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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下3-2

7-2.Fragile:こわれもの

  どうやら俺は幻覚が見えるようになってしまったらしい。

「――高次脳機能障害?」

 ほう……、じゃなくて。

 早い話、脳挫傷だった。

 医師から説明された話では、特に後頭部の損傷がひどく、衝撃自体は前から来たのだが、慣性によって後ろに伝わり、当然硬い頭蓋骨と柔らかい脳の間には何もないから、無防備な状態で叩きつけられた。

 こわれものであるところの俺の脳は、衝撃でいかれてしまったのだ。

 とはいえ、片麻痺や四肢の切断という事態にならなかっただけよかったと思う。

 次に、初老の男性と少女が訪ねてきた。

 俺が助けたあの少女だった。とすると、隣の男はその父親だろうか。少女は気まずそうに黙って俯いている。

 セーラー服――路加高校の指定のものだ。ブレザー主流の現代では珍しい――を着ていて、膝丈のスカートは大人しそうな印象を受ける。

「萩原です」男が言った。そして決して綺麗ともいえない病室の床に土下座して、額をつけた。「娘を助けてくださって、本当にありがとうございました」

 我が子を救われた親ってそんな感じなのだろうか、と思った。

 ともあれ、自分はそこまでされるほどではないと思うので、気まずい。

 あのときだって、救ったなどとかっこいいことを言っているが、実際は咄嗟に身体が動いただけなのだ。良心も損得勘定も働かせる暇はなかった。

「美玲」

 お礼を言いなさい、と肘で小突く。少女はしばらくそれを無視していたが、

「ありがとうございました。萩原美玲です」

 そう言って丁寧に頭を下げた。

 凛とした声だった。この少女はこんな声で話すのだな、ととりとめのないことを思った。

「怪我、なかった?」

「はい」

 その通りで、彼女の外見には外傷は見当たらない。俺一人が轢かれたようだった。

「よかったね」

 俺は傷んだ表情筋を総動員して、いびつな笑顔を作った。

 俺の犠牲でこの少女の笑顔を救えたのならば、安いものだ、とそう思えた。自分の行いが報われたような気がしたのだ。

 それが俺と美玲との出会いだった。

 申し訳なく思っているのか、その後も度々、美玲は俺を見舞いに来た。

 そして俺たちが恋仲になるまでに、そう時間はかからなかったのだ。

 

「あー、くそ……」

 リハビリで文字を書く訓練をしている。だが、何度書いても鏡文字になってしまう。文字が鏡で写したように反転してしまうのだ。俺のノートは、文字を覚えたての幼稚園児か小学生のようだった。

 それを見た作業療法士は焦らなくていい、といったことを言ってくれたが、それでも内心焦燥は隠せない。

 美玲を助けたのは正しかったのだろうか。――俺は、未だに分からないでいる。俺の卑しい部分がそう呻いている。

 見ず知らずの他人を助けた代償は、あまりにも大きすぎた。

 進学は諦めるしかないのかもしれない。

 俺は医者になりたかった。人を助ける職業に就きたかった。

 世の中に存在する全ての仕事は、何かしら社会の役に立っているものなので、別に医者でなくてもいいのかもしれないが、俺は昔病弱で、そんな俺を世話してくれた彼らが身近で、憧れていたのだ。

 ――病院の地下のとある一角には、面白い場所がある。

 殺風景な白い壁と扉の続く廊下の間に、大小色とりどりの蝶々が漂っていて、天使の梯子を形成しているのだ。

 その扉には『霊安室』とある。

 蝶を見た、という話をすると、魂かもね、と看護師は言った。さすが妄想のある患者の扱いに慣れている。

 なんでも、古来から人の魂は蝶として表現されてきたのだという。

 こんな景色が見られるのなら、幻覚も悪くないな、と思うエピソードであった。

 ――魂は本当に存在するのだろうか?

 路加高校はプロテスタント系のミッション校なので、少数ではあるものの本物のクリスチャンもいる。俺もその一人だ。

 キリスト教では、人間には魂が存在し、肉体はその器であるという教義を前提にしている。

 そういうことを延々と考えてしまうのは、結局のところ俺は暇人なのだろう。

 身体を動かすなりすれば、そんな陰気なことを考えている暇もなくなるのだろうが、生憎俺の脚は吊られていて、絶対安静を命じられている。

 暇なので、本を借りてきてもらって読むことにした。

 こんなふうに読書をするのは、小学校の頃以来だ。

 似合わない読書なぞしてみるたびに、俺の意識は深層へと潜り、沈んでゆく。