雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下2-1

6-1.Sint Praxedis:聖プラクセディス

  美術館や美大の周りには、画廊が集まるものだ。

 蒼浪美術大学も例外ではなく、美大と路加高校の前の通りには、一種の画廊街が形成されていた。

 とある休日、僕は一軒の画廊に入った。中学生の頃から同じようなことをやっていたので、画廊に入ることには抵抗がない。僕はこうやって、現代画壇にアンテナを張り巡らせている。あの男の情報を集めるために。

 そこで僕は、ある若手芸術家の作品と出会ったのだった。

 日本画だった。

 全体的に暗い色調。岩絵の具を薄く引いた筆致は荒々しく筆跡を残し、印象派を思わせる。近くだとただ絵の具を塗りたくったようにしか見えないのに、一旦離れるとそれが写実的な水たまりであると分かる。

 灰色の石畳の上。そこに溜まった水たまりに、たった今雨粒が落ちて、水面が揺らいでいるのだった。

 喩えるなら、ベラスケスに似ている。筆の先に白い絵の具を乗せてさっと引いただけのそれが、一歩画面から離れた途端、王女の繊細なレースに見えるという魔法。

 キャプションを見る。『雨』

 ひねりのないタイトルだ。

 顔馴染みの店主と話をしていると、ふと背後のドアを抜けて、一人の男が入ってきた。

 美しい男だった。長身で手足の長い、まるでモデルのようなプロポーションに、長い黒髪を和風の簪でまとめた洒落た男。喩えるなら絵を描くよりも描かれる側だ。

 一瞬客かと思ったが、店主の反応を見るとそうでもないらしい。

「おう、こっち来い」男を招き寄せる。「瑞山雫綺。うちの期待の新人だ。で、彼は――」

「常連さんらしいじゃないか、日生由一」

 男が僕を知っているようなそぶりをしたので、僕は一瞬混乱した。

「覚えてる? 雫綺兄さんだぞー」

「覚えてるわけないです――」

 そう言いかけてはっとした。

 覚えてるわけないという、さっきの発言を訂正する。記憶を呼び起こすと確かに、こんな胡散くさい奴がいたようないないような気がした。あまりに馬鹿馬鹿しすぎて忘却していたのだ。

「大きくなったね、泣き虫由一くん。君との日々は痛快だったよ」

「……お久しぶりですね、瑞山さん」

「なんだ、知り合いだったのかよ」

 店主が呆れたように肩をすくめる。

「気に入ったのなら買うかい。今なら安いよ。駆け出しだもの」

 雫綺はそう言って、ため息をついた。それを見て店主が笑う。

「適正価格だろ」

「画家が儲けちゃ何故いけないんですか?」

 一号当り三万円。新卒としては妥当すぎる値段だと思うが。

 断言できる。この画商は彼を高く評価している。

「たとえ紙で作られたはりぼての月でも、信じる人にとってはそれが本物の月だ。芸術作品も同じ。ただの布切れと、それに塗られた顔料も、信じる人にとっては何億の価値にもなる芸術品だ」

 〝paper moon〟という英語の慣用句がある。〝まやかし〟という意味だ。

 文字通り紙の月。舞台などで、本物の月の代わりに使われるいわば書き割りのようなもの。上演中はそれを本物に見立てる。その間はたとえ偽物でも、彼らにとっては本物の月なのだ。

「絵の具と布切れの価値しかない。何故それが芸術になるかといえば、それが贋作ではないと信じるからだ。表面が美しいから騙されているだけ。こんなもの、原始人の間に置いてみろ、何の役に立つ? 彼らのほうがよっぽどものを知っているよ。

 絵画とはイリュージョンではなくて、ただの絵の具を塗り付けた布にすぎないとみんな気付いていく。みんなが絵画だと思っていたものは、まやかしの月だった」

 来客用のソファーに腰を沈め、大きく伸びをしながら、

「あー、どっか俺の絵を高く売ってくれる所ないかな」

「瀧上くんに売ってもらえばいいんじゃねえの」

 店主がにやにやしながら冗談を言った。

 雫綺が身体を起こす。

「そうそう。由一くんね、絵画に詳しいんですよ」

 雫綺め、余計なことを。

 僕は壁にかかっていた作品のサインに目を留めた。『Shizuki.M』とある。

「原則、絵画作品にはサインが一つ。でもとある美術館に、サインが二つ入った絵がありましてね」

 タイトルを『聖プラクセディス』という。

「殉教者の血を浸した海綿を、盆に絞る聖人の絵ですが、実は聖書に出てくる場面ではありません。長らく、イタリア人画家のフェリーチェ・フィチェレッリの作と考えられていましたが、最近、フェルメールの作ではないかとも言われています」

 フィチェレッリはあまりにも無名だが、もしフェルメールだとすれば、すごいことになる。

「人間というのは、有名なほうと思いたがるものですが、実際はどうなんでしょうね」

「へえ。作者が誰でも、いい絵はいい絵なのにねえ」

 雫綺は嘆息した。

「ねえ、それって本当に絵の話?」

 僕は余裕を持って笑んでみせる。

「ええ。それ以外の何だと?」

「ううん。でも、こんなに美術に詳しいマセガキ、初めて見た」

 マセガキ言うな。

「子供扱いしないでください」

「俺から見たら十分子供だろ」

「それはそうだが子供扱いするなと言っているんだ」

「なんだと、じゃあ、嫌なメガネだ!」

「眼鏡使用者に謝れ!」

 むしろ長くなった。

 雫綺はからからと笑っている。

「今度一緒に上野の美術館に行こうよ。君とは面白い議論ができそうだ」

「いいですね」

 僕は怒りを押し殺しながら答える。

 ――全く、僕の身体的特徴が眼鏡だけみたいな言い方しやがって。

 雫綺は舌に油をさしたように滑らかに話し始めた。

「それにしても、美術館という空間って、かなり特殊だよな」

 彼の言っている意味が分からなかった。

「考えてもみなよ。変な空間だとは思わないか? 綺麗な見た目だけど、そこに並べられているものは、普通何百年も保つものじゃないんだよ。必ず手が入れられている。俺たちがありのままだと思っているものも、樹脂で固めて補強されている。そこまで来ると、そうまでして不自然に保たないといけないのかなって思うよね。美術館にあるものは遍く病んでいる、今にも死にそうな病人ばかりなんだ。ガラスケースに陳列された瀕死のモノたち。それとも、防腐処理された芸術の死体だろうか。土の下で安らかに滅びようとしていたのに、ある日掘り起こされて、永遠の命を約束されて、おっちゃんたちに直される。樹脂で固められて、やっと立っていられるような、弱い者たち。強い光にも耐えられない。さながら、病弱な少女しかいないサナトリウムのようだ。そしてそれらは見世物のように鑑賞者の目を悦ばせるんだ。不健全で美しい。――いいねえ、最高にエモくて。俺は好きだよ」

 店主が、うるさいだろこいつ、と笑って言った。

 僕は同調して頷く。確かにこいつ、躁病の気がある。喋りすぎだ。

「君のこと気に入ってるんだ。ところで俺、来週から君の学校で教育実習することになったから、よろしくね」

「は?」

 蒼美大の学生が路加高校で教育実習を受けること自体は別にありふれている。附属校ではないが、普通科高校にしては異様な美大の進学率だ。

 そういうわけで、僕と雫綺の再会はこんな感じである。