雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下2-4

6-4.Onement:一なるもの

  ――僕の目の前には、一枚の絵がある。

 莫大な青の色面に、ただ一本の線が存在する。そんな絵画だ。

 

 日曜日は、美玲と美術館に行く約束をしていた。

 僕も美玲も、遊園地や映画館のような騒がしいデートは好まなかった。また、美玲は美術部に所属しているだけあって、芸術に興味があるようだった。

 こういうのは男が先に待っているのがセオリーらしいので、待ち合わせの十分前に場所で待っていたら、その五分後に美玲が現れた。おしゃれをしているのか、普段の学校での様子とは違い、軽い化粧をして、上品なブラウスとスカートを身につけている。

 最寄駅から歩くこと五分。神殿を模した美術館の白亜の建物が見えてきた。外壁には、展覧会を宣伝する縦長のタペストリーがかけられている。

 観に来たのは、バーネット・ニューマンというアメリカの近現代芸術家の回顧展である。

 日曜の午後ということで、会場は混んでいる。

 受付で美玲は音声ガイドを借りたいと言うが、僕にしたらそんなものに金銭を支払うのは無駄なので、解説してやることにする。

 ――バーネット・ニューマン。彼は抽象主義の画家で、彼の作品はzipと呼ばれる画面に走る一条の線が特徴的だ。これは絵の具で描かれているのではなく、その線の部分だけ、キャンバスを白く塗り残してあるのである。

 正直、実物を観られて結構嬉しかった。

 言葉にするのが難しいけれど、なんというか、こう、たまらないな、と思った。

 ……駄目だった。どんなに言葉で武装して行こうが、本当に素晴らしいものを目の前にしたときは、語彙などは吹っ飛んでしまうものだ。

 僕は静かな興奮に包まれていた。

 多分、今僕は満たされているのだろう。絵の前に立って、何時間でも眺めていられるような気がする。

 だが隣の美玲は不満なようだ。

 一色に塗られたキャンバスに一本の線。そんな作品ばかりをひたすら見せられて、退屈してきているのが隣にいても分かった。

 確かにこの芸術家の作品は、ちょっとした知識がないと理解し難いかもしれない。

「旧い時代は神様が全てだったから、近代以前の芸術は中心にいる神との距離で価値が決まっていた。けれど近代になって、神から人主体の時代に遷り変わると、絵画は絵画である所以を自分で証明しなければならなくなった。そして他の芸術のジャンルと重複する要素、例えば文学の持つ『物語性』や、彫刻の持つ『陰影』を排除してきた。そうしてミニマルに切り詰めていくと、絵画に固有の要素として、最後に『平面性』が残された。つまり僕たちが近代以前の絵画を観るときには、そこにあるキャンバスや絵の具を意識しないけど、近現代絵画は表現媒体としての絵の具の物質性を際立たせたり、キャンバスなどの支持体を意識させたりして、観客をイリュージョンの世界から現実に引き戻すものが多いんだ。今観てるのは聖書の物語じゃなくて、布の上の絵の具の染みだよって」

「何をおっしゃっているか、よく分かりません……」

 どうやらさらに困惑させてしまったようだ。

「美しい絵が観たいです」

 美玲にはただの色面にしか見えないらしい。そして、その色面の前で感嘆している僕が、彼女には奇妙に見えて仕方がないらしく、

「言葉悪いですけど、頭おかしいです」

「そうかな。だって、このたった一本の線を引くのにも、位置や太さに無限の選択肢がある。でもこれはこれ以上ないっていうくらい計算されつくした画面だと思わないか?」

 確かに、現代アートは難解だ。

 彼の絵は、しばしば『崇高』と形容される。崇高とは、山や広大な自然などを目にしたときに抱く、巨大さというか、畏怖というか、尊さというか。崇高というほかに呼び名のない、そんな感覚のことだ。この絵の前に立つと、包み込まれるような感じがする。

 そんな話をしてやると、

「本当にそう思ってます?」訝しげに訊ねた。「そんな教科書的な話を聞きたいわけじゃないです。心からそう思っていますか? 頭で分かったふりをして、知識だけで話してはいませんか?」

 せっかく解説してやったのだが、逆効果だったようだ。女心は難しい。

 ニューマンは比較的人を選ばない――現代芸術には気分を悪くさせるものも少なくない――芸術作品だと思うし、そもそもこれでいいか、と訊いたとき承諾したのも美玲なので、憤りがないわけではない。

 二進も三進もいかない。

「ごめん、美玲。ちょっとトイレ行ってくる」

「え、ちょっと、由一くん――!」

 ――とは言っても、本当に催したわけではない。僕は展示室を出て、このやりきれない気持ちを消化するために、美術館の前庭で歩き回っていた。

 あの作品を観て、僕は美の稲妻に背骨を一文字に貫かれたような衝撃を覚えた。僕の背骨はフリーダ・カーロ肖像画のように釘を刺されてばらばらに砕け、心はその場に立っていられずに地面に這いつくばって地を舐めた。

 あそこで崩れ落ちずに立っていられたのは、奇跡だったと言っていい。

 人は本物の美に出遭ったら、ただ頭を垂れてひれ伏すしかない。頭を上げることすらも許されない。美の女神の前では人間などちっぽけなものだ。

 心地よい余韻に浸りながら、僕はぐるぐると美術館の周りを歩き回っている。子を盗まれた母熊のような不穏さで。素晴らしい芸術作品を観たとき、胸がいっぱいになってその他のものを受け付けないときがある。美玲には悪いが、こういうときは他人に話しかけられたくない。

 ふと立ち止まり、荒い建物の外壁に横っ面を押し付けてため息をつく。今夜はちゃんと寝られるだろうか。

 と、柱廊の向こうから、多分僕が今一番会いたくない人物が歩いてきた。見ると向こうでにこやかに手を振っている人影がある。教育実習生の瑞山雫綺だった。

「奇遇だね、由一くん」

「瑞山雫綺、何しに来た」

 何しろ県内の美術館なので、知り合いにばったり会う可能性はないわけではないが、彼の場合は悪意しか感じない。

「何しに来たって失礼な。束の間の休日なものだから、普通に展覧会を観に来たんだよ」

 指に挟んだチケットをひらひらと振ってみせる。

「どうしたの。さっきから恋する乙女みたいな顔して」

「しつこいぞ、お前。そろそろ見飽きたんだよ。舞台袖に引っ込んでろ」

「俺だって出ずっぱりなんだよ。喉痛くなってきたし、そろそろ休ませてくれよ」

「第四の壁を破るな」

「今君に起きていることを教えてあげようか。脳内でのドーパミンとエンドルフィンの大量分泌。つまるところ法悦さ。君にも美しいものに感動する心があるんだねえ。端的に言うと君、ラリってる」

「うるさい」

 そういう声も覇気がない。否定できないからだ。

「ほっといてくれ……」

「誰にでもあることだし、恥じることはないさ。――それにしても、この世は等活地獄だが、こういうものを見ると魂が打ち震えるような心地がするよねえ」

 そうだな、と僕は同意する。

「生きててよかったと思う」

「君の口からそんな言葉を聞けて嬉しいよ」雫綺は端正な顔に微笑みを浮かべた。「ところで由一くん、一人? 俺と行く?」

「残念だが今日は美玲と来てるし、ついでに言うともう観てきた」

「え、美玲ちゃんを置いてきたの? 一人で? ないわー、そりゃ」

 笑いながら言う。

「早く戻ってあげようよ。美玲ちゃん待ってるよ」

「そうだな」

 頭も冷えたことだ。僕と雫綺は展示室に戻る。

 美玲は律儀にも、出口を出ずに展示室のベンチに座って待っていた。

 僕と雫綺を見るなり、開口一番に彼女は言った。

「瑞山先生とお手洗いで何されてたんです? 随分と長いことかかりましたね。お手洗いで」

 ……根に持っているようだな。

「ごめんごめん。実はロビーでばったり会っちゃって、話し込んでいたんだ」

 少し速い彼の歩調に合わせるように、美玲は雫綺の隣に並ぶ。

「由一くん、さっきからおかしいんですよ。ため息をついたり、目を輝かせたかと思うと、この世の終わりみたいな顔をしたり」

「そっとしておきな。疲れてるんだよ、きっと。

 それにしても、二人ともクールだねえ。手くらい繋いだらどう? こんな混雑だし、はぐれちゃうよ」

 その発言に、僕らは一斉に手元を見た。

 隣に並んで歩いているが、手を繋ぐ必要はないと思っていた。美玲も特に手を繋いでほしいとは言わなかったからだ。

 僕は言ってみる。

「……手、繋ぐ?」

「はい……」

 おずおずと絡められた指を僕のほうに引き寄せた。彼女の手は緊張のためか少し汗ばんでいる。いや、僕の手のほうかもしれない。

「今日はごめん。次は君の好きな展覧会に行こう」

 今度は中世の絵画を観に行こう、ということで同意した。

 それを見て雫綺が軽やかな口笛を鳴らすので、僕は彼を睨みつける。

「茶化しに来たのなら帰れよ」

「瑞山先生は何しに?」

 美玲が話しかけた。

「今日は先生じゃなくてただの瑞山雫綺だよ。俺、現代アート好きなんだ。美玲ちゃんはどう? 現代アートは好き?」

「はい」

 おい、面食いめ。

 僕は隣で聞いていて聞き捨てならない。

「そうなんだ。俺は好きだよ、バーネット・ニューマン。小洒落ててスタイリッシュだよね。展覧会は正直どう? 気に入った?」

 美玲は曖昧な笑みを浮かべた。感想を言いづらいらしい。

「はっきり言っていいよ、つまらなかったって」僕は冷めきった口調で言う。

「そんなこと、言ってないですよ」

「ヒュー、ヤキモチかい?」

「お前もお前だ。そもそも――」

「美玲ちゃん、チビで甲斐性のない由一くんはほっといて、俺と行かない? 近くに可愛い雑貨屋さんがあるんだけどね――」

 見ると、雫綺は僕を無視して美玲を口説き始めていた。美玲は顔を赤らめて戸惑っている。

「美玲、行くぞ」

 だんだんムカついてきて、少々強引に彼女の手を浚うと、

「失せろ」

「おお、こわい。――だから嫌なんだよな。最近のガキはすぐキレるもん」

「もん、じゃねぇ。人が気にしていることを――!」

 背が高いのが何の役に立つんだ。どうせ電球替えるくらいだろ。僕にだってまだ伸びる見込みがないってわけじゃ――。

 お客様、館内ではお静かにお願いします。

 僕らは二人して係員に閉め出された。

 

「あなたのせいですよ」

 普段優等生として通している僕にとっては、滅多にないことである。しかしながら、件の雫綺は反省の色もなくへらへらしている。妹の露綺とは大違いだ。こいつら本当に兄妹なのだろうか。

「場所を変えませんか?」

 そういうわけで、僕たちは美術館に併設された『シャ・ノワール』という名の喫茶室に入った。

 元々この喫茶室には立ち寄る予定だった。美玲が雑誌で読んで、前から行きたがっていたのだ。

 この頃には美玲も多少機嫌を直したらしく、僕たちの関係は持ち直していた。

 箸でパンケーキを切り分けていると、僕の皿を覗き込みながら美玲が言った。

「由一くんって少食なんですね」

「どうやら緊張してるみたいだ」

 半分は相手を喜ばせる計算だったが、半分は本当だった。

 こうしていると、自分が解離性人格障害になったかのような錯覚を覚える。

 ここで気さくに話している自分は、仮初めの自分で、それを冷静に見ているもう一人の自分がいるのを感じるのだ。

 だがこの時間は悪くない、と思った。

「――あ、角砂糖だ。珍しい。持って帰ってもいいかな」

 それにしても、

「空気読めよ」

 僕と美玲、雫綺でテーブルを囲んでいる。何故野郎と一緒にいるのか。僕は一応美玲と遊びに来ているはずなのだが。

 ナチュラルに同席しているのが謎だ。

「えー、だって俺を差し置いて美玲ちゃんといちゃいちゃするんだもん。寂しいよ」と言ってブラックコーヒーをすする。「蟻の巣の穴に落としてみたい。戦争になるかなあ」

「はぁ?」

「は↘あ↗じゃないよ。俺一応年上なんだけどな」

 上着のポケットに角砂糖を滑り込ませながら言う。子供のような振る舞いだが、彼の容姿だと何故か様になって見える。

「何故お前を美玲といちゃつかせなきゃならんのか」忘れるな。教師も聖職ですよ。

「由一くん、本音と建前が逆だよっていうか」

 美玲が笑っている。

 そういうところで笑われると困る。これでも僕は、至極真面目に言っているのだ。

「美玲」

「瑞山先生と由一くんって、仲良しだったんですね」

「深い仲だと言ったら嫉妬するかな」

「気持ちの悪い冗談はやめろ。昔会ったことがあるってだけだ」

 僕は腕を組む。僕は美玲に執着しないが、一応自分のものをいいようにされるのは少なからずいい気分ではない。しかもこんな語彙力のない奴に。

「瑞山先生はお付き合いしてる人っていらっしゃるんですか?」

「んーん、内緒〜」

「でも、顔が整っておいでだから、おもてになるでしょう? どんな人がタイプなんですか?」

 ……随分と積極的だ。

「そうだね。可愛いコが好みだな。心が綺麗な人なら。女でも男でもいける」

 それを聞いて、美玲が急に椅子から立ち上がった。テーブルの上に勘定の千円札を二枚、叩きつけるようにして置くと、

「由一くん、別れましょう」

「……え、ちょ」

 今何言ったこいつ。展示室でのことを根に持っているのか。

 鞄を持って颯爽と店を出ていく。

「美玲!」

「すみません、お二人の邪魔をして! お幸せに!」

 あとから真意に気付いた雫綺が吹き出した。

「振られちゃったね」

「僕はゲイじゃない」

 ……胃が痛い。