雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下2-5

6-5.Femme Fatale:宿命の女

  あの後、念のためということで、瑞山雫綺という男について調べた。

 両親と、妹の露綺とで四人暮らし。家族仲は概ね良好。蒼浪美術大学の絵画科・日本画専攻の四年生。三年前、妹に刺され、意識不明の重体。経歴のどこにも傷がない。露綺に刺されたこと以外は。

 しかしながら、多すぎる。彼の周りで死ぬ人が。偶然と言ってしまえばそれまでだが、露綺が疑うのも無理はない。

 と、

「――よう、相棒!」

 強く肩を叩かれた。

 動揺して書類を取り落としそうになるが、努めて落ち着きを取り戻す。

 嫌々振り向いたら、彼の突き出していた人差し指が僕の頬に食い込んだ。僕は不機嫌な顔をする。

 くそが。

「そう睨むなよ。何読んでるの?」

「『言葉、言葉、言葉』」

「拗ねないでよ。ごめんって」

 こいつの相棒になった覚えはない。

「それにしても、そんなのは絵を見て、壁紙の染みを見てます、って答えるくらい無粋だよ」

「でも、〝印象〟よりはましなんでしょう?」僕は彼に向かって笑みを見せた。

「俺、君のそういうところ、嫌いじゃないな」

「――つまらない予算案ですよ。あなたこそ何か御用ですか?」

「ううん。世間話」

 と言って、雫綺は許可した覚えもないのに椅子にかける。

 ところで先日、日生央真の卒業制作が一人の錯乱した美大生により破壊された。

 犯人の青年は、〝悪魔〟に命令されたと証言しているそうだ。ニュースなどではよく聞くが、実際にあるものなのだ。完全に正気を失っている。この様子だと、責任能力なしで不起訴になりそうだ。

「『空間概念』……」

「ん、どうしたの?」

「いや、なんでもない」

 僕は頭を振る。

「あれ、君がやったの?」

「いいえ。あなたがやったんですか?」

「ううん」

 彼をそそのかし、操って絵を破壊させたというなら、僕は無関与だ。

 否定し合うが、お互いがお互いを本気にしていない。心の底では信じていないだろう。

「彼のやったことを、専門用語で非文化的蛮行というそうだけれど、音として悪くない響きだ」

「……そうですか?」

「だって、〝非文化的〟だぜ? 純粋な音の響きもさることながら、文化とは対極だと言い切っているんだぜ。〝文化〟という言葉ほど曖昧なものはないのにねえ。その定義を決めるなんて、何様だと思わない? それに案外こういうのは、最も文化的な人間の仕業だったりするものだ」

 雫綺によれば、その美大生は同大学だけあって、彼も知っているらしい。大人しくて気が弱いが、恋人と仲睦まじい好青年だったそうだ。そんなことをするようにはとても見えなかったという。

 まあ、全てのことに原因を求めることもできない。偶然というものも確かにある。そう、彼が一人で勝手に病んだのだ。

 そう思ったのだが、

「例えば、麻耶ちゃんとか」

「は?」

「死体がないってことは、生きてるんだろ」

 僕は声を荒げた。

「だから、麻耶は屋上から飛び降りたって言ったじゃないですか。僕以外にも沢山の人が見ているんですよ」

 麻耶なんて死んでしまえばいいという、僕の願望が見せた幻? そんなわけがない。

 僕が見たのは幻覚だったのか? 僕が気狂いの梓川律人のように狂っているとでもいうのか。冗談じゃない。それこそ発狂しそうになる。僕はあいつと同じじゃない。

 死体がないから生きているという、とんでも理論が飛び出す。

「何故キリストが、磔刑の三日後に復活したと思う? キリストは双子だったからさ」

 ……くだらない。僕は呆れて頭を振った。真面目に取り合って完全に損した。

「君が死んだってことにしたいだけ。完全に私怨で梓川律人に喧嘩を売りたいだけ。腕っ節では敵わないから。そうだろ?」

 雫綺に言われて気付いた。確かに、律人のあの、のほほんとした顔を見ていると、なんだか無性に腹が立つ。だが麻耶が死んでいなかったとすると、僕が律人につっかかる理由はなくなる。だから困る。

 雫綺は続けて意外なことを言う。

「それってもう、血じゃない?」

「血?」

「有名な話。蒼浪美術大学の天才・日生央真と、秀才・梓川直人は、仲が悪かったっていうし。なんでも、一人の女性を巡って、揉めたとか揉めなかったとか」

 ――何やってんだよあの男。

 暫定父親ながら、恥ずかしい。

 蒼美大の天才と秀才。その喩えは知る人なら知っている。日生央真が蒼美大に在籍していた当時、もう一人の才能ある学生がいた。日生央真という圧倒的な才能がいなければ、歴代の優秀な学生たちと勝るとも劣らない十分な実力があったが、天から才能を与えられたがごとく、独りだけ誰も到達できないような場所にいた絵画科の日生がいたせいで、その功績はどうにも霞みがちだった。それが律人の父親である、建築科の梓川だった。ただ、彼はそれを少しも卑屈には思っていなかった。

「子供って、親の魂の欠片が入れられているとしか思えない行動をするときがあるよね」

 いや、

 僕の行動を、意思を、そんなもので決められたくはない。僕とあいつは、関係ない。

 律人を陥れたいのは私怨。それは百歩譲って認めるとして。

「そうですね。でも結局のところ、僕は彼が本当にやったのか、やっていないのか、そんなことはどうでもいいんですよ」

「性格悪いなあ」

 とは言いながらも咎めようとしないところは、こいつも食えない男だ。

「――にしても、由一くんって変わったにおいするよな」

 変わったにおい? そう言われ、僕は思い当たった。

「多分、没薬でしょう」

「没薬って、三博士がキリストの生まれたときに献上したっていうあれ? 確かに言われてみれば教会っぽいかも」

 幼子イエスに、東方の三博士が贈り物として捧げたのが、黄金、乳香、――そして没薬。香の一種で、ミルラという樹の樹脂を温めて、香り成分を揮発させて用いる。

「これには強力な抗菌作用があって、ミイラを作るときの防腐剤としても利用されました。博物館に飾ってある古いミイラに、このにおいがすることがあると思いますよ。ミイラはミルラが訛ってできた言葉だと言われているくらいですから」

「へえ、これがミイラのにおいか」

「嗅ぐな」僕は雫綺の頭を引きはがした。「あなた、律人にちょっかいかけてるそうじゃないですか」

「うん。いつ思い出すかスリル満点だよ」

 別に驚くほどのことでもない。だが余計なことを思い出してほしくないのは本当だった。彼が麻耶を殺したと思い込んで、自滅するのが本望だ。

「律人は露綺のところにやりましたよ」

「ふうん」

 彼から返ってきた反応は意外なものだった。

「どうも思わないんですか?」

「いいんじゃない? 露綺が選んだ男なら。どんなにむかつく奴だとしてもさ」

「あんたの妹、今に殺されるぞ」

 僕は決して、雫綺から彼を守ろうなどと思って露綺の元に送ったわけではない。

「なに、あいつの手に妹はやらないさ」

 のらりくらりと言い放つ。

 ところで、と。

「宿命の女を知っているか? 傾国の姫。魔性の女。美術界で、中世に流行ったモチーフの一つなんだけどね。恋に落ちた男を破滅させるために、まるで運命が送り届けてきたかのような魅力を持つ女のことだ。破滅を招く」

 勝手に喋らせておく。

「手を離さなければ、彼女に恋した男も一緒に堕ちていく。ずぶずぶと自分も周りも駄目にしちゃう。――ま、画家の男は女性に狂わされてなんぼだよね。美神は女神様だというし」

「なんですか薮から棒に、そんな思索めいたこと。変なものでも拾い食いしましたか」

「別に深い意味はないよ。そんな人のことを考えていただけ」

 と、

 いきなり美術室の扉が開け放たれた。東郷瑛良はつかつかと雫綺に歩み寄ると、いきなり彼に向かってバケツに汲んだ水を浴びせかけた。

「こいつから離れろ!」

 雫綺は目をしかめて水を避けると、

「ちょっと、ひどいじゃない何するの」彼の声は苛々している。

 グレーのスーツの布地に水が染み込んで色が濃くなる。

性善説性悪説の違いを知っているか?

 性善説は、人は元々無垢で、成長するにつれて悪に染まっていくという考え方。性悪説は、人の本質は闇で、その本性を道徳や宗教で押さえつけているという考え方だ。どっちなんだろうな。人の性格は先天的に遺伝子で決まるのか。それとも、後天的に環境で決まるのか」

 瑛良は雫綺の胸ぐらを掴み上げる。何故いきなりそう絡まれるのか分からず、彼は目を白黒させ、諸手を上げた。

「何、どうしたの東郷くん」

 彼はその反応に何かを確信したようだった。

「お前、騙しやがったな」

 雫綺は場違いにへらへらと笑っている。

「君も俺も身体目当てじゃなかったし、よかったじゃん。それとも身体目当てだったの?」

「違う。俺を陥れるつもりで近付いたな」

「別に、女装して歩いていただけだよ。何も悪いことしてない。言いだせなかったんだ。ごめんね。面白かったし。学生同士でふざけて絵を描き合った、その帰りだったんだ。それに倒れてた君を介抱したし、話聞いてあげたし、むしろ褒められてもいいレベ――」

 と、雫綺はいきなり瑛良の腕を後ろ向きに捻りあげた。妙な音が彼の肩から聞こえた。鮮やかすぎる動きだった。

 彼は最初、何をされているか分からず、しかしながら自分の右手が使えないことに気が付くと、あとから遅れて痛みが来たように半ば過剰に痛がってみせた。腕を抜かれたのだ。

「何するんだ!」

「正当防衛だよ。いきなり人に向かって水をぶっかけるような子には、何したっていいよね?」

 そして一仕事終わったとでも言わんばかりにその場で大きく伸びをして、それから僕を見た。

「駄目だなあ。躾がなっていないよ」

「僕からよく言っておきます。――おい、東郷」

「いじめられたとでも言っておけよ。今、お前の噂で持ちきりだ」

 関節を外され、大人しくなった瑛良がそう言い張る。強がっているが明らかに劣勢だった。

 ……というかこいつ、性善説とかいう言葉、知ってたんだな。

「一体どうしたんだ。いきなり先生に水をかけるなんて、少なくとも賢くはないね」

「騙されるなよ。こいつは悪魔だ」

「悪魔、ねえ――よく血も涙もない非情な人間のことを〝悪魔〟と比喩するけれど、悪魔は本当は愛情深いに決まってる。だって元々、人間に恋して地上に堕ちた天使だものねえ。悪魔は人間に恋していて、深い愛故に、魂が自分と同じところに堕ちるのが見たいんだ。彼らは寂しがりやだから、自分と同じものを見つけると嬉しくて仕方がないんだよ」

「それはあなたの本心ですか?」

「まさか。俺は天使じゃない。人間だよ」

 そう言って、退屈そうにあくびをすると、雫綺はいきなり服を脱ぎ始めた。

 唖然とする僕たちに、しれっと言う。

「何。濡れた服着て風邪ひけって言うの? 俺、明日も教職あるんだよ」

 不機嫌そうに目を細める。その表情がどこか妹の露綺に似ているな、と思ってしまった。

 色白のしなやかな上半身に刻まれた、いくつもの傷跡。

「来い、由一」

 いたたまれなくなったのか、瑛良は僕の腕を掴むと、廊下に引きずり出した。彼に命令される筋合いはない。

「あいつに近付くな」

「なんなんだよ。一体何があった?」