雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下1-3

5-3.Madonna dei Pellegrini:ロレートの聖母

  生徒会の仕事を終わらせてから、僕は生徒会長の萩原美玲を伴ってとある場所に向かった。彼女を連れてきたのは、どうしてもついていくと言って聞かなかったからだ。

「――ごめんください」

「やあ、由一くん、と美玲ちゃん」

 その教室の主――瑞山雫綺はフランクに声を上げた。

 彼は美術の教育実習生だ。そして不登校の露綺の兄でもある。グレーのスーツにエプロンを着た美貌の男だった。無造作に伸ばしたような長い前髪で隠すのは、妹とは対照的に右目。

 彼の目の前には、イーゼルに立てかけられた一枚のキャンバスがある。

 うっすらと下書きがされていて、一糸まとわぬ大人と子供の狭間にあるような少女が、身体を丸めて、母親の羊水に浮かんでいるかのような姿勢で宙に浮かんでいる。その顔はどことなく雫綺か露綺に似ていた。

「モデルは露綺か?」

「残念ながら、プロのモデルだよ」

 そうだろうな。妹をひん剥いてモデルにしているとしたら軽蔑する。

 いや、と仕切り直し、

「妹でも、愛さえあれば問題ないよね!」

「問題ないわけないだろうが!」

 漫才のごとく、脊髄反射で後頭部を殴ってしまった。

 後頭部を押さえながらぼやく。

「暴力は嫌いなんじゃなかったの……」

「僕は博愛主義者ですよ」

 ――なるほど、これは刺したい。不本意ながら露綺の気持ちが分かった。同情はしないが。

 彼は容姿はいいが、一つ難点があって、妹の露綺のことを異常に溺愛しているのだった。シスコンなのだ。

「暴力は嫌いです。はっきり言って野蛮だ」

「いいね。口では暴力は嫌いだと言いながら、すぐ手が出るところ。悪くない」

 ここは美術室。美術教諭らしく、今日は絵を描くようだ。

「卒業制作は何をするおつもりですか?」

「それなんだよね。最近は〝内臓感覚〟が気になってる」

「内臓感覚?」

 美玲が訊ねる。

「視覚や聴覚が外部の感覚だとしたら、身体の奥から湧き上がってくるゾワゾワっとする感覚。お腹空いたな、とか、シたいなだとか」

 僕はふと思いついて、

「じゃあ、自分にしか視えないものや、聴こえない音は?」

「……」

 普段饒舌な彼には珍しく、雫綺は押し黙った。静かに首を横に振ると、神妙そうな顔でこう呟くのだった。

「……それは感覚じゃない。失った手足が痛むのと同じ。まやかしさ。

 ところでお父さん、何か言ってた?」

 先日、ちょっとした事件があった。学校中の黒板が白く塗りつぶされていたのである。犯人は無論この男だ。彼曰く芸術作品のつもりだったらしいが、芸術家(笑)の頭の中はよく分からない。

 そしてこいつ、礼拝堂の黒板すらも真っ白に塗りつぶしていったのだった。僕は瀧上牧師のコメントを一字一句引用する。

「『芸術のことはよく分かりませんが、神様も許してくださるでしょう』だそうです」

「うっわあ、嫌みだ」

「そうですかね」

 首を捻る。あの人は素で言っているふしがある。

「あの人、絶対俺のこと嫌いだよ。俺みたいな変な男を可愛い息子に近付けたくない、みたいな?」

 自覚あったのか。それは性質が悪いな!

 というかなんで瀧上牧師に意見を求めるのだ。あの人は美術に関しては素人だ。

 と、隣の美玲がおずおずと口を開いた。

「あの、具体的にあれのどこが芸術なのでしょうか……。私、ちょっと分からなくて」

 美玲の父親はプロの保存修復家だ。そして中世の写実的絵画を見慣れてきた彼女にとっては、理解しがたいものがあったのだろう。

「あんなの、黒板を塗りつぶしただけじゃありませんか?」

「〝黒板〟、って言ったね?」

 美玲の発言に、雫綺は待ってましたとばかりに目を輝かせると、身体を前のめりにして迫る。

「そう。白くったって、あれは黒板なのさ」

 と言って、満足そうに笑った。

 美玲は意味が分からないという顔をしている。

 ところで、この話には続きがあって、どうも彼は礼拝堂の牧師たちに喧嘩を売ったらしかった。瀧上牧師の話では、老齢の主任牧師に向かってこう啖呵を切ったのだという。

『アダムとイヴの話ってあるじゃないですか。俺たちは生まれながらにして悪なんですか。でも俺たちが何をしたっていうんです? 原罪って俺たちのご先祖様の話であって、知恵の実を食べたって言っても、そんなの覚えないし。そんな昔のことをまだ根に持ってるなんて、神様って案外心が狭くないですか。俺たちが存在すること自体が罪なんですか。なら最初から俺たちを生まなきゃよかったのに。生まれながらに罪の意識を持てだなんて、キリスト教って案外押し付けがましくないですか』

 …………

「ところで、こんなところまで来て、何か俺に用があるんだろう」

 雫綺は深く椅子に腰掛け直すと、足を組んだ。喋りながら椅子に座り直したので、声が浮いた。

「白い犬が出てくる絵をご存知ですか?」

「由一くんにも知らない絵があるなんてねえ。どんな絵?」

「崖の上に白い犬がいて、その周りを蝶が飛んでいるそうです」

 別に特段正体が気になるわけではない。ただ、僕は僕の知らない絵があるのが我慢ならないだけだ。

「俺は犬よりは猫派かな」

 とはぐらかした。

「いやはや、人が猫を飼っているのか、猫が人を飼っているのか。それが問題だ……」

「それはどうでもいいから、知っているのか、知っていないのか、はっきりしろ」

 僕らのやり取りを聞いて美玲が笑う。女子に受けたので雫綺は満足そうだ。

「俺も見つかるように善処しよう。その前に一つ、先生から問題だ。

 カラヴァッジョの『ロレートの聖母』は何故教会に受け取りを拒否されたか。当時のキリスト教を取り巻く状況、及び、聖母の表象を踏まえて答えなさい」

 カラヴァッジョ。

 多分、美術史上最も罪深い画家だ。彼は殺人を犯し、投獄された。作品の美しさと画家の人格は正比例しないという例だ。

 閑話休題

 どんな難問かと思えば、拍子抜けした。考えるまでもない問題だ。僕にとっては。

「『聖母は人間らしく描かれるべきではなかったから』でしょうね」

 その前に、『ロレートの聖母』とはどのような絵であるか説明しよう。

 一六〇三年、とある貴族に依頼され、礼拝堂の装飾として描かれたが、受け取りを拒否された。二人の巡礼者の前に、聖母マリアと幼子イエスの幻影が現れるという一場面を描いている。聖母子は端正に描かれてはいるものの、卑しい巡礼者と同じく裸足で、彼らを聖人だと示す絵画的な記号であった、雲も天使も描かれていない。聖性は剥奪され、かろうじて彼らが聖なる存在であることを伝えるのは、頭の上の光の輪だけだ。背景に生活感が出ていて、およそ聖母らしくない。

 大雑把に言うとこんな感じだ。聖母は神々しくなければならない。自分たちと同じような生活感を感じさせてはならない。生身の人間である必要すらないかもしれない。マリアがどう思っていたかなんておかまいなしだ。彼らは人間であり、聖書の外では笑ったり泣いたり、彼らの暮らしがあっただろうにも関わらず。

 そこには、教会が聖母マリアを崇めつつも、人間未満の存在へ――記号として扱ってきたという歴史があった。現代風に言うなら、キャラクターか。城やトロフィーのようなもの。権威はあっても人権はない。聖母は昔から、人間らしく描かれないものだったのだ。

 画家は、そんな慣習を破った。聖母から聖性を剥奪し、写実的な表現を試みた。だがそれは、当時の人々には新しすぎて受け容れられなかった。

 カラヴァッジョの史実は、そんな当時の〝空気〟を教えてくれる。

 雫綺は舌を巻いて、美玲を振り返った。

「美術に詳しいんだね、由一くん。美玲ちゃんも、そう思わない?」

「ええ、そうですね。実は由一くん、絵が上手な人だったりして」

 水盆に一滴の墨を垂らしたように、胸にどす黒いものが広がった。

「噂になってますよ。美術に詳しいって」

 一度だけ、クラスメイトの前でそういう話をしたことがあったのを思い出す。僕はちょっと的確に指摘しすぎてしまったことを反省していた。

「あなたに美術の課題を出される筋合いはありませんよ」

「由一くんは美術取ってないの?」

「特進コースなんでね」

 路加高校は普通科と特進コースがあって、特進コースは芸術の授業が一年次にしかない。音楽、美術、書道から選ぶことができる。

「へえ、由一くんは進学希望か。頭良さそうだもんな。にしても意外だ。てっきり美術を取ってるのかと」

「そうですか? 描くほうはからきし駄目でね」

 誰かさんと違って、絵の才能の欠片も遺伝しなかったのだ。

「じゃあ何を取っていたの?」

「音楽です。縁が深いんですよ。父なんかはオルガンやヴィオラが弾けますしね。僕も子供の頃は聖歌隊に入っていましたし」

 そうして僕は、先日ヴィオラが壊れたことを話した。

「へえ、そんなことがあったんだ」

 雫綺は嘆息している。

「〝アングルのヴァイオリン〟だね。彼にそんな意外な特技が。じゃあ君の余技は美術鑑定かい?」

「素人ですよ。この前なんかネックが折れて壊しましたけどね。落としたんだそうです」

「へえ」声が笑っている。「弦楽器なんて普通落とすものかね? いいやつは数億するというし。極論を言えば、音楽家にとってはあれ、命よりも大切なものだろう、楽器って」

 その情景をありありと思い出せる。

 ネックもテールピースもバラバラになって、たわんだ弦が飛び出した内臓みたいだった。彼はその死体の前で、衝撃を受けたようにしゃがみ込み項垂れていたのを。

「あんな軽いものが。ねえ、そんな繊細なものを、人知れず壁に叩きつけて、振り回して壊したら楽しそうじゃない? みんなが大切にしようとしているものを壊すのは、きっとすかっとする」

「はいはい」

 僕は相手にしなかった。この教育実習生は時々子供みたいなことを言う。

「まあ、実際はよくあることらしいね。交通事故のようなものだから気にしなくていい。だってあいつら、繊細すぎて湿気で弦が切れるんだから。

 ――そうだ、由一くん。お姉さんの死体を見に行った連中に怒りを感じているだろうね。覚えておいで。人間は地上に引きずり落とされた、高潔な魂が大好きだからね。純粋な悪人よりも、翼をもがれた善人を見るのが、たまらなく好きなんだよ」

 何を言っているのかよく分からない。

 ふと美玲を見ると、退屈そうに窓の外を見ている。声をかけると、笑顔でやんわりと嫌味を言われた。

「瑞山先生とお話してるほうが楽しそうですね」

 どうやら彼女の機嫌を損ねてしまったらしい。そろそろお開きにしたほうがよさそうだ。暇乞いの挨拶代わりに僕は言う。

「自分のレポートはご自身で考えてくださいね」

「うへえ……」

 蛙の潰れるような声で鳴く雫綺をよそに、僕らは美術室を出た。