雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上4-3

4-3.Trust Me:私を信じて

 いつの間にか、教育実習が始まってから三週目に入っていた。そして教育実習は二週間なので、瑞山先生はもういない。お別れを言うべきだったと後悔した。

 そんなある日、僕は瀧上由一に呼び出された。

 彼が僕についた嘘も含めて、全てを話すという。

 生徒会室を訪れたのは、彼に案内されたとき以来、二回目だ。

 窓が開いていた。換気のためだろう。六月に入り、蒸し暑くなってきたが、冷房はまだ入らない。しかし、窓からも生温い風が吹き込んでくるだけだった。

玉露の美味しい入れ方って知ってる?」

 僕に背を向け、歌うように言いながら、電気湯沸かし器のスイッチを入れる。生徒会室にはそんな設備もあるのか。

 何だか、すごくフレンドリーだ。僕をもてなしてくれるというのか。

「低い温度で半分を淹れる。次に熱い湯で残りの半分を淹れる。――ご馳走しよう」

 由一は、缶入りの茶葉を急須に入れ、蒸らし、二つの湯呑みに注ぐ。何か、由一って渋いな、と思った。まあ、お言葉に甘えることにする。

 それにしても、緑茶はともかくとして、玉露なんて初めて飲む。緑茶に比べて抹茶の趣に近い。葉っぱを砕いて飲むという感じに濃いし、苦みがある。底の方に緑色の澱が溜まっていた。

「どう? 旨いだろう」

「なんか、苦いね」

「苦い? そうかな」

「飲み慣れてないせいもあると思う。美味しいよ」

 僕は笑顔を作った。

「昔は現代みたいに、あらゆる色が自由に使える訳ではなくてね。色のついた物質は何でもありがたられたものだよ。賢者の石と呼ばれた仙丹は知ってるよね。いわゆる水銀化合物なんだけど、初めて聞いたとき、飲んだら不老不死どころか、死ぬって分かりきってるのに、なんでそれが不老不死の薬なんだろうって思ったものだけれど、それを聞くと、何となく分かる気がするよ」

 いきなり何を言いだすのか、と思った。僕はぎこちなく答える。

「随分と、詳しいね。その、顔料のこととか」

「まあ、親戚が画家なもので。ところで――」

 由一は、人好きのする笑顔を浮かべたまま、言った。

「君ってさ、人から貰ったものをろくに確認もせず飲むんだね。そんなのじゃ早死にするぜ」

 僕は思わず、湯呑みの底を覗き込んでしまった。

 再び顔を上げたとき、由一は目の前にいなかった。代わりに、無防備になった僕のうなじに、強烈な痛みが走った。目の前がショートする。と同時に、身体の自由がきかなくなった。横向きに椅子から転げ落ちて、芋虫みたいな姿勢のまま、手足の先まで麻痺している。

 スタンガンか?

 上から彼の靴音と声だけが降る。

「他意はないさ。ただ、人を信じてない誰かさんなら、人から貰ったものをうかつに飲んだりしないだろうな、って思っただけだよ」

 どうして、と言おうとしたが、声が出ない。

 善良な彼がこのように変貌するなんて、誰が予想出来るだろう。

 由一は僕の両手首にロープを巻き付け、パイプ椅子に座らせ、胴を括り付ける。

 僕を拘束し終えると、彼はどこかへ電話をかけ始めた。

 通話を終え、僕に向き直る。

「とうさんはどうやら殴った犯人を黙秘しているらしいね。牧師様は慈悲深いこった」

 一体何の話を始めるのだ。

「とうさんは、前から殴られていた」

 由一はしゃがんで、低く僕と目を合わせた。

「薄々勘付いてるんだろ。君が僕のとうさんを殴ったって」

「何、言って……。あれは東郷が」

「感心ならないな。人のせいにしちゃ。東郷瑛良は退学してるんだよ」

「彼はこの学校にいたよ。話をしたんだ」

「そりゃあ、君の都合の悪いことを覆い隠すために生まれた、架空の人間」

 彼は相手にしてくれない。こんな意地悪なことさえ言う。

「病弱な設定の、君だけに見える友達」

「違うよ。東郷は君の友達だよ」

 そう。東郷は僕というよりも由一の友達なのだ。

 歌うように言う彼に、さすがに怒りを覚えた。

「君の親友だ。学校を辞めなきゃいけないくらい、重い病気で死にゆく人なのに、そんな冗談言うなんて、酷いよ」

「正論だな」

 由一は鼻で笑った。

「確かに僕は人でなしだが、君に言われたくはないね」

 顔をぐっと近付ける。

「あんなことがあったのに、忘れてしまったんだろう?」

 あんなこと? この学校で少女が飛び降り自殺してしまったことだろうか。

「麻耶さんのこと?」

 僕は訊ね返していた。

 それなら本当に悪いと思っている。彼にとってはかけがえのない双子の姉なのだ。

 彼は悪人の顔をして、高らかに笑った。

「麻耶のこと? ああ、清々したよ!」

 ああ、どうしようもないと思った。

 ところで、彼は僕に何をする気なのだろう。僕を拘束しておいて、やることと言えば延々と喋っているだけ。不気味だ。

「何をする気なの?」

「復讐、だよ」

「復讐?」

「君にはただ聞いてほしいものがあるんだ」

 由一は小さな黒いものを指に摘んで見せた。盗聴器だった。

「悪いけど仕掛けさせてもらっていたよ。まさか本当に掘り返し始めるとは思わなかったけどな」

 一体何だ、と見ていると、彼はそのボタンを操作した。

 ノイズがかった音声が流れ出す。僕の声だ。

 それは、僕が瀧上牧師に話した、存在しない左腕の話。日生麻耶という、存在しない私生児の話。

 そして、ごめんなさいと懺悔し続ける僕の声。

「――これを、君の母親に聴かせる。クラスメイトにも。そしたらみんな、君の頭がおかしいことに気が付くだろう」

「何言って……」

「よく言うよ。自分がぶっ壊れているのも知らないで」

 肩を揺らして、由一は邪悪に嗤った。

「母親もろとも、精神病棟にぶちこんでやる」

 あまりのことに血の気が引いて、意識が遠のく。

 しかし彼はそれを許さない。ふらついた僕の頭を押さえつけると、顔を近寄せ、額をつけた。白い眼球の表面がぬらりと光った。彼の端正な顔が眼前にある。

「記憶を飛ばそうったってそうはいかないぜ」

 彼は僕の頭を押さえる手に力を込めた。

「被害者面しやがって、下衆が」

「離して!!」空気を求めて喘いだ。

「記憶を失くしてしまえば、全てごまかせるとでも思ってたのか。麻耶を――僕の姉さんを殺したくせに」

 頭を殴られたような衝撃が襲った。

「嘘、だよね……」

 そう呟くが、彼は笑わなかった。

 いや、録音を聴いて分かった。瀧上牧師を殴り倒したのはきっと僕だ。優しい彼はそれを赦してくれたのだ。

 そういう暴力性を秘めているから、きっと麻耶も……。

「やっと分かったかい。君の中には、君の知らない暴力性が眠っている。正直言って危険だ。君は頭のおかしい人間で、麻耶を無理矢理屋上から突き落としたんだよ」

 そう言って僕の髪をかきあげて、指先でゆっくりと額をなぞった。

 僕が麻耶を殺したのだ。

 屋上から突き落として。

 そして僕は麻耶のことを忘れてしまったのだ。

 僕はロキや東郷が、頑なに僕から麻耶のことを隠そうとする理由をようやく悟った。いや、東郷もロキも本当にいるのだろうか。彼らは架空の人物で、二重人格者のように、外からは僕が一人で会話しているようにしか見えないのだろうか。

 信じたくない。良心が耐えられない。自分がさらさらと音を立てて崩壊していくのが分かる。

「あ、あ……」

「放っておけば、君は君の知らない間に、何人もの人間を殺すだろう。沢山の人を殺すだろう」

 重すぎる真実に耐えきれなくなって、呼吸が早く、浅くなる。

 自分の呼吸じゃないみたいだ。

 指先が青白く、痺れていく。

「いい加減にして。――瀧上くん」

 靴音を響かせて、僕と由一の前に割り込んだ人影があった。

 黒いスカートが舞う。残像と共に振り向いた少女の、冷たい氷のような美貌。仁王立ちして、表情は固く引き結ばれている。

「露綺さん……」

 ロキが助けに来てくれた。

 そのことに感動しながらも、僕は半信半疑だった。目の前の彼女は本物なのだろうか。僕が頭の中で作り出した、都合のいい妄想ではないのだろうか。

「やたら足止めを食らうと思ったら。瀧上くん、あなたの仕業ね」

「人を動かすくらい簡単さ」

 へらへらと笑う。

「――大分錯乱してるわね」

 振り向いて僕を一瞥すると、皮肉に目を眇める。

「落ち着いて。私の目を見て、ゆっくりと深呼吸して」

「はー、はー」

 僕はその声のままに、無機質な呼吸を繰り返した。

 彼女の目を見ていると、何故か落ち着いてきた。

「君は――」

「私はここにいるわ」

 彼女の長い髪が、激しい風に煽られ、翼のようにはためいていた。

 澄んだ輝きを持つ目が、真っ直ぐに僕を射抜いた。

「私を信じて」

 ただ一言、言った。

 ――そのときに気付いたのだ。

 ロキの、私を信じてという言葉。人を信じてはいけないという言葉。

 しかしその彼女自身が、自分の言葉を誰かが信じてくれることを、愚直なまでに信じているという矛盾に。

 それなら僕は、

「分かった。君を、信じるよ」

 弾けるような由一の哄笑。

「都合のいいことだけを信じるっていうのかい?」

 由一の挑発に、ロキの目が怒りに染め上がった。

 おもむろにその手がナイフを取り出した。手にしたそれを、まじまじと見つめる。

 危険な光が彼女の目の中で踊った。その瞬間、ああ駄目だと思った。あのロキが本物の刃物を手にした。ロキは手の中でナイフの持ち方を変えると、由一に向かって刃先を突きつけた。

「あなたは死ぬべきだわ」

 由一は不敵に笑っているだけだった。出来るわけがない、と侮っているかのようにも見えた。ただ目だけは、次に来る敵の行動を見失わないように、じっとロキを見つめたまま。

 ナイフを横に携え、黒い死神はすっ、と前に出た。

 僕の脳裏に、ある光景が一瞬フラッシュバックした。

 瑞山先生に馬乗りになったロキが、何度も何度も彼の身体に包丁を振りおろす。

 彼の長身が痙攣し、説得を試みるものの聞き入れようとはしない。悲痛な悲鳴があがり、やがてぐったりと動かなくなった彼をなおも刺し続けるロキを。

 思い浮かんだ地獄絵図。

 何としてでも止めなくてはならない。

 ほとんど無我夢中だった。やっと手首のロープを解いた。手を伸ばしてナイフを奪い取ろうと試みる。まずは手首を掴む。彼女はいきなり触られたことに動揺するが、それも一瞬のことだった。止めることは出来ない。

 ロキは由一の胸に向かって刃物を突き出した。

 重たい音を立てて、灰色のリノリウムに鮮やかな血の滴が散った。

「――うっ」

 他人のような声。

 僕の血を見て、無傷の由一が戸惑ったような顔をして後ずさる。

 僕は、両手でロキのナイフを包むように握りしめた。

 薄い手の平の皮を裂いて、入り込んだ刃が神経に触れながら肉の中を滑る冷たさ。火のような痛みを噴いて、傷口から熱い液体が溢れ出す。鼓動と共に強まる苦痛に耐え、おびただしい汗が額を伝う。

「このっ、離しなさい!」

 ロキが握りしめたナイフには無駄な力が入り、危なっかしく震えていた。

 閉じた指の間から血が滴り、刀身が滑る。この手は絶対に離してはいけない。

「……もういいよ」

 ふと由一を見た。彼には珍しく、まるで抜け殻のように蒼白な顔をしていた。

 そんな気配を感じながら、僕は彼に背中で話しかけた。

「どうぞ、その事実を公表してください。記憶がなくなるのはやっぱり〝普通〟じゃない。露綺さん、この病気はいつかきっと治るだろう」

 ロキには最後の一線を越えてほしくなかった。僕を助けるために人殺しになるくらいなら、僕が、

 全てを受け入れる。

 僕は〝普通〟じゃない。

 〝日常〟なんて最初からなかったんだ。

「――でも、今彼を刺したら、君はもう戻れなくなってしまうよ。僕は、君が人を殺すのは見たくないな」

 そう言って僕は、彼女の強張った顔をほぐすように笑いかけようとした。

 力ない笑顔になった。

 もはやロキの手に力は入っていなかった。

 いつの間にか由一はペースを取り戻したのか、不敵に嗤っていた。僕はその背後に信じられないものを見た。そして彼はまだ気付いていない。

「こいつに邪魔されるなんて。無様だな、露綺」

 ――ドアを開いて現れた瑞山先生が、隙をついて、由一の持っていた機器を上からひょいと取り上げると、大きく振りかぶって、壁に向かってなんと全力投球した。ちゃちなプラスチックが砕ける音。

「あ」

 一同、唖然。

 瑞山先生だけが、すっきりした顔で、大きく伸びをする。

「あー、すかっとした〜」

「おい、瑞山雫綺――」険悪な顔で睨む。

「背中ががら空きだぜ、性悪メガネ」

 親しげに彼の背中を叩く。完全に子供扱いだ。

「あれ、間が悪かった?」

 きょとんとする僕らに気付いて、あっけらかんと言った。

「確かに、来いとは言ったが――」

 僕はそこで、さっきの電話の相手が瑞山先生だったのだと気付いた。見ると彼は私服姿だ。向かいの蒼美大から駆けつけてきたらしい。

「遅い」

「そんなに早く来れるわけないじゃん。学生と違って身軽じゃないんだからさ」

 と、そこでようやく僕を見る。顔色を変えた。

「お前、手どうした?」

 瑞山先生に言われて気付いた。それまでほとんど痛みを感じていなかった。

 今更思い出したかのように、鼓動に合わせて手の平が激しい痛みを発し始める。

 彼は、先生の顔で訊ねた。

「瀧上くん、どういうことか説明してくれる?」

 ロキが手の傷を押さえつけてくれていた。彼女の白い手の平が、僕の血で真っ赤に濡れていくが、なかなか出血は止まらない。

「瀧上くん! 保健室の先生呼んで!」

 彼は動かない。ロキは業を煮やして、

「早く!」

 彼は最後の最後まで悪役で、

 不利だと判断したのか、舌打ちを漏らすと、言われた通り先生を呼びに、しかし一旦戻って僕のロープを解いてから、再び怒ったように身を翻した。