雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上4-1

4-1.Flower Addiction:花に溺る

 学校から帰って玄関の扉を開けたとき、その声は飛び込んできた。

『どうしてよ! あんた彼の妹なんでしょ!?』

 床を踏み鳴らす音。

 一瞬ぎょっとする。母の声だ。何かあったのだろうか。宥めようとするような男の声も聞こえてきた。

『あなたも聞いているじゃない。日生くんが死んじゃったのに、どうしてお葬式挙げないのよ!』

 居間に踏み出すと、受話器を握ったまま、電話台を蹴飛ばさんばかりに激昂する母がいた。電話に憎しみがあって、罵っているようにさえ見えるほどだった。止めようと、彼女を羽交い絞めにする男性と目が合う。開口一番、男はこう言った。

「律人くん、手伝ってくれないか」

 彼は大男であったが、母が暴れるので押され気味だった。一度感情的になると手がつけられない。僕の母はそんな人だった。

 母も僕に気付いて、涙を浮かべた目でこちらを見る。

「助けてよ! 律人!」

 絹を裂くような悲鳴。

 そして男から逃れようと一層激しくもがく。

 二つの矛盾した命令に板挟みにされ、僕は迷った。その男は、僕の記憶する限り見知らぬ人物だった。男が強盗か何かで、何も知らない僕に加勢をさせるのなら卑劣だと思うが、母の様子を見ていると、このままだと自分で自分の筋肉をひきちぎりかねず、危険だと判断する。とりあえずは男性の加勢に回った。

 二人がかりで電話の前から彼女を引き剥がし、受話器を元の場所に戻させる。

 それからの彼の、母の扱いは紳士的だった。手足をばたつかせる彼女が怪我をしないように細心の注意を払い、ソファーに座らせる。ヒステリーが治まり、大人しくなって、その後の静かな嗚咽が止むまでに一時間はかかった。

 悪い予感はしながらも、僕は手持ち無沙汰に夕食の下ごしらえをしたり、来客用の紅茶を淹れたりしていた。男性も、何も聞こえていないかのようにテーブルについて、何かの作業をしていた。その間、誰も言葉を発しなかった。

「信じられない! 薄情だとは思わない?!」

 母が突発的に叫ぶ。

「なんでみんな日生くんを一人にするのよ!」

「故人の前で騒ぐのは不謹慎だ」

「…………」

 母がむくれて頬を膨らませた。

「いつも母がお世話になっています」

 会話のきっかけを得て、僕は紅茶を差し出しながら彼に話しかけた。

 彼は僕を興味がなさそうに一瞥して、ただ一言、萩原だ、と答えた。必要なことを告げたきり、あとは余計な会話をしようとしない。硬派な人だという印象を受けた。

 母が落ち着いた今、萩原さんを余裕を持って観察することが出来た。百九十センチ近い長身に、日本人離れした彫りの深い顔立ち。短髪で、額に縫った跡があって、白髪混じりなのが少し老けて見える。

 様子から、母の美大時代の先輩、しかもかなり親しい間柄であることが分かる。

 彼は喪服の黒いスーツを着ていた。母も余所行きの黒いワンピース。その異様で独特の雰囲気に、知り合いの誰かが亡くなったのだ、ということを感じた。

 しかしそのことを口に出すわけにもいかない。

 気まずい時間に耐えかねて、今度は母が話し始めた。

「萩原さんが来てくれるなんて。全然会いに来ないし。律人だってこんなに大きくなったのよ。もっと会いに来ればいいじゃない」

「…………」

「律人、こちらは萩原さん。サークルの先輩。手先がとっても器用なのよ」

「はあ。よろしくお願いします」

 萩原さんがあまりに話さないので、紹介も彼女の口から聞くこととなった。結局いつも通り母と二人で話している。

 萩原さんは遠くを見るように目を眇めると、突然こう言った。

「こう言うのは無礼かもしれないが、君は変わらないな」

 母が嬉しそうに顔を上げる。

「そうなのよ。生まれたときと全然変わらないでしょ。そのまま大きくなった感じよね」

 僕たちが生まれたのも、親たちにとっては昨日のことのようだ。僕にとっては結構変わったつもりなのだが。

「男の子ってそういうところない? 女の子は変わるわよね。変わるでしょう?」彼には娘さんがいるのか。

「そういうものなんでしょうか?」

「思春期の娘とは、悪魔憑きのようなものだと思います。昨日までは素直な天使のようだったのに、今日は下劣な言葉を吐き、理不尽に振る舞って家を脅かす。本人も何かに苦しんでいるようだから、親としてはなんとかしてその原因を取り除いてやりたいが、それが何かも分からない。男の子のほうがずっといい」

 彼のそれは謙遜だろう。しかし母は気まずくなって、黙って俯いてしまった。母は基本的に誰にでも無邪気で遠慮がないのだが、そんな彼女にしても珍しい。取り付く島がないというか。無愛想だ。空気を読むのが少し苦手な人なのだろう。僕は苦笑いする。

 帰る時刻が気になったのか、ふと萩原さんが壁の時計を見上げたが、それがまるで見当違いの時刻を差しているのに戸惑っていた。止まっているあの時計だ。

 美大の卒業記念品だったらしい。有名ブランドのものらしいが、かつて母が発作のときに、物にあたって壊れてしまったのだ。

「――ああ、その時計壊れてるんですよ。何となく捨てられなくって」

 彼は不気味そうに眉をひそめた。

「そうだ。泊まっていけばいいじゃない。――律人、萩原さんの分も作れるでしょ?」

 母が提案する。

 萩原さんがむっとしたように片眉を上げたので、僕は情けなく苦笑を返した。

「もう遅いですから、食べていってください」

 このようなときにこんなことが言えたことに、自分でも驚いた。

 そういえば、母を見舞いに沢山の人が訪れるけれど、大体は気晴らしに彼女を連れ出すばかりで、誰かをこの家に泊めるのは初めてのことだった。

「そうそう、萩原さんにはまだ話してないことがいっぱいあったわよね」

 嬉しそうな様子の母。

 仏頂面を貫いていた萩原さんは、そこで初めてうんざりしたような顔をした。

 というのも母の話は恐ろしく長いのである。僕は内心でご愁傷様です、と呟いていた。

 萩原さんは母が話している最中も、鉄のような集中力で黙々と作業をしていた。平日だったから、仕事を持ち込んでいたのかもしれない。彼の前ではノートパソコンがやたら小さく見える。

 無視している、と冷たいように思われるかもしれないが、母は基本的に自分の話をしたいだけさせておけば満足するので、それを誰かが聞いていようが聞いていまいが全く気にしない人だった。だからこの対応は逆に適切と言える。

 ほどなく夕食の時間になる。

 僕の料理が萩原さんに気に入ってもらえるかは分からない。

 家事は僕の仕事なので、テーブルで向かい合っている彼らの前で、僕は控えている。

 十数年分ともいえる母のお喋りが一瞬やんだときだった。萩原さんが口を開いた。

「どうして、律人くんに家事をさせているんだ?」

「どうして、って? 律人、とっても料理が上手なのよ」母が無邪気な子供のように答える。

「そういう問題じゃない。知花さん、親が作ってやるものなんじゃないのか」

 母は、いたいけな子供のような泣き出しそうな声で呟いて、傷心気味に目を伏せた。

「だって、だって。やってくれるって言うから、つい……」

 食卓が一気に険悪な空気に変わってしまう。母がいじめられていると感じた。

「やめてください」

 母が一方的に責められているような気がして、僕は助け舟を出した。

「いいんです、僕は全然気にしたことありません。これ以上母を責めないでください。子供が料理を作っている家があってもいいと思うんです。必ず親が子供にご飯を作ってあげなきゃいけないって決めつけるのは、偏見みたいですし」

 僕は微笑んだけれど、彼は笑わなかった。

 無言のまま味噌汁をすすり、ただ一言呟く。

「物分りのいい子にしてしまうほど、不幸なことはない」

 母か、それとも誰に言うでもなく。

「――何気ない言葉が彼らを、私たちにとっての怪物に変えるんだ」

 萩原さんの言葉は厳しかった。

 あのお喋りな母が、反省したように肩を落として黙っていた。僕までも叱られてしまったような感じがした。

 だから、次にまた萩原さんに話しかけられたとき、思わず身体を縮こまらせた。

「律人くん」

 仏頂面で僕を振り返る。

「お代わりはあるか?」

「……あ、はい」

 何を言われるかと思って身構えていたので、正直拍子抜けした。

 恐る恐る味噌汁を椀によそって返す。それで正解だったようだ。

「美味い」

 それを聞いて、素直に嬉しかった。

 先ほどの話とこれとは別のものとして、料理を褒めてくれているようだった。

 二十一時くらいに、客間に通している萩原さんを訪ねた。

「……あの、お茶入れたのでどうぞ」

 お盆の上の湯飲みを机に移す。

 それだけで去るのは、母の旧い友人に対してあまりにもそっけない気がする。

「あの、娘さんがいらっしゃるんですか?」

「ああ」

「…………」

「二人とも水で亡くなりました」地雷だったようだ。気まずい。

 萩原さんは人の家で何をするでもなく、落ち着かないようだった。仕事が案外早く終わり、やることもないが、まだ寝るには早い時間なので手持ち無沙汰なのだろう。

「あの……将棋盤があるんですけど、やりませんか? 僕お相手しますよ」

 僕は気を遣って萩原さんを接待することにした。課題も終わったし、居間では母が絵を描いているので、家事は後だ。

 押入れに将棋盤があるのに気付いたのは中学生の頃だ。本格的で、四隅に足までついている。どうしてそんなものが家にあるのかも謎で、一度母がデッサンのモチーフに使用したきりだ。

 押入れの奥から重たいそれを引きずり出す。机を隅に押しやり、座布団を敷いて向き合った。

 緊張する。

 身体が大きくて、そこにいるだけで威圧感があるのだ。

 将棋の簡単なルールは知っていたが、それでも至らないところは教えてもらいながら、駒を進めあう。

 それで、いくらか言葉も交わされる。

「さっき、何かお仕事されてたみたいですけど、職業って何されているんですか?」

「修復保存家だ」

 修復保存家は、数百年も前に描かれ風化した美術品を、当時と同じ姿で鑑賞出来るようにする、美術界では画家と同じくらい重要な仕事だ。

「じゃあ、色々な絵を直せるんですよね。すごいなあ」

「世の中には直せないものの方が多い」

 僕は少し笑った。

 ひねくれたように言う。その物言いが、ロキに通じる部分がある気がした。愛想が薄いのに、何故かこちらをそんなに嫌ってはないことが伝わってくるところだ。素直じゃなくてひねくれているのだ。大好きなものを大嫌いと言うくらいに。きっと彼は娘さんのことを愛しているのだ。こういう人はむしろ嫌いではなかった。子供相手にも敬語を使う生真面目なところとか。

 ふと、僕に父親がいたらこんな感じなのだろうかと思う。男同士で将棋を差すこんな日が来るなんて、思ってもみなかった。

 少し歳をとってはいるが、ときに厳しく、優しい、不器用で寡黙な父親

 それと、情緒豊かでお喋りで、惜しみない愛情を注いでくれる僕の母がいて、そんな生活はさぞ幸せだろう、と思った。

「全てのものは常に変化している。滅びに向かって。時の流れに逆らう私たちは、神に唾吐く存在なのかもしれない」

「そんなことないですよ」

 千年以上も前の絵を、時空を超えて目にすることが出来るのは、彼ら修復保存家のお陰だ。

「私は、何でもかんでもむやみに直すべきではないと考える。朽ちることもなく傷つくこともなく、新しい状態であり続ける。変わらないものなどない。変わらないものはむしろ不気味だ」

 次の一手を考えて、猫背で盤を凝視しつつ、彼はぽつりと呟く。

「――何の偶然か、日生央真の絵を直すことになった。彼も、元の生活には戻れないだろうな。あの青年は、精神鑑定された」

 記念館で起きた絵画損壊事件のことは聞いていた。

 一人の錯乱した美大生により、日生央真の卒業制作が破壊されたのだという。

 ノートパソコンのディスプレイに映し出された写真を見せてもらった。派手に裂けている。キャンバスが斜めに大きく切り裂かれ、一部に穴が開いていた。

「直るんですか?」

 萩原さんは複雑そうな顔をした。

「やれることをやってみよう。まだ硫酸はかけられていない」

 そうは言うものの、彼にとっても実際のところ、直るかどうかは五分五分といったところなのだろう。ものは完全には直せないのだ。

「あんなものに人生を狂わされて可哀想に。あんなもの、私が言うのも身も蓋もないが、ただの絵の具を塗った布じゃないか」

 その目元に、薄く涙が浮かんでいるような気がした。彼への同情を示すようだった。

「私たちが必死に守っているものは、そういうものなのかもしれない。どちらにせよ、元の輝きは戻らないだろう。あの絵は何か変だ。こんなことを言うのも非論理的で好かないが、魅せられたというのも分かる。正直、私にあれを直せる自信はない。奇遇なことだ。この期に及んで絵を直せる奴が死んでしまうなんて」

 そこで僕は、あの大芸術家、日生央真が死んでいたことを知ったのだった。

 不躾な質問ではあるが、こうして将棋を差し、膝を合わせて向かい合っているこの場でなら、それが許される気がした。

「……あの、もしかして日生さんはもう、亡くなっているんですか?」

 何となく予感はしていたのだ。喪服姿の大人たちと、そこに立ち込める重苦しい空気。

 萩原さんも、僕に伝えておかなければならないと思っていたようだった。

「日生央真が死んだ」

 最初の反応は戸惑いだった。

 もし発言者が東郷だったなら、嘘だろ、と言っていたかもしれない。遠い有名人が死んだことを聞くと、大抵現実離れしたような心地になるものだ。

 しかし萩原さんの言葉の重さは身にしみて分かっていた。しかも彼は何かを言うたび、相手がそれを消化するのを待って黙っている人だった。それが逆に僕にとっては苦しくて仕方がない。

 だが先ほど、母が日生央真のお葬式は行われない、と言ったばかりだった。もっと違う何かだ。

 じゃあ――これは、誰の葬式だ?

「あいつの自宅のマンションで――酷い状態だった。孤独死しているのが見つかった。腹は腐って溶けかけていた。おそらく、一、二週間は経っているだろうと警察は言っている」

 深いしわの刻まれた目元をそばめる。

 僕はまさか、と思い、訊ねる。

「その……遺体に、左腕はありましたか?」

 彼は怪訝そうな顔をした。何を言っているんだこいつは、という顔だった。僕はおかしなことを言っている。疲れているのかもしれない。

「あいつの部屋は――異様だった。窓もドアも目張りされて、電話線が切られていた。まるで重い鬱病患者の部屋だった。奴は、そこで首を吊っていたんだ。つくづくあんな死に方だけはしたくない。何がそこまであいつを追いつめたのだろうな」

 彼は、絶望と孤独の中、一人で死んだ。家庭のある彼にとっては絶対に体験したくないものだろう。

「奴の遺体の前には、一枚の絵があった」

 彼は気分が悪そうに一旦言葉を切り、再び口を開いた。

「死ぬ直前まで描いていたのだろう。何千何万という、蝶の死骸の絵だ」

 それを聞いて、さっき食事をしたせいか胃の辺りがずんと重くなった。顔を青ざめさせたまま、無理をして話に耳を傾ける。

「何を想って描いたかは分からない。――ただ、君が最初にイメージしただろうよりは美しい絵だ。果てしなく青い。標本のように虫ピンで留められた青い蝶。

 ――今まで、〝芸術の神様〟なんて呼ばれているのは大げさだと思っていたが、あいつはまさに魔人だよ」

 その声は、彼にしては上気している。

 ぽつり、と言った。

「高い値段で取引されるだろうな」

「――え?」

「芸術の値段を決めるのは画家じゃない。画家はいつも――。

 儲けるのは後世の画商やコレクターだ。天文学的な価値が出るのは、大抵彼らの死んだ後だ。昔の画家は、おおよそ食べるものもなく飢えて死んでいったものだ。可哀想に」

 まるで彼らに寄り添って、その痛みが分かるという風だった。

 画商やコレクターは、死肉を貪るハイエナのように、画家の死の直前に描かれた不吉な絵を、喜んで取引するのだ。

 気分が悪い。

 謎の将棋盤のおかげか、僕と萩原さんは今や妙な信頼関係を築いていた。普段ならこんなことは言いもしなかっただろうけれど、彼は何となく弱気になっているようだった。こんなことを言う。

「律人くん。私の悩みを聞いてくれるだろうか」

「……いいですけれど、僕なんかでいいんですか?」

 普通逆だ。僕などに務まる気がしない。まず人生経験が違いすぎる。

「いや、君がいいんだ。子供としての君に訊きたい。

 ――娘を亡くして、むしろ逆にほっとしている自分がいることに、ふと気付いてぞっとする。私は人でなしだろうか」

 遠い目をした。

「分からん。あの子たちに何と声をかけてあげればよかったのか」

 僕ははっと彼を見た。

 と、彼はいきなり切り出した。

「私は、昔交通事故に遭ったことがある。だが、その前後の記憶を思い出せない」

 僕はその動揺を外に出しそうになってしまった。僕と似たような症状が存在するとは。

「あんな見通しのいい、事故なんて起こりそうもない道で。ただ覚えているのは、対向車が突っ込んできたこと。気が付いたら川の中から助け出されて、娘を喪っていたこと。未だに思い出せない。あの事故の瞬間、何を見たのか。どんな操作をしたのか。上の娘はよく私を責めます。本当に、その通りだ」

 僕と同じように、一部記憶のない人がいると知って安心して、つい僕は打ち明けていた。

「僕なんかもっと酷いです。実の父親のことを忘れてしまったんです。この前も、母に父のことを訊ねたとき、意識がすうっと遠くなって」

 何か拙いことを言っただろうか。急に真剣な顔になって、彼は言った。

「それは病気だ」

 裏切られたと思った。

「知花さん!」

 そのまま母を呼びに行きかねない勢いだった。

 萩原さんは同じ経験者ということで、親身になってくれるつもりらしい。しかし、だからこそ絶対に知られてはいけない。母に近い、この人には。

 突如、頭が脈打つように痛み始めた。顔を歪める。痛い、と言い出すことも出来ない。

 ――僕は誰なんだ。

 僕は確かに、母を捨てて去った無責任な男の息子であるはずだ。僕はそのことを疑わず、十年以上の月日を生きてきた。その前提が今崩れ去ろうとしている。僕が積み重ねてきた十七年間は、一体何だったというのだ?

 矛盾している。何かの間違いなんじゃないのかと言いたくなる。今の僕が、僕だ。

「そんな、ことはありません。僕は覚えています」

 僕は覚えている。覚えています。言い聞かせるように心の中で呟いた。母が憎む〝あの人〟のことも、東郷の彼女のことも、瑞山先生に昔会ったことも。何一つ、全く欠けないで、僕は覚えているんだ。

 身体の芯が急速に冷えた。

 ――お前は日生央真を父親だと思い込んでいたのに? 

 本当は何の記憶も残っていないのに?

 僕は思い出した。

 父さんは死んでしまったのだと。

「――――!」

 急に目の前が暗くなって、僕は座布団の上に横向きに倒れた。

 顔を両手で覆った。その指の隙間から見える視界がぼやけていた。発作に襲われたかのように目を見開いて、水の外に出された魚の呼吸を浅く繰り返す。そこで萩原さんが僕の異変に気付く。

「済まなかった。無理に、思い出すな。忘れているのには意味があるんだ」

 心の奥底で、真っ黒な液体の入った容器がかたかたと震えていた。苦しい思い出の入った容れ物だ。沸騰した釜のように蓋を押しのけ噴きこぼれようとしていて、何とか押さえつけようとするがもう手遅れだった。

 目が回って、頭は割れそうだった。

 しかし必死に手を伸ばす。もう少しで分かりそうなのだ。届きそうなのだ。僕は真実を知りたい。

 そう。死因が何だったかは分からないが、ともかく僕の父親は死んだのだ。

 問題はその後のことだ。

 当時の母はすっかり参ってしまって、何もない空間に話しかけたり、帰ってくることのない父のために夕食の準備をしたり、機嫌良く鼻唄を歌いながら、二度と着られることのないワイシャツにアイロンをかけたりした。

 今なら分かる。彼女はそうすることでしか、壊れそうな自分を保てなかったのだろう。しかしながら、幼い僕にはそれが分からなかった。

 僕にはそれが腹立たしく、そして恥ずかしくて仕方がなかった。僕一人、父はもう戻ってこないことを知っていた。

 どうして分からないの? 子供の僕にだって分かるのに。

 僕は母に教えてあげることにした。

『お母さん、お父さんはもう、死んでしまったんだよ。こんなのやめようよ』

 いつも優しい母が、そのときは据わった声で、僕をこう詰ったのを覚えている。

『律人。あなたのほうが、おかしいのよ』

 上も下も分からない、暴れる僕の腕が偶然将棋盤を薙いで、整然と並んでいた駒のいくつかが弾け飛んだ。勢いで一つが机の下に転がり込む。

 萩原さんが制止するように手を出して、駒を拾いに向かう。

 薄暗い机の下へ、僕に背を向けて手を伸ばす。大分奥の方まで転がったようだ。

 僕はその背後でゆらりと立ち上がった。心臓が力強く打って、血液を全身に送り出しているのを感じる。精神は沈んだように酷く落ち着いていた。それでいて、酔っているような浮遊感があって、駆け巡る血が炭酸の泡のようだった。身体が軽くて何でも出来そうな気がした。今、僕は正常なのか異常なのかよく分からなかったけれど、多分正常なのだと思う。

 将棋盤を掴んで頭の上で高く掲げた。重力に従って滑る将棋の駒が、はらはらと後ろ向きに落ちていく。中身の詰まった木の重みが上腕の骨が軋ませる。

 無防備な背中を向けて、駒を取ろうとする萩原さんは、まだ気付いていない。

 ――もう一度忘れてもらおう。そんな考えが突如頭の中に浮かんだ。

 一歩。僕は彼の頭を狙って勢いよく盤を振り下ろした。

 二歩。鋭い音が風を切り、彼がゆっくりと振り返る。その驚愕したような表情がスローモーションのように僕の目に焼きついた。彼のこめかみを盤の角が強かに打ちつけた。

 短い呻きと共に一瞬身体を強張らせ、萩原さんは横向きに倒れた。畳に赤い染みが広がっていく。

『――律人? 今の音どうしたの?』

 物音を怪しんだ母が、居間から声を張り上げた。

 はっと我に返る。

 僕は見た。

 床に倒れて気を失っている大柄な男が一人。頭からおびただしい量の血が流れている。血のついた将棋盤。辺りに散乱した駒。

 そういえばうちの家にこんなものがあった、と懐かしく思う。将棋なんて誰もやる人がいないのに、何故かあるのだ。これが彼の頭を打ったのか? 符号するものとすればこれしかない。

 酷い怪我だ。意識もないので、肩を叩いて呼びかける。

「大丈夫ですか?」

 目で交互に、彼と将棋盤の間を辿る。

 それにしても、この将棋盤はかなり背の高そうな彼の頭に落下出来るほど、高い場所に仕舞ってあったのだろうか。そうと考えるのは不自然なような気がする。

 ともかく、早く母に返事をするために、声を張り上げる。

「将棋盤が落ちてきたんだ。でも大したことないよ、僕が手当てするから」

 この人誰だろう、という小さな呟きは多分、母には聞こえなかっただろう。