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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 下1-2

5-2.The White Dog:白い犬

  玄関の扉を開けるなり、弦楽器の『きらきら星』の旋律が聞こえてくる。ゆっくりと弾いている。

 まさか、と思いながらリビングに踏み込むと、ヴィオラ――ヴァイオリンよりも一回り大きい弦楽器だ――を手にした瀧上牧師が振り向いた。まずい、と思った。

「見てください、由一さん!」

 僕を認めるなり、ヴィオラのネックを掴んで、掲げてみせる。

 その声は若干上気している。彼がこのように何かを自慢げに見せびらかしてくるのは珍しい。余程嬉しかったのだろう。

 愛おしそうにその本体を撫でる。

「音が変わってしまうかと思いましたが。……少なくとも、僕の耳には違いが分かりません」

 僕は目を疑った。

 なんてことのない、新品同然のただのヴィオラだ。

 僕が見たときは、地面に叩きつけられ、本体からネックが外れ、駒も折れていたのに。

 壊れたはずのヴィオラ。それを直したのだ。正直あそこまで壊れた楽器がこのように直るなんて思ってもみなかった。

 完全に死んだと思っていたのに。

 ところで彼は楽器が上手いわけではない。素人に毛が生えた程度だ。ただ、僕の耳にも全く違いが分からなかった。

「……どこか歪んでるに決まってますよ」

 僕は動揺を隠すように、かろうじて嫌味を込めて言った。

 彼はヴィオラを弾くのをやめて、本体から肩当てを外しながら、

「晩御飯、今から作るから遅くなるけどいいですか?」

 そう言って、ヴィオラを安っぽいベルベットの内張りがされた、直方体のケースに寝かせる。慣れ親しんだ棺桶の蓋を閉める。

 

「あっちに行けよ」

 放課後である。

 僕の前には野良犬が一匹。別に人間の比喩じゃない。文字通りに野良犬だった。毛色は白で、犬種はラブラドールレトリバーだろう。敷地に迷い込んだらしい。憐憫を誘うような潤んだ瞳で僕を見上げてくるが、僕は一つも心を動かされなかった。

「――よう、由一。浮気か?」

 誰かが後ろで笑っている。微笑ましいというふうだ。

 振り向く。幼馴染の瑛良がいた。

 東郷瑛良。

 平均的な、さして良いともいえない体格に、運動をしても邪魔にならないよう、カラフルなピンで前髪を留めた茶髪の少年。

 彼とは小学校以来の付き合いだ。性格は明るく、人懐っこい。僕らと同じ学年になるはずだったが、一年前、突然の病のために入学後数日で退学を余儀なくされた。彼のことを覚えている者はほとんどいないだろう。それが彼について知ることだった。

 僕はそんなことを言われたのが心外で、不機嫌もあらわに振り返る。

「犬にか?」

「美玲が寂しい、って俺にメールしてきたぞ」

 美玲とは、路加高校の生徒会長であり、昔――いや、最近まで、彼と彼女は付き合っていた。何が嫌になって別れたのかは知らないが、今では吹っ切れて他人同士だ。

 というかなんで未だにやりとりしてるんだよ。

「君、まだ未練あるんじゃないか。今でも間に合う。よりを戻せよ」

「ゔっ。――えー、えーっと、白い犬というと、ケーキの名前みたいなのあったよな……」

「残念だけど、こいつはマルチーズじゃないし、ラブラドールレトリバーだ」

「そう、それ」

 この幼馴染の頭の悪さにはほとほと呆れる。全く、同級生はどうしてこんなにも知能が低いのだろう。こんなものが続々と社会に出て次の時代を動かすだなんて、世も末だな。今も大概だが。

 僕が生徒会に入ったのも、正直こんな政治の真似事みたいな生徒会には興味がなかったが、愚鈍な下等生物どもに能力を分け与えて、統治してやってもいいと思ったのだ。

 ――今、不自然に話題を逸らされたような気がするが、まあいいか。別に僕も興味はないし。

「よう、ルウルウ、元気か!」

 瑛良は地面に座り込むと、白い犬とじゃれ合い始めた。そんな名前があったなんてついぞ知らなかった。犬の名前には興味がなかったからだ。奴には懐いているのか、瑛良が近付くなり元気になって、楽しそうにじゃれつき始めた。

 犬に顔を舐められているのに、心から楽しそうに笑っている。よくもまあそんなことで幸せになれるものだ、と逆に感心する。全く、単細胞は生きるのが楽なことだ。それを汚らしいなと思いながら眺めていると、何を勘違いしたのかこんなことを言った。

「羨ましいか」

「別に」本心だ。

「お前は昔から動物に懐かれないよな。こんなに善人なのに」

「僕は善人じゃないさ」

「自棄になるなよ、色男」

「動物は嫌いだ。勝手に殖えるから」

 彼はにやにや笑いを浮かべながら立ち上がると、言った。

「で、露綺に何か用か?」

 僕は彼の口からそんな意外な人物の名前を聞いて、少なからず驚いた。

 そう。僕はこの直前、屋上の瑞山露綺に会いに行っていたのだ。

「君、露綺と仲良かったっけ」

「――え? あー、お前は知らないかもしれないけどな」

 細かいことを気にするのはやめた。彼はこの性格なので、学校内外に友人が多いのだ。

「まあいいけどね。美玲に言っておくよ」

「やめてくれよ。いや、もう終わったんだよあいつとは」

 完敗だ、とでも言うように諸手を挙げ、瑛良は弱々しく顔を歪めた。

 ところで、と。

「白い犬が出てくる絵をどこかで見たことがあるような気がするんだな。崖の上に若者と犬がいて、犬が崖に向かって吠えているんだ。そして蝶がその周りをひらひらと飛んでいるんだ」

「その犬は何をしているんだい?」

「さあ……」

「有名な絵?」

「ああ、よく見かけるしな。でも、イメージかもしれない」

 彼の答えはいまいち煮え切らない。

 時間の浪費だ。何も用がなくて僕を呼び止めたわけではあるまい。

「ところで何か用?」

「……いや、特に用はないんだ」

 見ると、彼の様子がおかしい。そこで突っ立ったまま、どこか気まずそうに、自分の足の爪先を見やったり、指先を揉んだりする。そうしたあと、やっと彼は切り出した。

「麻耶が死んでからさ、お前、自棄になったりしないかなって、心配になってさ」

 姉の麻耶も、もちろん僕と瑛良の共通の知り合いだった。

「おばさんもああなってしまったし、おじさんもまあ、ああいう人だからさ。お前って案外、つらい人生送ってるんだなって思って」

 彼は僕の目を真っ直ぐに見て、言った。

「だから、お前が道を踏み外しそうになったときは、良くない考えに染まりそうになったときは、俺が助けるよ」

 僕は思った。

 きゃんきゃんと煩い犬だ。

 胃が痛い。

 怒りを覚えた。そんなことを言うためだけにここまで来たのか。本当に莫迦なんじゃないのか。僕はそんなことを頼んだ覚えはないのに。

 下等生物が。

 そんな僕の内心をつゆも知らず、彼は恥ずかしそうに鼻をかいた。

「へへっ……クサいこと言っちまってごめんな。悪ィ。でも胸騒ぎがしたんだ。急にお前がどこか遠い所に行ってしまうような気がして、さ」

「ありがとう。僕も君のような親友を持てて嬉しいよ」

 僕は心にもない言葉を吐き出す。瑛良は嬉しそうに笑った。

 微笑みを浮かべて彼を見送った。彼の後ろ姿が見えなくなった頃、僕は蝋燭を吹き消すように顔の上の愛想笑いを消した。傍の窓硝子に、無表情になった眼鏡の少年が映っている。その唇が低く、動いた。

「――もう、遅いんだよ」