雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上3-4

3-4.Hallucinosis:胡蝶の夢

「――あなた、寝てないの?」

「え?」

 ふいにロキに訊ねられて、僕はぎょっとしてしまった。というよりも、

「なんで君がここにいるの?」

「は?」

 あたかも水面に浮上するように、ぱっと意識が浮き上がったかと思えば、僕はロキのいる屋上にいた。つまり、瀧上牧師と別れてからどうしたのかという記憶がない。

 いや、なんでここにいるの、は彼女の台詞だろう。彼女はいつも屋上にいるのだから。

 僕の寝不足はどうやら顔に出るほどだったらしい。瀧上牧師だけでなくロキにまで指摘されるとは。彼女はともかく、クラスメイトにまで悟られたら。僕は目立たず平穏無事に暮らしていきたいのだ。

 ロキが心配してくれたのが嬉しくて、僕は軽口を叩く。

「……なんか、今日の露綺さんは優しいね」

「な、何?」

「いや、露綺さん、いつも怒ってるから、カルシウム足りてるのかなと思って。そういうときって――ごめん、今ぱっと思いつかないから、今度調べてくるね」

「余計なお世話よ!」

「そうかな……。露綺さん、笑ってた方が素敵だと、僕は思うよ」

「うっさい。そもそも、何もないのにへらへら笑ってる方が気持ち悪いでしょう」

 はあ、と盛大な溜息をついた。

「あなたといると調子狂う。さっさと目の前から消えて」

 僕は乾いた笑いを漏らした。いつも通りだ。

 

 ロキと別れた後、件の由一とばったり出くわした。

 階段の踊り場で、壁にもたれかかっている。その顔が陰になって暗い。彼は扉の開く音に顔を上げて、階上の僕に向かって声を張り上げた。

「どうしたの、顔色悪いけれど」

 これで三人目だ。そんなに体調が悪そうに見えるのだろうか。

「悩み事で眠れないのかい?」ぎくりとした。心を読まれているような気がしたのだ。

「いや、何でもないよ」

「それならよかった。確かに君は悩みなんてなさそうでいいよね」

 一瞬、ロキや瑞山先生、そして麻耶という少女のことが頭によぎったが、不幸自慢をしていても仕方ない。それはつまり、普段僕が明るく見えるという意味なのだろう。最後の元気を振り絞って笑顔を作った。

「いや、そうでもないよありがとう」

「誉めてないよ、貶してるんだよ」

 僕はへこんだ。

 彼には訊くことがある。

「あのさ――」

 由一は遠い目で窓の外を見やっていた。何かあるのか、とつられてそちらを見る。

 ぽつり、とその横顔が口を開いた。

「怖いよな。不審者が出たんだって」

「不審者?」

 聞き覚えのない言葉だ。

「そう。とうさんが何者に殴られたんだ」

 由一の話では、礼拝堂に続く裏庭の石畳で、瀧上牧師が倒れていたのが発見されたらしい。額から血を流していたので、救急車で運ばれていったそうだ。由一は今から病院に行くところらしい。

 ――裏庭。先ほどまで僕らがいた場所だ。

「……それで、彼は無事なの?」

「とうさんは死んだよ」

 ぎょっとした。

 身近な人が亡くなるほど夢見の悪いものはない。その人が会った、最後の人物になるのは。

「嘘だよ。生きてる」

 ほっと胸を撫で下ろす。

 彼は唐突にこんなことを言った。

「『胡蝶の夢』って知ってる? 文系の古典で習うんだけどね。荘子は夢の中で、蝶としてひらひらと飛んでいたところで目を覚ました。それで考える。自分は蝶になった夢を見ていたのか、それとも今の自分は、蝶が見ている夢なのか――」

「……変わってるって言われない?」

 君に言われるとなー、と眉毛を痙攣させている。

「つまり、君は夢を見たんだよ」

「夢?」

「花壇の腕が、君にしか見えてない幻かもしれない、ってことだよ」

 どうして彼が花壇の腕のことを知っている?

 目を白黒させてそんなことを考えているうちに、

「にしても、あんな話をするなんて感心ならないな」

 いきなり由一に胸ぐらを掴まれた。酷い剣幕で顔を寄せて、僕を睨みつける。

 由一は標準よりかなり小柄だ。振り払おうと思えばいくらでも振り払えそうなのに、何故か出来なかった。その執念に縫い止められたかのように、身体が動かなかったのだ。

「とうさんは巻き込まれたんだよ! 君がそんな話をしたせいで!」

 それは、いつも冷静な彼らしくない感情の発露だった。

 しかし僕にも何が何だか分からない。だから戸惑ってしまう。瀧上牧師が結局無事でいることも関係していただろう。

「はあ……」

 それがまずかった。僕の態度が火に油を注いだらしい。

「無責任なんだよ。頭だ。打ち所が悪かったら死んでたんだぞ?!」

 ようやく僕の頭に現実感が戻ってきた。

 僕のせいで人が一人死んでいたかもしれない。この世からいなくなっていたかもしれないのだ。身内が襲われた彼の怒りも分かるというものだった。

 由一は力を抜いて僕を突き放すと、

「まあ、見舞いに行ってやってよ。喜ぶと思う。多分」

 スイッチを切り替えたかのように、打って変わって落ち着いた調子でそう言って、彼は踵を返した。

 僕は力が抜けて、階段の壁にもたれかかった。

 由一は、それだけを言うために待ち伏せしていたのか?

 その執念。

 それにしても、僕のせいで巻き込まれたとはどういうことだろう。

 瑞山先生のように、水をかけられただけならまだましだった。その話を打ち明けた瀧上牧師も襲われたに違いなかった。知ってしまったから。

 とある光景が頭から離れない。

 嫌がる麻耶を、無理矢理屋上から突き落とす東郷――。

 

 東郷を探さなければ。

 今日一日、彼の姿を見ることはなかった。休み時間になっても会わなかった。昨日のことがあって、僕と顔を合わせるのが気まずいのだろう。

 彼に訊かなければならないことがある。

 君が瀧上牧師を殴ったの、って。

 しかし東郷のクラスがどこか分からない。知ろうともしなかった。

 他のクラスの人にも訊いてみるが、どのクラスの人も、うちにはそんな生徒はいない。他のクラスじゃない? と言うのだった。そうして、八つある全てのクラスを巡り終えてしまった。先生に名簿貰えば、と勧めてくれる人もいたが、僕にはもうそんな気力はなかった。

 ――東郷瑛良という人間は、路加高校には存在しなかった。