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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下2-2

6-2.Trolley Problem:トロッコ問題

  五月の第三週。

 その言葉通り、路加高校に教育実習生がやってきた。僕は目の前で話している人物に目をやる。グレーのスーツ姿で好青年らしく見える。

 路加高校にやってくる春の実習生。そのリストに彼の名前があるのに気が付いたのは今朝だ。それにしてもざっと彼らの顔を拝んでみたが、全員いかにも低能だというのが滲みだしたような奴らだった。同級生もいずれはそんなできそこないになるのだろう。低い賃金を貰い、消化する単純労働。世の中を恨みながらゴミみたいに生きる。僕はそんなふうにはなりたくない。

「――それにしても、君のお父さんって牧師さんだったんだね」

 と、話は僕の父親の話題に移る。

「あの人、すごい綺麗な色の目してるよね。榛色っていうのかな。淡い茶色っていうか、緑っていうか。思わず見つめ合っちゃったよ」

 そんなことはどうでもいい。

「白人の血が入ってるの、彼」

「さあ。日本にも色素の薄い人間は、いないこともないみたいですよ」

 どうも彼は瀧上牧師に会ったことがあるらしい。

「父とはもうお会いになりましたか」

「うん。実習生一人一人にお話してた。それにしても、本職の牧師さんなんて初めて見たよ。もっと物々しい人たちかと思ってたけど、意外と普通だね」

 それはそうだろう。本人も、事情を知らない人たちが多くいる場所では、対外的に自分の職業をサラリーマンだと説明している。

「なんか、君に言うのもアレなんだけどさ。俺、あの人苦手だな。心を読まれてるみたいで。なんつうか、不気味」

「分かります」

 物腰の柔らかな瀧上牧師は、大半の生徒には好意的に受け容れられるが、そうでなければものすごく嫌われるかの両極端だ。特に、腹に一物抱えた人間からは。

 目は口ほどにものを言う。瀧上牧師には、話すときに人の目を凝視する癖がある。それは彼自身の生活の事情によるものなのだが、人の心の、その奥にあるものを覗き込もうとする。子供が筒を覗き込むような好奇心で。彼の悪い癖だ。それが雫綺の言う、『心を読まれている』ような感覚を与えるのだ。まして雫綺のように見つめたら、見つめ返すに決まっている。

「ところで、君と瀧上牧師は実子なんじゃないかという噂があるようだけれど、裏を返せば、そういう噂が流れるってことはつまり、一目瞭然じゃないってことだ」

「劣性遺伝ですからね。まあ、似てないとはよく言われますよ」

「あの牧師さん、そこそこ身長あるよね。頭一個分くらい違うんじゃない?」

 ……一番似てないのが身長だと言いたいのか。

「ねえ、実際のところどうなの。ほんとは牧師さんの子じゃないんだろう。

 丁度君と同じくらいの歳に、君の小さいのができるんだよ。信じられる? でもどうだろう。彼が婚前交渉するような男にはとても見えないけど」

「まあ、本当の父親じゃないですからね」

 さりげなくそう言った。

 雫綺は一旦黙り込んだものの、

「やっぱり。どうりで似てないと思ったよ」

 普通の人間なら気を遣うところだが、この男、歯に衣を着せない。

「じゃあ、結局誰の子供なんだい?」

「正直に言いましょうか」

 僕は言葉を切った。

「分かりません」

 こればかりは分からない。本心だった。

「ともかく、僕が彼の息子でないことは確かです」

「じゃあ、夢魔の子だね」

 いきなりそんなファンタジックな単語が飛び出す。

「男がいないはずの修道院で、修道女が身籠ったら、夢魔の仕業とされた。睡眠中の女性を襲うという悪魔の末席。宗教改革で有名なルターも、父親の分からない夢魔の子だったと言われているらしいね。夢魔の子でも、生まれてすぐに洗礼を受ければ、特別な力を持つようになるとされていた」

 無神論者のくせにやけに詳しいな、と思うが、よく考えれば近代以前の絵画は、大抵題材が聖書かギリシャ神話に大別できるので、絵を読み解く上でキリスト教の知識は必須なのだ。それでも詳しすぎるとは思うが。

 瀧上牧師が聞いたら怒るだろう。邪説だと。

「それ、とうさんには言わないでくださいね」

 一応警告である。

 仏の顔も三度までという。あの人も人間なので、怒るときは怒るのだ。それに養子の僕から言わせてもらうと、あの人が他人の親と違うとは特別思わない。あと結構根に持つタイプだ。

「ま、そんなめんどくさくなりそうなこと、わざわざしないよ。――それにしても、アンドレ・セラーノなんて見せたら卒倒しそうだねえ」

「……やるなよ」

 はらはらする。

 雫綺はふと腰を捻って辺りを見回す。

「ところで、折角だから麻耶ちゃんにも会っていきたいんだけれど、彼女はどこにいるの?」

「麻耶は死にました」

「嘘だ――――!」

 そうして雫綺の反応を観察していた。彼の頬がショックを受けたように震えた。目がひび割れ、悲しそうに俯く。しかし僕は、その表情に別のものを感じ取っていた。

「お前、本当は面白くてたまらないんだろう」

 ――顔を上げた雫綺は、目を輝かせていた。

「正直、この状況を楽しんでる。で、どうだったの? 麻耶ちゃんの死体は」

「どう、って……」

「だって気になるから。自殺? 他殺?」

 僕は麻耶の死を、というか失踪を順を追って説明した。屋上から飛び降りた麻耶。僕はそれを生徒会室から見ていたこと。麻耶の死体を見に行った下等生物たち。だが麻耶の死体は忽然と消えた。

「麻耶は入学してすぐという中途半端な時期に飛び降りた。顔と名前の一致しない頃で、誰も彼女のことを覚えていなかった。何故そんな中途半端な時期に彼女は飛び降りたんでしょうね」

「春は気分が浮つくもんね。なんかうきうきしてこない?」

「まあ、春には不審者が増えると言いますからね」

 無論不審者とはこいつのことだ。言外に滲ませてやったが、彼はその嫌みを解さないようだ。全く嘆かわしい。

 そんなくだらない理由のわけがないだろう。

「つまり、彼女は自分の意思で自殺したのではなく、殺されたんですよ」

 僕は一旦言葉を切った。

梓川律人という男子生徒に」

 雫綺は、あずかわ、と口の中で呟いて、

「ねえ、一つ質問していいかな」

「どうぞ」

「その梓川くんの父親って、あの梓川さん? 建築家の?」

「ご存知ですか?」

「自分の作品に殺された、世界一間抜けな建築家」

 律人の父親が亡くなった事故は知っている。

 彼はとある多忙な設計事務所に勤務しており、現場監督として、工事が適切に行われているか、工事現場を監督しているその最中に起きた不幸な事故だった。コンクリートの躯体が崩壊し、彼はその下敷きになったのだ。

 崩落したコンクリートから――砂糖が見つかったのだという。

 何故砂糖が駄目なのかというと、特別化学に詳しいわけではないのだが、ありふれた物質ではあるものの、コンクリートに砂糖が微量でも混入するだけで固まらなくなるのだそうだ。

 誰かがその上で飲食をしたのだろう。バブル崩壊の煽りを受けた、破格の低予算。老朽化した重機。度重なる大工たちの疲労とそれによる施工ミス。数え切れない要因が積み重なって起きた不幸な事故だった。その責任を取る形で、責任者が処分され、その事故は一応の決着がついたはずだった。

「奥さんは責任者に掴みかかったらしいね。でも幸せだったんじゃない? 愛する仕事の最中に死ねて。リャノーン・シーに魅入られた男は、夭逝するっていうしさ」

 リャノーン・シー。

 それはアイルランドの伝承にある、詩人に恋し、芸術的霊感を与えるという女の妖精だ。その詩人は大成するが、代わりに生命力を吸われて早死にする。おそらく、短命な芸術家の炎のような人生を喩えたものなのだろう。

 本題に戻る。

「彼は非常に便利な体質を持っていましてね。自分に都合の悪い記憶を消すことができるんですよ」

 麻耶が死んだ後すぐだ。

 律人が麻耶のことを知らないと言うのだ。瑛良の話では、律人には度々そういうところがあって、様々な物事を忘却してしまうという。法則性は不明。しかし、概ね強い衝撃や恐怖を覚えたときに乖離が起きるようだ。

 だが僕は思う。その事故にしたって、彼がそうなった直接の説明にはなっていないのだ。

 ともあれ彼は、他の記憶は正常なのに、麻耶とそれに関わる周辺人物のことを忘れてしまった。

 どんなものかと、僕も一度律人と顔を合わせてみた。元々の接点はあってなかったようなものではあるものの、彼は僕のことを全く覚えていなかった。

 心神喪失者の罪は裁かれるべきか。……僕には分からない。

 懺悔すれば許されるのか。病気なら許されるのか。死ねば許されるのか。奪われたものの重さは変わらないのに。

「正義ってものは複雑なんだよ」

 雫綺は歌うように言う。

「ところで、由一くんは『トロッコ問題』って知ってる? 人に会ったら訊くことにしてる。百人百様の答えがあって面白いんだ。被ることもあるけどね」

 有名な思考実験だ。

 トロッコ問題とは、このようなものだ。

 線路を走っていたトロッコの制御が、突然不可能になった。線路の先には五人の作業員がいて、こちらの声は聞こえない。――工事のことを把握していないとは、上司の管理責任不行届だ。――このままトロッコが走れば、彼らは轢き殺されるだろう。僕は線路の分岐器の前に立っている。線路を切り替えれば、彼らは助かる。迷わずそうすればいい。けれど切り替わったその線路の先には、一人の無関係な一般人Aがいる。彼にも僕の声は届かない。線路を切り替えればすなわち、五人の代わりに彼が轢き殺されるということだ。

 そのまま行けば死ぬ運命にあった五人を助け、死ななくてもよかった全く無関係な一人を犠牲にするか、それともたった一人を救うのに、五人もの命を見殺しにするか。

 こうだったらどうだろう。今度は僕は橋の上にいる。例によって例のごとく、今回も五人の作業員にも、Aにも僕の声は届かない。橋の上には巨体のBという無関係な男がいる。もしBを橋の上から落とし、障害物にすれば、トロッコは止まり、Aも五人も助かる。ただしBは死ぬ。僕が代わりに飛び降りようにも、僕では体重が軽すぎてトロッコは止められない。

 僕は眉間に皺を寄せていた。どうしてこの限りなく単純な問題が恐ろしいと感じるのか。まず、どういう思考回路で濾過すれば、人間を障害物にしてトロッコを止めようなどという考えに至るのだ?

「ああ、駄目だった? こういうの」

 片目にかかった前髪を、やぼったそうに細い指でかきあげる仕草をしながら、雫綺は涼しそうに言った。

「――何もしませんね」

 選べないのではない。選ばない。

「へえ、君にしては意外だね。功利主義かと思っていたんだけど。一人よりも五人を助けるほうが数の上では効率がいいと思うけど、どうして? 一人ではなく、五人を殺すと?」

「愚問だ。何故傍観者である僕が、たまたま通りかかった人間の命の責任を持たなければならない? 勝手に死ねばいい。僕は関係ないし、見殺しにしたといって責任転嫁をされても困る」

 心理テストのようなものだ。

 彼は僕の性格を割り出そうとしている。有効に使えば相手を深く理解し、友好関係を築くのに役立つが、悪用することもできる。つまるところ、人心を掌握する術だ。

 彼は見た目や言動以上にずっと頭がいい。自分の容姿、表情筋のストローク一つが、相手の心理に与えうる影響を最大限に理解している。手に取るように分かる。

「では、あなたは?」

 嫌がらせで訊ね返す。こういう下世話なことを訊ねてくる人間は、実は自分が同じ質問をされると困るのだ。

 雫綺は急に話を振られたのが想定外だったのか、自分に訊いているのか、と言わんばかりに自らの顔を指差す。

「俺? 橋の上の人に手伝ってもらって、一緒に叫ぶよ。おっさんたち、逃げろーって」

「でも、あなたの声は届きませんよ」

「それでも叫ぶよ。トロッコが彼らにぶつかる瞬間まで。確かに、俺一人の声は届かない。でも、二人なら届くかもしれない。二倍なんだから」

 そういうことか。

 呆れた。よく考えれば、彼はこういうときに備えて答えを常備していたに決まっている。

 雫綺は何やらぼやいている。

「それに自分で手を汚すのってやじゃない? それはつらく悲しいことだ。なのに誰に訊いても、殺したくないみたいな顔しながら、嬉々として自分の手で人を死なせるために回答する。正気を疑うよ」

「橋の上から人を落とせば、五人は確実に助かるのに、ですか? あなたはトロッコが彼らを轢き殺す寸前まで、叫んで危険を知らせるという不確実な行動を取る。運良く声が届けば誰も死なないかもしれませんが、そうでなければ彼らの死に様を、無意味な行動をしながら橋の上から見届けている、と答えたのと同等ですね」

 というかなんでこいつ、トロッコのブレーキが故障していることを知っているのだ? 絶対奴が犯人だな。

「……意地悪な子だな、君は」

 そんな冗談を交わしていると、生徒会室の引き戸を開けて美玲が入ってきた。

 萩原美玲。

 路加高校の生徒会長である女子生徒だった。顔のパーツがはっきりとした、日本人離れした彫りの深い造形。目元には泣きぼくろ。長い髪をハーフアップにまとめ、前髪は額が見えるように上げている。誰もが振り向くような美人ではないが、凛とした少女だ。

 美玲を見ると、立ち尽くしたまま雫綺に見惚れていた。まるでそこだけ、月の光で照らし出されたみたいだった。彼の容姿は多くの人間にとって魅力的だ。

 一方の雫綺も、思わずもたれかかっていた上体を起こす。

「おお、可愛い子」

 僕は彼らを紹介することにした。

「瑞山先生、彼女は生徒会長の萩原美玲です。――美玲、彼は教育実習生の瑞山雫綺さんだ」

「ねえ美玲ちゃん、俺と付き合わない? 俺、君のこと結構好みだな」

「あまりからかうなよ」

 美玲は顔を赤くしている。顔がいいからまんざらでもないのだろう。彼女は面食いなのだ。

「お茶淹れますね」

 美玲が給湯室に引っ込んでいくのを見送って、雫綺が口を開く。

「君の彼女?」

「まあ」

 僕は萩原美玲と付き合っている。

 きっかけは美玲が告白してきた。一年くらい前だろうか。

「僕ちゃんに逆らうなよ、もち米が! なんて言ってるんだろ?」

 絶対おちょくってるだろ。

「愛が歪んでるね」

「愛?」

 鼻先でせせら笑った。

 美玲が戻ってくる。盆の上に湯気の立つ湯呑みが三つ。

「ありがとう。お、玉露じゃん。意外と渋い趣味してるね」

 と上機嫌で湯呑みを取る。

「お二人は何の話をされていたんですか? 随分とお楽しみでしたね」

「改めてこんにちは、美玲ちゃん。君のミレイはどっちの?

 ジャン=フランソワ・ミレー? それとも、ジョン・エヴァレット・ミレイ?」

「は、はあ……」

 美玲は戸惑っている。しかしながら見蕩れている風だ。彼女は惚けたような顔をしていた。

 美術史に、同じ名前を持つ画家がいる。

 一人は、バルビゾン派のジャン=フランソワ・ミレー。かの『晩鐘』の作者だ。

 もう一人は、ラファエル前派のジョン・エヴァレット・ミレイ。こちらの代表作は『オフィーリア』。

 オフィーリアとは、シェイクスピアの悲劇、『ハムレット』のヒロインだ。恋人に父親を殺され、冷たい言葉で心を傷つけられ、気が狂って死ぬ。この場面は画家のインスピレーションを大いに刺激し、古今東西様々な画家に描かれている。ミレイの『オフィーリア』は、同主題の中でも屈指の名作だ。

 花の咲いた川に、恍惚とした表情で揺蕩う女の絵。口を半開きにして、生きているのか死んでいるのか分からない、生死の狭間にある目は思わずぞっとする。

 日本人には人気が高いが、あれは死体の絵なのである。有名すぎて説明するまでもない。あれはおそらく、世界で最も美しい水死体の絵だ。モデルは、のちにロセッティの妻となるエリザベスという女性だった。

 ところで『オフィーリア』は、学者がそれを教育に用いることがあるほど、植物が正確に描かれている。

 ヤナギは見捨てられた愛を、イラクサは苦悩を、ヒナギクは無垢を、パンジーは愛の虚しさを、スミレは純潔を、ケシの花は死を意味しているそうだ。

 『ハムレット』では、花言葉が重要な意味を持つ。気が狂ったオフィーリアが周囲に花を配り歩く場面。

 その前に、『ハムレット』のあらすじを振り返ってみる。

 デンマーク王国の王子・ハムレットは、先日、父親の先王が亡くなり、その喪が明けきらないうちに母親がその弟のクローディアスと再婚したことを、息子として複雑に思っていた。あるとき、彼の前に先王の亡霊が現れる。果樹園での昼寝中に毒蛇に咬まれて亡くなったと聞かされていたのだが、実際はクローディアスに耳から毒を吹き込まれて殺されたのだと。これは私と秘密を話したお前しか知らないから、復讐を果たしてくれ。

 しかしながら、叔父・クローディアスはハムレットに良くしてくれるので、ハムレットはその言葉を信じることができない。そこで耳から毒を吹き込まれて殺される男の劇中劇を演じる。――劇中劇はシェイクスピアが好んで多用した手法で、『じゃじゃ馬ならし』という戯曲では、物語のメインである気の強い女を男が調教する物語が、路上の酔っ払いに聞かせている劇中劇という設定になっている上、一度も現実の場面には戻らずに、夢の中のままで大円団を迎えて終わる。――その反応から、彼はクローディアスが父王殺しの犯人であると確信する。ハムレットは狂人のふりをして暗殺の機会を伺うのだが、その過程で、恋人・オフィーリアにひどい言葉を投げかけ、彼女は狂ってしまうのである。

 閑話休題

 恋人と間違えて、兄・レアティーズには『記憶』と『思い』を。

 兄王を殺した弟王・クローディアスには『欺瞞』と『不義』を。

 先王の妻であり、クローディアスと再婚した王妃・ガートルードには『後悔』を。

 シェイクスピア劇では、愚者こと道化が、実は作中で一番賢かったりする。狂人の言葉は、同時に純粋でもあり、真実に近いのだ。

ハムレットは厄病神さ」

 雫綺は歌うように言う。

「クローディアス、ガートルード、ポローニアス、オフィーリア、レアティーズ、ローゼンクランツ、ギルデンスターン。悩めるハムレットの言動は、この純粋で善良な魂を死に追いやるんだ」

シェイクスピアって、沢山人が亡くなるお話ですよね。どうしてあんな立て続けに不幸が起きるんでしょうね」

 美玲が率直な感想を述べた。

「『悲しみは単騎ではやってこない。必ず大挙して押し寄せるものだ』」

「お、うまいこと言うじゃないか。『悲しみ』というのはね、とっても寂しがりやなんだよ」

 『ハムレット』と聞くと、いつも考えることがある。

 ハムレットは、父親の仇を討つために狂ったふりをしながら復讐の機会を伺った。しかしそれは本当にただのふりだったのだろうか。彼は劇の最初から狂っていたのではないだろうか。

 彼の物語は、父の亡霊が自分を殺したのは弟のクローディアスである、と息子に打ち明けるところから始まる。そもそも本当に亡霊なんて存在していたのか。ハムレットが頭の中で作り出した、彼にしか見えていない幻ではなかったか。彼は狂ったふりをしたのではなく、物語の最初から既に狂っていたのではないだろうかと。

「――それにしても、『オフィーリア』って神話のエピソードかと思っていました」

「俺も知らなかった」

 雫綺が話を合わせる。それは嘘だろう。よく話を聴いていれば矛盾に気付くはずだ。彼は女好きなのだ。

「『ハムレット』くらい読んでおけよ。古典には敬意を払うべきだ」

 くそつまらないのは認めるが。何しろシェイクスピアは人が死ぬだけの流血劇だ。

「――そうですか。でもそんなに美しい場面があるなら、読んでみたいですね」

「残念でした。あの場面、実際は書かれていなくて、オフィーリアの死は、王妃の言葉で語られているだけなんだって」

 あれは実在しない場面。純粋に画家の想像力のみによって生み出された産物。

 それはかえって、恐ろしいとは思わないか?