならともかく、綺麗な男にわざわざ用事はないわけだ。

「そう。特にあなたみたいに不幸の香りをさせているような人間には、向こうから近付いてくるわ。気をつけることね」

 それからも俺たちは度々話をし――専ら俺が一方的に話しているのだが――彼女の名前が露綺ということも知った。

 

 その日は夕方から雨が降った。

 診察を終えた露綺と俺が話していると、窓の外で雨がぱらついていた。見ると、彼女は傘を持っていない。一階の売店に行けばビニール傘など大抵のものは手に入るが、それだけのために傘を買うのもどうかと思う。

 エントランスまで見送ったあと、俺は言った。

「送ってくよ」

「大丈夫よ。迎えの人がいるの」

 返ってきたのは意外な答えだった。友達がいなさそうだと思い込んでいたからだ。

 彼女はそう言うが、手前一人で帰すわけにもいかない。傘も差さずに夜の雨の中を飛び出した彼女を追って横につく。

「じゃあ、そいつと合流するまで送るよ」

 目前にナイフが突きつけられた。ぎょっとした。なんでこいつは刃物を持っているんだ。

「一人で帰れるわ」

 そう言って踵を返す。

 ――危っぶねえ。追うなということだろうか。刃物を突きつけてくるくらいだ。だが不可解なのは、そうでもないらしいということで。

「勝手にするといいわ」

 と付け加える。結局どっちなのかはっきりしてほしい。癪に障るが、付き添っていくことにした。俺の性格の問題だろうか。やっぱり俺がいないところで知り合いが危ない目に遭ったりしたら、夢見が悪いのだ。

 きな臭い通りを行く。夜中だが人通りが多い。俺はふと隣の露綺に話しかけた。

「で、そいつとはどこで落ち合うんだ? ――露綺?」

 彼女の姿を見失う。辺りを見回し、一瞬視界の隅に、腕を引かれ、人波に揉まれて攫われていく彼女の姿が見えた。

「東郷くん!」

 こちらに腕を伸ばす。その姿が暗がりに消えた。

「待て!」

 人混みをかき分けて彼女を追う。連れ込まれたのは路地裏だった。建物と建物の間の、日当たりの悪い袋小路。

 俺はその様子を物陰から伺う。高校生らしき少年たちが数人。通常時なら勝てなくもない。昔はやんちゃをしていたのだ。だが、この松葉杖をついた足でどうにかなるとは思えない。

 俺はできるだけへらへらとした笑みを浮かべながら、彼らの前に躍り出た。

「――あのさあ。彼女が何か悪いことしたのか?」

「お前もミズヤマシズキの仲間か?」

 そこからあとはよく分からなかった。何か喚いている。ミズヤマシズキに何かされたって。

 だから、何なんだよ、ミズヤマシズキって。

 俺が先か、彼らが先か。お互いがお互いの出方を伺っていたとき、背後で、ぐあ、とか、野太い悲鳴が聞こえてきた。

 思わず振り返ったとき、喉仏の骨に、羽根が触れるくらいの軽さで何かがとん、と通り過ぎた。次の瞬間、喉に信じられない激痛が走り、呼吸が停まる。脈が飛んで、頭が真っ白になり、眩暈に似た感覚が襲った。どろりと自分の存在が融けだしたような感覚。一瞬、世界と自分との区別がなくなる。俺は血の色をした水たまりになって、地面に叩き付けられた。

 薄れゆく意識の中で、舞うように視界に黒いものが翻るのを見た。

 …………

 俺はまだ人の形をしている。気絶していたのはたった数十秒のことだったらしい。はっと我に返ると、倒れた目と鼻の先に地面が迫っていた。ぼやけた視界の先には、うつ伏せの男たちが死屍累々と横たわっていて、立っているものはいなかった。ただ一人を除いて。

 前から誰かが歩いてくる。

 と、顎に棒状のものがあてがわれ、強引に上向かせられて、俺はその姿を見た。学ランを着た線の細い少年だった。彼の手からは長い棒状のものが伸びている。紺色の傘だ。

「君は僕の敵?」

 少年が無機質に訊ねた。気圧される。違う、と答えるしかない。そうしなければ命がない。そう思えるような。

「答えてよ」

「――梓川くん」

 苛立たしげな声が上がった。露綺だ。腕を組んで壁にもたれかかっている。一部始終を見ていたらしい。

「彼は巻き込まれただけよ。途中まで送ってくれたの」

 その言葉の意味を理解するにつれ、殺気立っていた少年の雰囲気が段々柔らかくなっていく。よく見ると垂れ目で頼りない感じに見える。

 そしてこう訊ねた。

「痛くなかった?」

「……え、あ、まあ?」

 少年はほっとしたように胸をなでおろした。表情豊かに、くるくると顔色を変える。予想外の台詞に、頭の中で疑問符が飛び交う。なんなんだ、こいつ。花が飛んでいるし。

「よかった。ごめんね。悪い人たちを倒すついでに、君にも突き打っちゃった」

 ついでにってなんだよ。

「露綺さんの友達?」

「友達じゃないわ」にべもない露綺。

「いや、友達だろ」

「そっか。ありがとう。僕は梓川律人っていうんだ」

 彼はそう言って、閉じていた男物の傘をぱっと開いた。傘を傾けて、彼女を中に入れてやる。二人で何やら話していた。

「お兄さんが傘持っていってあげなだって」

「別にいい」

「ミズヤマシズキのことか?」

 俺は思わず口を挟んだ。そいつとは敵対関係にあるんじゃないのか?

「お兄さんの予報はよく当たるんだ」

 よく見ると、少年の制服の肩が濡れている。彼女に惚れているのだ。

「露綺さん、帰ろう」

 そう言って、さりげなく露綺の手を握る。振り払われた。だが彼は構わず、あはは、と笑っている。

 俺は放心して、彼らが去ったあともしばらく座り尽くしていた。

 それはある意味衝撃的な、梓川律人との出会いだった。