雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上4-2

4-2.A Little Thinker:小さな哲学者

 五月、何日?

 何が夢で、何が現実か分からない。正直今どちらにいるか確信がなかった。馬鹿馬鹿しく思えてきて、僕は日付を数えることを放棄した。

 また記憶が飛んでいる。

 朝、起きるとあの見知らぬ男性がいて、一緒に食卓を囲むことになった。母は平然としているので、きっと彼女の友人だったのだろう。彼は母の話を、聞いているのか聞いていないのか、聞こえているのかそうでないのか、よく分からない感じで黙っていた。

 今日も、東郷は現れなかった。担任も特に、この学年の生徒が失踪したなどと触れることもなく、まるで最初から彼なんていなかったかのように日常は回る。

 悪い予感を抱えたまま、今日もロキのいる屋上を訪れる。

 ここのところ毎日通っているせいか、いても特に文句を言われることもなくなった。邪険にされないということは、友人として一歩前進したということだろうか。素直に嬉しい。

 ロキはペインティングナイフを、愛用の得物を手入れするように、丁寧に磨いている。

 彼女は武装しているかのようだった。

 熟練の兵士か、または殺し屋のようだった。

 特に会話を交わさずに今日も終わるのだと思っていた。ロキは作業を終えてナイフを置くと、凛とした姿で僕の前に立った。

「聞いているかしら。日生央真が死んだわ」

 日生央真が孤独死していたのが見つかった。死後二週間以上経っていて、死因は首を吊ったことによる頸部骨折。遺書はないものの、完全な自殺であると警察から発表された。

 どうしてロキが日生央真の話題を? いまいちぴんとこない僕に、ロキが解説してくれる。

「教育実習が始まった時点で日生央真は死んでいたということよ。その間も普通の人たちと同じように振舞っていた犯人は、既に正気じゃないわね」

 ぞっとした。

 二週間前には日生央真が死んだことを知っていながら、普通の人に紛れ込み、擬態しながら日常を送っていた。そんなことが出来る神経は狂っている。

 ――いや、

「待って、それって――」

「日生央真は他殺よ」

「でも、警察の人だって、自殺だって言ってるんだろう?」

 彼らが自殺と断定する以上、第三者が彼を殺害したとは考えにくいが。さすがに鑑識の目は欺けない。

「兄さんが絡んでる」

「――ちょっと、露綺さん!」

 この少女は、実兄である瑞山先生のことを、嫌っているというよりも憎んでいるようだった。何でもすぐにお兄さんを悪者に仕立て上げ、起こったこと全てを彼のせいにしたがる。殺すとか、死ねとかいう言葉も驚くほど軽く出てくるのだ。僕は呆れたような気持ちになる。

「たとえ指一本触れていなくても、この国には自殺教唆という罪があるのよ。言葉で人に自殺を決意させた人間も裁かれるの」

 僕は一つ思いついたことがあって、ふと口にした。

「じゃあ、法律で決まっていなかったら、それは悪いことじゃないの? 許されるのかな」

 確かに僕の感覚的にも、精神的に人を追いつめ、死に追いやることは悪いことだと思う。友達がそれで亡くなったとしたら許せない。

 でも例えば日本以外の国で、そういう法律がなかったら、と思うのだ。

 すると、この世界の規律というものが、酷くいい加減に思えてくるのだった。僕たちが正義と呼んでいるものって、実は僕たちが自分で決めているんじゃないだろうか。

 ロキはどうしてそんなところにひっかかっているのだ、という風な呆れ顔をした。

「あなた変よ」

「そうかな」

 視点がユニークということだろう。東郷にもよく言われる。お前って天然だなあと。魚じゃないんだから、人に天然も養殖もないと思うのだが。

 東郷瑛良。彼は誰だったのだろう。たとえ偽物でも、もう一度会いたいな、と思った。

「――自殺で片付けられて、本当に悪い人間が裁かれないなんて私が許さない」

 ロキが感情らしい感情を初めて露わにした瞬間だった。

「罪を犯した者にもそれなりの報いがあるって言う。そんなことが何だっていうの? 失ったものは二度と戻ってこない。それを〝かけがえのない〟って言うんでしょう?」

 言い放つ彼女は声を荒げて、肩で息をしていた。僕を見つめる目が真摯で、人を刺したことなど忘れてしまうくらい、今は普通の少女に見えた。

「『一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、「悔い改めます」と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい』――私はこの言葉が嫌いだわ。綺麗ごとでしかない。七回欺かれるなら、七回赦す前にこっちの心を破壊されてしまう」

 ロキは鞄から聖書を取り出して、読み上げた。不登校なのに聖書はちゃんと持ち歩いているらしい。

「兄さんはそういう人だわ」

 彼女は突然に切り出した。

「心のない存在があることを、あなたは信じられる?」

「え?」

 僕は訊き返す。心がない人間なんてあるはずがない。出会った全ての人で喜怒哀楽のない人は一人もいなかったし、どんな小説や映画の主人公も、等身大の心情を綴る。それで僕は、自分以外の人間にも心があることを学んだのだ。

 尚更、ロキが嫌っている瑞山先生は優しい人だと思える。心の底からロキが大好きで、それが嘘には見えない。

「説得しても改心することがなくて、自分以外の人間にはいい顔をして、誰も彼が悪い人間だと気付けない。放っておけば沢山の人を不幸にする、殺すより他にしようのない人間だとしたら? それ以外に絶望から逃れるには、自分が死ぬしか選択肢がないとしたら?」

 ロキは表現に迷っていた。言いたいことが言えず、じれったそうに目をしかめる。

「嵐の夜に、兄さんが計画的に人を殺害していたとしたら?」

 十一年前のある嵐の夜、瑞山先生のせいで交通事故が起きて人が死んだ。

「それって偶然起きた事故なんでしょう?」

「風の強い夜だった。普通の風じゃない、あちこちで木が倒れたり、看板が落ちたりした被害も出たくらい酷い春の嵐。私も夜通し窓が揺れて眠れなかったもの。よく覚えてる。

 普通に考えるとおかしいとは思わない? 彼はどうして、嵐の夜なんかに出かけたのかしら」

 確かに、天気の良い日ならまだしも、夜の、しかも酷い暴風雨の中、猫を連れて散歩に出かけようとどうして思うだろうか。それがたとえ変わり者の瑞山先生だとしても。

 ロキはこう言いたいのだ。

 彼はわざと道路に躍り出て、その最悪の交通事故を引き起こした、と。

「あの日から彼は、境界に囚われている。彼の興味があることは、面白いことと、境界がどこに在るかだけ。自分の存在さえどうでもいいのだわ。そんな恐ろしい人間がこの世にいれば、大勢の人が苦しむことになる。彼は生まれつき、心がない人間だわ。あるように見えるけれど、あれは演技よ。そう、疑ってかかるべきね」

 信じても、信じなくてもいいけれど。ふと黙った彼女の背中からそんな声が聞こえる気がした。ロキは最初から、僕が信用するとは思っていない風だ。

 確かにはっきり言って考えすぎだとも思う。まずロキの主観が入っている。ロキは瑞山先生を嫌っているのだ。嫌いな人に対してはどうしても悪い解釈をしがちである。

 ロキの大げさな嘘なのだろうか。どうしようもなく、僕と瑞山先生の関係が悪化することを狙っているのだろうか。

 確かに、他人の心は目に見えない。それが本当にあるのかは証明が出来ない。訊いた相手が自分には心がある、と言ってしまえば終わりだからだ。

 彼女を訝しんでいる自分に気付いた。

 他人事のように、お兄さんを疑うのをやめろ、と言うのは簡単だ。しかしこれでは、僕は彼女を裏切ってきた人々と結局同じではないか。

 僕には彼女の言うように、瑞山先生が悪い人間だとは思えないが、ロキの話をそれなりに受け止めようと思った。夢物語に踊らされる愚者になっても。あの日ロキは、僕に信じてと言ったのだから。

「私は正義が欲しい」

 消え入りそうな声で呟いた。

「私は兄さんに関わって、人生を狂わされた人たちを沢山見てきたわ。心が壊れた人も、自ら命を絶った人も。嵐の夜に兄さんが死んでいれば、こんなことにはならなかったのに。運命はもう味方をしない。これからはもう、誰かが手を汚さないと、彼は止められない。

 ――梓川くん。人殺しを殺した人間も、人殺しになるわ。英雄のように決して褒めたたえられることはない。それでもいい。私は悪になるわ。救えなかった人たちのために。そして刺し違えてでも兄さんを殺す」

 僕はふと、ニーチェの言葉を思い出した。

 『怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。汝が長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しく汝を見返すのだ』

 瑞山先生は彼女の言うように、悪い人なのだろうか。

 そしてロキは、嵐の夜に死ななかった瑞山先生を殺そうとした。心のない彼に人々が苦しめられるのを見ていられなくなって。そして失敗し、今こうして殺人犯と呼ばれ、全てを失った。

「でも無駄だったわ」

 ぎり、と奥歯を噛みしめる。

「私がいなくても世界は回るもの」

 諦観したように呟く。

 鉄格子の際に立つその姿は寂しそうで、長い黒髪が、酷く物悲しげに揺れていた。一人分の間隔を空けて、思わず僕も彼女と並んで、同じ景色を眺めた。

 ――彼女の言っていることはよく分からないけれど、ただ一つ言えることがある。

「……そんなこと、ないと思う。露綺さんは誰かの役に立ててると思う。君のお陰で救われた人がいるんじゃないかな」

 話を聞いて、ロキは本当は優しい人なのだろうな、と思った。

 修羅のような心で。全ての人間を疑ってかかると強く誓ったのに。――あの優しい、瑞山先生の思いやりを演技だとは割りきれず、迷った。今でも、彼が本当に死ぬべき人間なのか、彼女自身にも確信がないのだろう。

「瀧上牧師が言ってたよ。『悪魔と戦うには、人間でありなさい』って。君は普通でいい。怪物にならなくてもいい」

「普通でどうやって彼と戦うのよ」

「それでも君が抱え込むと言うのなら、僕が半分背負うよ」

 ロキは鼻を鳴らした。

「何故あなたがそこまでする義理があるの」

「僕が露綺さんを好きだから」

 気がつくと口に出していた。

「それじゃだめ?」

「私は嫌いだわ」ぼそりと呟く。「いいえ、人間はみんな嫌い。信じられない」

 僕も例外でなく、嘘をついているのではないかと疑っている。優しげな振りをして、後で裏切られてしまう、と。

 良くしてくれても、それは演技で、本当は自分を騙しているのではないか。疑えば疑うほどきりがなくなっていって、家族さえも信じることが出来ない。彼女が信じるのは自分だけだ。彼女はずっと、自分だけを味方にして生きてきたのだ。戦場にいるような荒んだ目で。

 僕は憶う。ロキはこれからも、ずっと戦い続けるのだろう。彼の寿命が尽きるまでの、六十年の地獄を。