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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上Ep

4-4.Le Beau Monde:世界は美しい

 幽かな人の気配に目を覚ました。

 薫り高い味噌汁の匂い。手際よく道具を扱う、賑やかな音。小気味のいい音でもある。

 何かが違う。そう思いながら、階段を降りる。

 キッチンに灯りが点いている。

 この家には僕と母以外、いないはずなのに。毎日の料理は僕の仕事のはずなのに。

「母さん?」

 そこには、赤いエプロンをした女性の後ろ姿があった。髪の長い――。

 信じられない、という気持ちで、僕は椅子の一つに崩れ落ちるようにして腰を下ろす。振り向いたのは。やはり僕の母の顔だった。

 テーブルの上には、真っ白な皿が既にセッティングされていた。壁の時計が動いている。ニュースをやるテレビの音。

 僕の皿に目玉焼きを移しながら、フライ返しを片手に、

「久しぶりに作ったから、焦げちゃった」

 なんてお茶目に言う。

 僕は出来上がったおかずから自分の皿に載せられていくのを、放心して見ていた。

 その様子を見て、何年も前からずっとこの光景を繰り返してきたかのように、彼女は言った。

「早く食べちゃわないと、学校遅れちゃうわよ」

「あ、うん……」

 そう言われ、箸を手に取る。料理を口に押し込んでいくのは、酷く現実味がなかった。しかしながら意外にも味はまともで、可も不可もない。印象に残らないということは、割と上手く出来ている。それもそうだ。あの人がいなくなる前は、彼女はちゃんとしていたのだ。こうやって普通に料理を作って、洗濯掃除をして、幼い僕を育てたのだ。今でも、やろうと思えば出来ると思う。

 自分の食事の支度を終えたところで、彼女も僕の向かいに座り、いただきます、と手を合わせる。それを待って、僕は話しかけた。

「母さんが料理してるところ、久しぶりに見た」

「萩原さんに言われたから」

 照れくさそうに言った。

 萩原さんは確かに、息子の僕に家事をさせているのはおかしい、と言ったのだった。それで反省したのだろう。

 彼女は悪戯に笑って、

「珍しい?」

 そう言われると返答に困った。というのも、僕は今複雑な気持ちだった。

 あまりにも日常的で幸せな光景なのに。僕は自分が嬉しいのか、それとも寂しいのかよく分からなかった。混乱していた。

 ――目覚まし時計の音に驚いて目を覚ました。

 そこは殺風景な暗い自分の部屋だった。

「ああ……、夢か……」

 先ほどのあの幸せな光景は、夢だったのだ。

 幸福の余韻は、体温の名残のように、ゆるゆると指の間から逃げていく。

 午前四時。家事をしてから高校へ行くために、いつもこのくらいに起きなければ間に合わないのだ。寝惚けていた頭が一瞬でそれを思い出す。

 念のためにキッチンへ降りる。

 キッチンは空っぽだった。天板に触れる。真っ暗で冷たい。

 あんな光景を夢に見たのは、僕がそれを内心では願っているのだろうか。

 料理をしている母を見て、ちょっとだけ寂しいと思った自分がいた。もちろん彼女が社会復帰してほしいとは願っているけれども。

 変かもしれない。人から見ても変に見えるだろう。でもこれが、僕たち母子にとっての〝普通〟の形だ。

 ともあれ、シャワーを浴びてから、今日もいつものように朝食の準備を始める。

 数分したら、僕は自分が見た夢のことなどすっかり忘れていた。

 夢とは、忘れるものだ。

 

 それから二時間くらいして、オーブンから漂う甘い匂いにつられて、母がのろのろと起きだしてきた。

「今日の朝ご飯はなあに? 甘いもの?」

 と、子供のようにはしゃいでいる。

「朝ご飯は、それ」

 机に並べてあるものを示す。ご飯とお味噌汁、出し巻き卵に焼き魚、きゅうりの酢の物。オーブンで焼いているのは、それとは別のものだ。三時のおやつだろう、と別段気に留めず、母は朝食を食べ始めた。

 ぼんやりと咀嚼しながら、数日前のことを回想する。僕は瑞山先生の個展のオープニングに足を運んだ。というのも教育実習中に、彼から個展のフライヤーを受け取っていたのだった。美大生の進路の一つに画廊との契約があって、とある画廊の専属画家として就職が決まっているという。そのときに、いい画商を探しているんだよね、とも言っていた。

 ギャラリーのガラス戸の向こうで、数人の人々が開場の準備に慌ただしく歩き回っているのが見える。入ろうか入らないかそわそわしていると、

「お、律人じゃないか!」

 小綺麗な恰好をした瑞山先生が、僕に気付いて駆け寄ってきた。

「本当に来てくれるなんて。画廊、敷居が高くなかった?」

 僕の肩を叩いて喜びを表明すると、身体を捻って、奥の方に声を張り上げる。

「――露綺、お客さんだよ!」

 画廊の奥で、額の傾きを直していた少女の後ろ姿が振り向く。僕は目を剥いた。

「露綺さん、なんでここにいるの?!」

「何よ。私がここにいて悪いの?」目をしかめる。

「……いや、顔も見たくないんだと思ってた」

 ロキが瑞山先生の個展の手伝いをしていると聞いて驚いた。

「一応妹だし……」

 渋々という感じで呟く。彼女はこういう律儀なところがある。

 それにしても、彼女の私服姿を見るのは初めてだ。個展に相応しい、白黒を基調にしたフォーマルなワンピース。よく似合っている。

 僕を一瞥し、

「別に私のお客さんじゃないわ。兄さんが相手して」

 と、しれっと言うと、作業に戻っていく。にべもない。

 その後、瑞山先生は新作を見せてくれた。

 『インナーチャイルド

 画面の中央に、長い髪を広げた大人の女性が手足を丸めて浮いている。その身体は半透明で、まるでゴムで出来たフィギュアみたいな質感で、その透けて見える内臓の代わりに、彼女の身体の中心には、胎児のように踞って眠る、少女の身体が詰まっているのだった。

「人は誰でも心の中に子供の自分を飼っている。君の親御さんにも。君がおじさんやおじいさんになっても。心の中にはずっと、子供の君がいる。満たされないままで。俺たちは永遠に子供なんだ」

 遠い目をして呟いた。

「大人と子供の境界はどこにあるんだろうね」

 

 日生麻耶という人間はいなかった。

 日生央真の隠し子なんて、冷静に考えれば夢物語だ。僕はすっかり瑞山先生の冗談に騙されたわけだ。もう笑うしかない。あくまで都市伝説――伝説レベルの話なのだ。

「あの都市伝説には続きがある。日生央真のモデルの女性は、後にある男と結婚することになる。それがあの牧師様であって、由一くんと麻耶ちゃんは、日生央真のモデルの子供なんだって。美術界では結構有名な話なんだよ。

 それにしても、二人の男に愛された彼女は、一体どんな人だったんだろうね」

 よほど魅力的な人だったに違いない。彼女を知らない僕は、それを想像するだけだ。

 ふと、瑞山先生が手の甲に絆創膏を貼っているのに気付いた。小さな怪我をしているようだ。

「その手、どうしたんですか?」

「ちょっとね」

 個展の準備中に怪我をしたのだろう。彼は言いよどんだ。

「失くしものは見つかった?」

 急に訊ねる。

 とはいっても、失くしたものが何か分からないので、何とも言えない。僕は苦笑を返す。移り気な彼は話題を変えた。

「何か変わったこと、あった?」

 一応教育実習先の学校だ。近況が気になるのだろう。

 あれから数週間が経ち、六月に入っていた。衣替えが済み、制服も学ランから半袖の白いカッターシャツに変わっていた。

「そういえば、生徒会選挙がありました」

 先日、季節外れの生徒会選挙があった。校則に基づき、会長と副会長が選出し直されたのである。

 あれ以来、由一はちょっかいをかけてこなかった。それどころかあんなことがあって顔を合わせるのが気まずいのか、由一は瀧上牧師と共に転校してしまった。僕は全然気にしていないし、改めていい友達になれるかなと思っていたので、少し残念だった。

 とはいえ、六月というのは本当に何もない月だ。

「そうか。普通なのか」

「普通っていいですよね」

 あの二週間は、本当に色々なことが起きて気を張っていた。久しぶりに戻ってきた、束の間の平穏を僕は噛みしめていた。

「これのどこが『普通』なのよ」

 通りがかったロキが不機嫌そうに言い放つ。

「二人とも呑気なことね、人死にが出てるのに。あなたたちの正気を疑うわ」

 僕たちは苦笑した。

「無駄口叩いてないで、兄さんも運ぶの手伝って」

 はいはい、と瑞山先生は作業に戻っていく。

 すれ違いざまに、ロキは僕に囁いた。

「大丈夫よ。次こそは尻尾を掴んでやるわ」

 

「ねえ、律人」

 母の声で我に返った。見ると、何やら笑っている。

「え、何。どうしたの」

「私、今とっても幸せよ」

「僕もだよ、母さん」

 あの二週間が終わってからも、僕とロキは学校で時々会っていた。

 彼女は相変わらず黒い絵を描き続けていた。どこか攻撃的にも見える黒を、まるで癒しを求めるように。

「露綺さん、ありがとう」自分の気持ちをまっすぐに、素直に伝えようと思う。「君がいなければ、きっと、僕は取り返しのつかないことになっていた」

「別に。礼を言うのは私の方よ。あなたのお陰で、無駄に人を刺さずにすんだわ」彼女はそう言うが、僕は本当に、お礼を言われることなんて何もしていない。

「いや、君が」

「あなたが」

「僕は本当に」

「うっさいわね! ぐちゃぐちゃ言ってないで認めなさいよ!」業を煮やしたロキに怒鳴られた。僕は恐縮する。

「最悪……指が、動かなくなったかも、しれないのに……」

 珍しく、彼女の声が湿っている。

 これがロキの本当の優しさなのだと思った。

 傷は表皮を切っただけで、派手な出血の割には浅く、跡も残らず完治するだろうとのことだった。

「麻耶さんの遺体が見つかったそうよ。自殺だった」

 彼女はそう告げた。そのような展開も薄々覚悟はしていた。

 とは言っても、僕には麻耶の記憶がなく、いまいち現実味がないのも確かだった。

「……はは、分からないんだ」

 いざその場になると、悲しめばいいのか、怒ればいいのか、笑えばいいのか分からない。身体と感情がうまく繋がっていないような。そうするには、僕はあまりにも麻耶のことを知らない。

「こういうとき、どういう顔すればいいの?」

 逆に、ロキに訊ねる。

「普通ならどうすればいいの?」

「醜悪ね……」

 それが、僕の記憶に対してなのか、それとも僕自身に対してなのか分からなかった。

 呆れたように頭を振る。

「――あなたが忘れても、私が彼らのことを忘れない。ずっと覚えているわ」

「なんかそれ、プロポーズみたいだね」

「ところで用はそれだけ?!」

「――あ、そうだった。あの、この前のお礼にマフィンとか焼いてきたんだけど、よかったら受け取ってもらえないかな」

 そう言って僕は、個包装した焼き菓子を鞄から出す。そういえばお礼がまだだったと、今朝ふと思い立ったのだ。

「……普通逆じゃない?」

 と毒づきながらも、受け取ってくれた。

 俯き、口許を隠すようにして食べる。女の子はそうやってものを食べるのか、と意外な発見をして、感心してしまった。別に大口開けて食べてもらっても全然気にしないのだけれど、何だか奥ゆかしくて小動物みたいだ。

 僕があまりにじろじろと見るので、ロキは無言で睨みつけてきた。

「それで、どう? 感想は」

 自分の料理の感想を訊く、この瞬間は、何度経験しても緊張する。顔面が熱を持っているようにさえ感じる。

 ロキは綺麗に濡れた目でちょっと僕を見上げて、顔を赤らめて、言った。

「美味しい……」

「あ」

 思わず、間抜けな声を出してしまう。

 その瞬間、今までに経験したことのないような気持ちに襲われた。未知の感覚。何というか、肋骨の間から、心臓が落っこちそうな感覚。

「な、何よ!?」

 地上の果てまで、駆け出していきたい気持ちになって、顔が火を噴くように熱くなって、もう誰の顔もまともに見れない。

「何かよく分からないけど、恥ずかしい!」

「私も恥ずかしいわよ!」

 喩えるなら、たまたまふらりと訪れた美術館で、とびきりいいものを見ることが出来たときに近い感覚。

 僕はベランダのフェンスに身体を預ける。笑う。口を開けて、風を浴びている。

 何かを掴んだ、という確信があった。

 ――世界は、美しい。

 素直にそう思った。