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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上3-5

3-5.If Winter Comes,:西風に寄する歌

『瀧上牧師は教会にいますよ』

 この学校は、礼拝堂のことを教会と呼んでいた。

 もしかしたら入院になって、学校には来ていないかもしれないと思い、職員室で行方を訊ねたのだ。

 裏庭に出る。遠くから見た礼拝堂が燃えていた。白い漆喰の壁に、四角く開いた窓の中身がオレンジ色に染まっている。まるで教会の内側が、一個の陶芸の窯になってしまったかのように。

 ぎょっとして駆け寄るが、それは錯覚だった。

 それは夕陽の色だった。

 黄色と橙色の波長の光が混ざり合っている。この空を覆い尽くしている帳が、教会の中をも満たしているのだった。

 開かれた入口からそっと覗く。

 一歩足を踏み入れて、熱い、と思ったが、それも錯覚で、教会の中の空気は外気と同じく生温かいだけだった。

 ステンドグラスの前に立つ彼の背後で、黄昏が燃えていた。その姿が逆光で黒い。

 不吉だけれど美しかった。

 黄昏は火事に似ている。

 ここは昼と夜の境界線上の時間。

 黄昏について、こんな話を聞いたことがある。黄昏は誰そ彼時と書く。人の理性が最も弱る時間。だからこの時間は、最も交通事故が起こりやすいとも言われている。

 礼拝堂の中を落ち着きなく歩き回る彼は、背筋を伸ばして、普段と何ら変わりがないように見える。しかし頭に巻かれた真新しい白い包帯だけが、生々しくそれを物語っていた。

 あまりにも荘厳な空気に、昨日のことを掘り返すべきかと躊躇っていると、彼の方から話しかけてきた。

「――君は、梓川律人くん」

 フルネームで覚えてくれていたことに感激する。

「君が通報してくれたのだと聞きました。昨日はどうもありがとう」

 戸惑ってしまう。

 というのも、僕にはそんな記憶はないし、もしそれが本当なら、僕は犯人を目の前で見ていたということになる。

「は、はあ……」

 しかしながら、悟られないように返事をした。僕は自分の嘘を快からず思う。

「由一くんから聞きました。お怪我のほうは大丈夫でしたか?」

「ええ。皆さん大げさなんですよ。僕にとってはこんなの、怪我のうちにも入りません。もう痛みもありませんしね。お医者さまには、傷が開くかもしれないので、激しい運動はしないように言われてはいますが」

 僕は悲痛に顔を歪めた。そんな軽口を叩けるのは、本当に何もなかったからだ。そうでなかったらこんな風には振る舞えなかっただろうことは、僕もよく知っている。彼は僕を安心させようと、そんな風に言ってくれているようだった。

 彼は深い憐憫を瞳に湛えると、急にこんなことを切り出すのだった。

「お父上の件は本当にお気の毒でしたね。新聞で読みました」

 何の話だ?

 彼は僕の戸惑いをよそに、流れるように言葉を紡いでいく。

「君があのときの御子だったのですね。どうか君に神のご加護がありますように」

 そう言って、僕のために十字架を切った。

 僕はどうも、と一応お礼を述べながら、苦笑いを返す。

 はっきり言って、この状況に不快感すら覚えた。

 あまり親しくない人からのそういう言葉が、一番こたえる。

 僕も知らない事実を、さも知ったかのように語り、まして勝手に祈られるのは。誰の許可を貰って祈っている? 胃の底がちりちりと炙られるような感覚。

 しかも、本人には悪気はなさそうだ。そう思うと、何だか怒る気にもなれないし、このもやもやは自分の中で処理するしかないのだろう。

 すなわち、このような善い人を相手に怒りを覚えるのは、僕の心が汚れているからだと。

 妙に歯切れが悪い。僕を遠ざけようとしている? ふと気付く。昨日は執拗に目を覗き込んできた彼が、今日は僕と目を合わせようとしない。

 単刀直入に切り出した。

「その怪我は東郷っていう人にやられたんじゃないですか?」

 しかしその直後、礼拝堂の牧師である彼が、一生徒のことを知っているのだろうか、と思った。

 彼はきょとんとして言葉を返す。

「東郷くんがどうかしましたか?」

「知っているんですか?」

「ええ。由一さんの親友でね。教会にもよく遊びに来てくれたので、覚えています」

 でもこれは違う、と言った。

「ただ転んで頭を打ったんですよ」

「……本当に?」

 にわかに信じられなかった。転んだら、頭を打つことがあるのは分かる。

「じゃあ、なんで何もない所で転んだんですか? そんな病気があるんですか?」

 彼は答えることが出来なかった。そしてその一瞬で十分だった。

「嘘だ」

「落ち着いて」

 直後、彼は信じられないことを言った。

「彼は退学しているはずです。いるわけがありません」

「退学?」

「治らない病気で――。これ以上は僕の口からはとても言えません」

 東郷瑛良は退学していた。

 ――じゃあ、アレは何だったのだ。僕はこの二週間、彼と会っていたというのに。

 いや、それよりも。瑞山先生には東郷が見えていた。

「その人を探しているんです」

 彼を見つければ全てが分かる。あれはきっと、東郷瑛良を名乗る別人だ。そして彼は唯一、その姿を見ているのだ。

「――それを知って、君はどうするつもりですか?」

 至極自然な問いだった。

 一瞬言いよどんだ。僕は彼をどうしたいのだろう。罰したいのか、それとも。

 瀧上牧師は、含んだところのあるお茶目な仕草で、唇の前に人差し指を置いた。

「黙秘します」

 純粋で無垢な笑顔を浮かべながら。

「安心してください。犯人は言いません。君にも、教職員や警察の方にも」

「でも――」

「神の子は仰いました。『隣人を愛せよ』『悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』。僕は牧師です。神が人類の罪をお赦しになったように、僕も兄弟の罪を赦しましょう」

 埒があかない。

 どんな衝撃を加えたところで、軽く受け流してしまうような。

 僕は目眩がして、その場にへたり込みそうになった。

 傍から見ると奇妙に映るかもしれないが、僕はそっと頬を抓った。夢かどうかを確かめようとした。ちゃんと痛みの感覚がある。僕が見ているのは現実だ。それとも夢と現実の区別すらつかなくなったのか。由一や瑞山先生の言うように、僕はもう狂気の入口に立っているのだろうか。

 色々なことが起こりすぎた。

 夜、眠って夢を見ているとき、不思議で理不尽な展開になることが多い。

 黒板に落書きがされ、枯れた花壇から腕が生える。かと思えば花で満開になり、昨日まで親しくしていた友人が、まるで最初から存在しなかったかのように消えた。

 このときの僕はまだ知らなかった。

 ――後に僕はあの天才芸術家、日生央真が亡くなったことを知る。