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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下3-1

7-1.Metaphor of Violinist:ヴァイオリニストの比喩

  ――その瞬間、俺の脆い脳みそはマシュマロのように頭蓋骨の裏側へと叩きつけられた。

 

 ある日、道を歩いていると、車道を挟んだ向かい側に一人の少女が立っていた。そんなものには道行く人は誰一人注目していなかったが、次の瞬間、彼女の身体が突き飛ばされたかのように一歩車道に出る。

 横からは、青信号でスピードを緩めずに車が迫ってきていた。

 自殺か事故かは知らない。だが生きていれば話はできる。

 先に身体が動いていた。俺は後先のことを何も考えずに道路に飛び出すと、少女を車道の外に突き飛ばす。道路に転がった俺の身体は、急ブレーキをかけた自動車に跳ね飛ばされて、数メートル吹き飛んだ。頭から落ちてやすりのようなアスファルトに頭皮を削られ、人体の可動域を無視して叩きつけられた手足が、火を噴くような痛みを発し始める。

 薄れゆく意識の中で、これで俺は死んでしまうんだな、と思った。

 

 一面の白色だった。

 俺はパニックに陥った。目に飛び込んできた、知らない天井。俺はどうしてこんなところにいる? 何があった?

「――心理テストだ。ある朝、目を覚ますと君の身体から管が出ていて、さる、有名なヴァイオリニストの身体に繋がれていた」

 俺は腕を持ち上げる。白い入院着に包まれた腕の、手首から透明な管が伸びている。それは隣のベッドの上の何かに繋がっていた。白い布団に覆われて、それは規則正しく上下している。くぐもった息遣いも。

 枕元には、ヴァイオリン。

 その布団の下をめくって覗いてみたい気がしたが、同時にひどく恐ろしい。その下に、得体のしれない怪物が潜んでいる気がして。

 俺は上体を起こして傍らの声の主を見た。白衣を着た男。医者のようだ。見知った顔のような気がするが、思索しているうちに再び口を開いた。

「そのヴァイオリニストは、他人の臓器を頼ってかろうじて生きていることができる。君は熱狂的な音楽愛好家に誘拐され、ヴァイオリニストが病から回復するまでの九ヶ月の間、彼と繋がっていてほしいと頼まれた。ここで問題だ。君なら、自由になるために管を抜く?」

 その前に一つだけ確かめておきたいことがある。俺は訊ねた。

「管を抜いたら、どうなる?」

「ヴァイオリニストは死ぬ」

 医師は即答した。あまりにもさっぱりとしていた。

 そういう間も、俺と彼との間で透明な管の中を運ばれていく赤黒い液体は、この一面の白色の中で、ひどく非現実的だった。

 今、そのヴァイオリニストやらは俺の臓器を借りて生きているのだ。得体の知れない他人と繋がっているだなんて気持ちが悪いが、人命は何よりも尊くて、その命は俺が自分の身体を自由にする権利よりきっと重い。

 それに期限がある。たった九ヶ月だ。我慢すれば、彼は全快して一人で生きられるようになるのだ。

「まあ、九ヶ月なら……」

 医師は畳み掛けるように言った。

「じゃあ、九ヶ月じゃなくて、九年間だったら? これから先、死ぬまで一生だったら?」

 

 ――悪い夢を見て飛び起きた。頭の中でぐわんぐわんと銅羅が鳴るかのように響いている。冷たい寝汗が肌に張り付いて不快だ。

 そこは、四方を白い壁で囲まれた部屋だった。

 ベッド際で、ヘッドボードに焼菓子を置こうとしていた黒衣の男が、俺が目を覚ましたのに驚いて軽く腕を引っ込めた。

「起こしてしまいましたか」

 長身の祭礼服に身を包んだ、穏やかそうな声の男。肘からは籐のバスケットを提げている。

 瀧上牧師だった。幼馴染の由一の父親で、俺がこの春入学した路加学園高等学校の教員だ。

 ところで、俺はこの人が苦手だった。

 彼の目には、俺の心はとてつもなく醜く野蛮に見えているんじゃないかと思って、自分が一方的に悪者にされているような気分になるからだ。

 はっきり言って、頭おかしいと思う。でも悪い人ではないし、俺の気持ちはどっちつかずだ。

「お加減はいかがですか?」

「どうしてあんたがここに?」

 子供の頃から不躾な口調で話しかけていたので、今更敬語に直すのも気恥ずかしい。俺はこちらのほうが慣れていた。

「病気の子供たちの慰問に」

 彼の所属する教会は、病気の子供を励ますために年に数回、病院を訪問している。

 ヘッドボードに伸ばしかけていた手をこちらへ方向転換して、俺の手に焼菓子の小袋を落とす。どうやら配っているようだ。

 ……さて、

 俺は車に轢かれそうになっていた少女を助けて、自分が轢かれてしまった。

 脚を骨折したのか、ギプスで固められて、上から分厚い包帯が巻かれている。今は麻酔が効いているのか、思ったほどの痛みはない。

 あの少女は無事だったのだろうか。

「あのさ、頼みがあるんだけど」

「なんですか」

「由一には言わないでおいてくれないか?」

「分かりました。由一さんには黙っておきます」

 俺にとって由一は英雄だった。

 いつも冷静で、思いやりがあって、身体が健康だ。

 本人には口が裂けても言わないが、俺は密かに由一に憧れを抱いていた。というか、心酔していた。

 俺が本来の実力よりも随分と偏差値が上の路加高校を目指したのも、実のところ彼の存在が大きかった。彼本人は、父親の瀧上牧師が勤務しているので何かと都合がいい、ということで選んだようだが。

 そんな彼に、俺が少女を庇って車に轢かれたなどと知れたら、何とは言わないが恥ずかしい。

 彼は優しい微笑みを浮かべる。

「東郷くんは、本当に由一さんのことが好きですね」

「ば、そんなんじゃ――」

 顔面が熱くなるのを感じる。

「分かります。頭もいいし度胸もある。僕の自慢の息子です」

 彼は少し神妙な顔になった。

「――東郷くん。君に頼むのもなんですが、由一さんを見守ってあげてくれませんか。もし彼が良くないものに魅かれそうになったときは、止めてあげてほしいのです」

 ……なんというか。

 この人も人の親なのだな、と思った。

 正直この人に苦手意識を持っていたが、見方が変わった気がする。

 ところで、

 さっきから思っていたのだが、瀧上牧師の頭の上に先ほどから雨雲が見える。……と言うと何言ってんだよ、と思われるかもしれないが、丁度彼の頭上に一人用の小さな黒い雲がまとわりついていて、雨が降り続けているのだ。おかげで彼の頭はしとどに濡れて、毛先からは水が滴り落ちている。

 だが当の本人は自覚がないのか、それを気にも留めない。まるで見えていないかのようだ。

 俺は思わず言った。

「なあ、雨降ってない?」

「雨、ですか?」

 腰を捻って窓の外を見る。天候のことだと思ったらしい。外の空はぴかぴかの快晴だった。

 それとも俺の目がおかしいのだろうか。そう思って目をこするが、消えない。元々以前からそんな雲がある人だったというわけでもない。

 と、

「お父さん!」

 そう叫びながら、一人の少女が病室に飛び込んできた。

 色素の薄いセミロングの癖っ毛に、白いレースのリボンを結んでいる。三白眼気味の目は眠そうで、小動物を思わせる、西洋人形のように整った、愛らしい顔立ち。

 見覚えがなかったが、それが誰であるか、直感的に悟った。

「――麻耶?」

 瀧上麻耶。

 小学校のときからつるんでいる、由一の双子の姉で、こちらとも長い付き合いがある。

 しばらく見ないうちに、麻耶は美しい少女へと成長していた。

 見蕩れてしまっていた、と言ってもいい。それで思わず、すっとぼけたことを口にしていた。

「綺麗になったな、お前」

「うざ」

 中身は、変わってないようだな。ちょっと安心してしまう。

「麻耶さん、病室ですからお静かに」

「ねえお父さん、見て!」

 しかも彼女は、包んだ手の平に鳥の死骸を載せていた。

 ――いや、まだ生きている。

 片方の翼が刃物のような鋭利なもので根元から切り落とされ、赤い肉が見えている。その羽は明らかに人の手によって切り取られていて、面白半分にやった悪意が見えた。飛び立つこともできないまま、残った翼を不恰好にばたつかせている。

 来る途中に前庭で見つけたのだという。

「なんでこっちに持ってくるんだよ!」

 随分な見舞いだな。

「ここ病院だから」

 と至極真っ当な答えが返ってきた。確かにそうだ。

「見せてください。――これはひどい。どうしてこんなことをする人がいるのでしょう……」

「ね、ひどいでしょう」

 瀧上親子は肩を寄せ合って見る。

 麻耶と瀧上牧師は、この年頃の娘と父親の組み合わせにしては珍しく仲がいい。

 おまけに、二人は血が繋がっていないという。

 俺が由一と初めて出会ったのは小学校の頃で、そのとき彼の名前は日生由一といった。

 離婚したのかは知らないが、由一が毛嫌いしているから、さぞクズな父親だったのだろう。母親が瀧上牧師と再婚して、途中で苗字が変わったのだ。小学校三年生のときだった。実は彼は、二人にとって継父なのだ。

 他の男の子供を、愛情を持って育てることはできるのだろうか。俺には分からない。

 ただ、彼は連れ子である由一と麻耶を、目に入れても痛くないほどに溺愛していた。弟の由一も継父の彼のことを尊敬していて、お互いがお互いを慈しみ合っている、美しい家族の姿。それが俺の知る瀧上家だった。

 由一の母親も見たことがある。

 教会のクリスマスイヴの聖餐式で、瀧上牧師の隣にいる車椅子の美しい女性。牧師夫人に相応しい、貞淑な乙女だった。彼女が俺に笑いかけてくれたことは、一度もなかったけれど。

 ふと腕時計に目をやって、

「随分と話し込んでしまったようですね。僕はそろそろ失礼します」

 瀧上牧師は残りの訪問を片付けに踵を返す。その前に、彼は一度振り返った。

「麻耶さん、いい時間になったら帰ってくるんですよ。今日の晩御飯はカレーです」

「えー、ほんと? やったー!」

 静かに引き戸を閉めて、彼の姿が消える。

 ……麻耶と瀧上牧師は仲がいいが、どこかリップサービス的でもある。悪く言えば媚びているというか。彼も彼で善い父親を演じようと肩に力が入っている感じがあるのは否めない。それで関係が円滑になるのなら、悪いことであるばかりかいいことなのだけれど。

 ところで、

「なあ、麻耶。あの雲、お前にも見えたか?」

「うん」

 予想外にも、彼女は肯定した。どうやら見えていたのは俺だけではないようだ。俺はほっと胸を撫でおろす。

 彼女はさらにこう続けた。

「あれは幻覚よ」

 そう。

 彼女は豊かな想像力を持っていて、架空の出来事を、まるで現実にあるかのように思い描くことができる。その副作用で幻覚に悩まされているのだが。

「いつものことよ。気にしなくていいわ」

「いつものことって」尋常じゃなく降られまくっていたのだが。

 麻耶は芝居がかった動作で腕を広げると、

「ようこそ、世界の裏側へ。復路の切符はないわ」