読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下2-3

6-3.Miserable Κασσάνδρα:哀れなカッサンドラー

 『ところで、いい話があるんだけど、乗らない?』

『考えておきます』

 雫綺の誘いに僕はそう答えた。彼の言葉はあまりにも青天の霹靂で、今、僕一人で考えて答えるべき問題ではないと思ったからだ。いや、そうすることも人生設計上、視野には入れていたが、せめて僕が大学を出るまでは動くべきではないことだと。

「露綺。僕だ、開けろ」

 閉め切られた屋上の扉を叩いて呼びかけると、訪問販売を見た胡散臭そうな表情と共に顔を出したのは、瑞山露綺だった。扉の隙間から帯のように光が漏れている。

 扉を開けるという任務を終え、歓迎の言葉もなく身を翻した彼女は、文字通り引っ込むようにして屋上に戻っていく。僕が嫌いなのだ。折角開かれた扉が閉まらないように押さえながら、僕も彼女のあとに続く。

 学校一の美少女とか何とか、持てはやされるだけの容姿は、僕の目から見ても納得がいく。癖のない漆黒の長髪に、いつも陽に当たっているとは信じがたい、透き通るような白い肌。ただその顔に湛えられた、無関心、退屈の表情が、美貌と相まって浮き世離れした雰囲気と近寄り難い壁を周囲に作り上げていた。

 彼女は保健室登校ならぬ、屋上登校をしていた。この学校は一応校則で屋上への立入りが禁止されているのだが、教諭は見て見ぬふりをしているのだろう。

 そんな彼女が何をしているのかというと、絵を描いている。キャンバスをイーゼルに立てかけて、黒い絵の具で描いているのだ。少女が描いたとは思えない、不気味な絵だった。それは白黒の砂漠のように見えた。

「何?」視線に気付き、気味が悪そうに振り返る。

「君の絵を見ていると、不思議と落ち着くんだよ」

「変な奴」

 興味を失ったのか、そう吐き捨てて再び絵に向き直る。僕はふと思いついて訊ねてみた。

「君、白い犬の出てくる絵を知らないか?」

「犬はいいわ。飼い主よりも鼻が利く」

 どうやら露綺も知らないようだ。この兄妹、はぐらかそうとするときの反応がそっくりだな、と思ったが、彼女には言わないことにした。

「ところで、今日は君に頼みがあって来たんだ」

 露綺は僕が嫌いだが、僕と彼女は言葉もない、不可侵条約を結んでいた。

 彼女が屋上で絵を描くのを黙認する代わりに、彼女も僕に都合の悪い行動はしない。

 しかしそんな契約を守る気など、僕には更々なかった。ゆくゆくはそれを破るつもりでいる。一方の彼女も、僕が裏切ることは分かっているのだろう。元から人を信じていないから。それでも当面、露綺は僕の有用な駒の一つだ。

「律人に君のノートを託しておいたから、近々顔を出すと思う」

「は!?」

 動揺した彼女は、絵を描いていた手を止めて思わず振り返った。

「瑞山先生が探りを入れているから、避難させようと思って」

「それとこれと何の関係があるの」

「忘れているのには意味があるんだよ。人は心を守るために記憶を封じる。それを無理矢理思い出させようとすれば、最悪ありもしない記憶を思い出したり、暴走して他人に危害を加えたりする可能性がある。僕の制御下にない状況で、むやみに思い出させるのは危険だし、困るんだよ」

「能書きはいいわ。嫌がらせね」

「ご名答」僕は肩をすくめた。

 彼女は彼に会いたくない。彼の顔を見たくない。

「でも瑞山先生にあることないこと吹き込まれるよりはましだろ? 君がここにいる限り、手出しはしてこないだろうし」

 彼女はむっとしたように眉間に皺を寄せた。

「というわけで、適当に話合わせといてよ」

「面倒を押しつけられたものね。私は彼の子守りじゃない」

「それとも何か困ることでも?」

「別に。彼の存在は私を掻き乱したりはしないわ。来たいなら来ればいい。空気と一緒だわ」

 僕は彼女の言葉にはとっくに興味を失い、フェンスに軽く手を置いて、屋上からの景色を見渡す。高いところはやはり眺めがいい。

 昨年の春、姉の麻耶が自殺した。――公的にはそういうことになっている。

 彼女が死ぬところはよく覚えている。見せつけるように、彼女は僕の丁度目の前で死んだから。

 一年生のときも僕は生徒会に入っていて、生徒会室で仕事をしていた。

 そんな放課後。麻耶が、空から逆さに落ちてきた。

 文字通り驚愕した。音もなく通過する理不尽そうなその双眸と目が合い、背筋が凍った。それも一瞬のことだった。直後、人体が地面に激突する音と、後ろから上がる悲鳴。

 僕は制止も聞かずに教室を飛び出すと、上に向かった。

 みんなが下の、彼女の死体ばかりを見る中で。人間は基本的に同族の死体が好きだ。やっぱりクズだ。

 想像力のない凡人どもには、ショックで正気を失っているように見えただろう。もしくはグロテスクな姉の肉塊を直視しないように。けれど僕はそんな腰抜けじゃないし、正気を保っていた。彼女が落ちた、フェンスの辺り。もしも逃げていく人影があったとしたら、決して見逃さないように。

 彼女が落ちてきたときに、咄嗟に思いあたったのだ。――麻耶は自殺じゃない。誰かに突き落とされたのだ、と。

 そもそも麻耶はいじめごときで自殺するようなやわなメンタリティをしていないことは、双子の弟である僕がよく分かっていた。絶望して死ぬくらいなら人類を皆殺しにすることを選んでいただろう、瀧上麻耶とはようするにそんな人間であり、彼女のプライドが高いことは、弟の僕が身を持って知っていた。

 屋上の扉を開ける。

 ところが、何もない。誰もいない。

 生徒会室の真上にあたるフェンスから地面を見下ろすと、――そこには、何もなかった。

 まるで僕が見たのが幻だったとでもいうように。

 生徒会で起きた、集団ヒステリー。

 公的にはそのように処理された。しかし麻耶は本当に戻ってこなかった。今も失踪して行方不明のままだ。

 屋上のフェンスはそれなりに高い。僕にはやはり、麻耶が不注意でここから落ちたとは考えられないのだ。

「――あなた、まさか瑞山先生を利用するつもりじゃないでしょうね。彼の企みには乗らないで。ろくでもないことを企んでる顔してるわ」

 あまりにもタイミングの良すぎる発言に、面白くなって、言った。

「ああ、そうだけど。何か問題があるのかい?」

 教育実習生というのは、持っていて悪い駒ではない。

 証拠隠蔽のために、駒にする人間はできるだけ関わる期間が短いほうがいい。二週間でここを去り、それでいて左右の分からない大人の協力者。そういう意味で実習生は最適だった。僕は逆に、雫綺を利用してやろうとさえ思っていた。肉親の情なら、まあ悪いようにはしない。使われた雫綺は、僕に使われていたことも知らないままに学校を去るだろう。

 それにしても、他人行儀な呼び方だ。素直に兄と言えばいいのに。露綺は異常なほどに実の兄のことを嫌っている。刺すくらいだ。二人の間に何があったのかは知らないし、知りたくもない。

「少しは優しくしてやれよ。一応君の兄貴だろう」

「あれは兄さんじゃない。兄さんは嵐の夜に死んだから」

 どういうことだろう。彼女の兄は瑞山雫綺であり、あの人だ。そして彼は生きている。

「生きてるじゃないか。君の兄は瑞山雫綺だろ?」

民法と遺伝学的に見るなら、私たちは今でも兄妹なのかもしれないわね。でもあの人は、兄さんと全く同じ姿形をした赤の他人。名前も、声も、記憶も同じだけれど、あれは兄さんじゃない。兄さんのふりをした何かよ。……兄さんじゃない人を兄さんと呼びたくないわ」

「……分からなくもないな」

 僕はひとりごちた。

 露綺は、キャンバスの上につまらなさそうに絵筆を叩きつけている。

「あなたのことは嫌いだけれど、今回ばかりは警告しておくわ。――手を引きなさい。あなたの手に負える存在じゃないわよ、あの人」

 随分と下に見られたものだ。

「兄さんは欲しいものを手に入れるためなら何だってするわ」

「ちなみに彼は何を欲しがっているんだい?」

 そうは言ったものの、急に訊き返された露綺も特に思い当たらなかったらしく、少し考え込んだ。そしてその解答が少しも正しいとは思っていないような調子で、言った。

「混乱、かしらね」

「なら神様を殺さなくっちゃあね」

 僕は冗談のように言った。

「ご要望に添えず申し訳ないが、存外僕は俗物でね。面白いものには目がないのさ」

 露綺が口の中で悪態をつく。気味が良かった。

「扱い損ねれば火傷どころじゃ済まないわ」

「なに、人類に火を与えた賢者のように、使いこなしてみせるさ」

 プロメテウスね、と露綺はつまらなさそうに言った。

 僕の見る限り、確かに彼は異様だが、決して異常ではないというのが僕の見識だ。常識の範疇だ。

「世界で一番強いのはどんな人間か、あなたは知っているかしら」

 ――強い人間。真っ先に思いついたのは、単純に腕っ節が強いとか、人を動かす経済力とか、核を落とす権力とか。しかし彼女はそんなありきたりな答えを望むわけではないのだろう。

「人の願いを読み取る力。心を読む才能、と言ったほうがいいかしら。その人が一番欲しがっている言葉と、その人が一番聞きたくない言葉を与えてやる。そういう観察力のことよ」

「まるで僕のことみたいだな」

 自嘲気味に呟く。

「あなたは心根の優しい人間だわ」

「皮肉かい?」

 そうだとすれば最大級の皮肉じゃないか。

「僕ほど非道い人間はいないさ」

「あなたは残酷になりきれない、性格の悪い――ただの人間。取るに足らないわ。つまり、小悪党ね」

「褒め言葉かい? そりゃどうも」

「そうね……喩えるとするなら、社会が悩む存在。敵にも味方にも回しては駄目よ」

「まどろっこしいな。何が言いたいんだ? 君のお兄さんがそれに該当するって言いたいのかい?」

「中途半端に常識を持ち合わせているから、さらに厄介なのだわ」

 さらに、こう言った。

「種として卓越しているわ」

「そんな話が聞きたいんじゃない」

 話にならない、と僕は立ち去ろうとした。

「――兄さんには、道徳が欠落しているわ」

 露綺の言葉にふと足を止める。

「どういう、意味だ……?」

 あと少しだけだ。聞いてやろうという気になって、振り向く。

 道徳がない、それはまた珍しい形容の仕方であった。

「彼は生まれつき心を持たない人間だわ」

 僕はその発言を訝しく思った。妹である露綺への執着。僕から見れば気持ち悪いほどだが。

 もしかしてと思い、訊ねる。

「君は何かされたのかい?」

 しかし、露綺は首を横に振った。

「いいえ、何もされてない」

「それなら――」

 露綺は一度押し黙ると、

「彼はいつだって私に良くしてくれたわ。私以外の、彼と私の周りが不幸になるの。例外なく」

 ぞくり、と得体の知れない不気味さを感じた。自分ではない。だが周り全て。

 ――左目に包帯をした美しい少女の周りでは、何故か不幸なことが起きる。

 他校で有名だった都市伝説だが、僕のいた中学校でも耳に入るほどだった。

「兄さんには関わらないことね。あなた、地獄を見るわよ。彼は百の力で一を叩き潰す。肉親同士で憎み合わせ、疑心暗鬼で搦め捕って、殺し合わせる。自分の手は汚さずに。

 今回の教育実習も、何を企んでるのか知らないけど、最悪人死にが出るわ」

「じゃあ、どうしろと?」

「逃げて。できるだけ遠くに」

 僕は嗤った。

「逃げる? そんなことできるものか。尻尾を巻いて立ち去ることなんてできるものか」

 それは敵前逃亡だ。僕の矜持が許さない。

「随分と言ってくれるじゃないか。所詮持ち駒が。偉そうな口を利くな下衆が。僕を助けようだって? そもそも君に人が救えるとでも?」

 僕はとある理由のために、物事の解決に刃物を持ち出すような人間は遍く軽蔑していた。

 反論が返ってくると思いきや、意外にも露綺はダウナーな調子で肯定するのだった。

「そうね。あなたの言う通りだったわ。人が人を救うなんておこがましい。私は何もするべきではなかった」

 ……少し前だったら、どうだっただろうか。

 麻耶が失踪する前、彼女は律人と共に人助け紛いのことをしていた。しかしながら、彼が記憶を失ってからは、ほとんど動くことがなくなった。燃え尽きてしまったのかもしれない。

 『彼があんな秘密を隠していたなんて知らなかった』――そう呟いた露綺は、虚しかった。戦慄していた。

 彼女も、彼の脳にあんな地雷が埋まっているなんて思いもしなかっただろう。

 哀れなカッサンドラー。

 カッサンドラーとは、ギリシャ神話に登場するトロイアの王女の名だ。

 美しい彼女は太陽神・アポロンに言い寄られるが、純情で慎ましやかな彼女は心を開かない。そこでアポロンはとっておきの贈り物として、彼女に予知能力を与える。しかしながらそれを得た瞬間、彼女にはアポロンが心変わりして彼女を捨てる未来が見えたので、彼を拒絶した。侮辱されたと思った彼は怒るが、神々の掟で一度与えた贈り物を取り消すことはできない。だから続けて彼女に、その予言が誰にも信じてもらえないという呪いをも与えた。

 やがて彼女は、パリスが戦争の火種となる絶世の美女・ヘレネを攫ってきたときも、トロイアに敵兵の潜む木馬が運び込まれたときも、それが破滅に繋がるとして抗議したが、誰も聞き入れようとしなかった。

 他人と異なった高い能力を持つが故に、人に理解されない孤独と絶望。

 ――かわいそうだね、カッサンドラー。

 ぽつり、と麻耶がそう言ったことを、唐突に思い出した。