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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上3-3

まやかしの月 創作小説

3-3.Temptation of Christ:荒野の誘惑

「頭が痛い……」

 他人事のように呟いた。

 頭が痛いのは本当だ。目覚めは鈍い頭痛ともろともだった。よろよろと上半身を起こして辺りを見回すと、そこは見慣れたリビングのソファーの上。

 ああ、まただ。

 何度も記憶が飛んでいる。

 母に日生央真のことを訊ねてからの記憶がない。

 昨日のことが何か分からないかと、駄目元で備忘録代わりの手帳を開くが、青色のボールペンで雑に塗りつぶした丸が描いてあるのみ。これじゃ何も分からない。

 折角訊き出すことが出来たのに、訊いた側がこれでは。

 軽い苛立ちに頭をかく。最近、しょっちゅう記憶が抜け落ちていて、いつ寝たかといった覚えもない。気が付くと朝だった。

 ともあれ、出窓からは暖かい日差しが射しているし、デジタルの時計は起床するのに丁度いい時間を示していた。そろそろ昨日の晩に仕込んでおいた総菜を仕上げて、母を起こさなければ、学校に遅刻してしまう。

 洗面台で顔を洗い、ふと顔を上げて鏡を見ると、目の下には悲惨な隈が出来ていた。

 何も手につかないでぼんやりとしたまま、母に朝食を作ってあげ、味わうことなく食事をし、何も考えずに登校して――気がつけば学校にいた。

 今は生物の授業のようだ。壇上で先生が板書を指して、何かを説明している。進学校の生徒たちは私語をせず、先生の声だけが朗々と響いている。

 視覚についてだった。

「実験をしましょう。片目を閉じてください。腕を伸ばして、人差し指を一本、目の前でスライドさせてください。目は動かさないで、前の黒板を見てくださいね。どうですか? 指が消えるポイントがありますね」

 わ、消えた! とところどころで思わず歓声が上がる。

「視細胞は眼球の内側を遍く覆っています。しかし、一ヶ所だけその視細胞がないところがあります。視神経の束が眼球から出る所ですね。ここを乳頭といいます。生理的にものが見えない点。これがいわゆる盲点と呼ばれているものです。

 ――視界に灰色の点がありますね? ある人は異常ですから眼科に行ってください」

 思わず教室に笑いが起こる。

「普段灰色の点なんて見えませんね。それは私たちの目が、周りの風景の情報から、空いた視覚を補っているからです。いわば脳が勝手に存在しない景色を作り出している。私たちは誰もが、脳に騙された世界にいるのです」

 ……何を言っているのだろう。

 授業の内容もろくに頭に入ってこず、放課後になる。僕はとある場所に行こうと決めていた。

 僕は、瑞山先生に嫌がらせで水をかけたのは、東郷だとほぼ確信していた。

 瑞山先生はこの学校に来たばかりで、生徒の顔が分からないから、誰がやったのか知ることが出来ない。

 ロキや東郷は瑞山先生に近付くな、と言う。しかも理由を説明してくれない。

 彼らは麻耶について何かを隠している。そしてそれを僕に触れられたくない。真実を探ろうとする彼に僕が接触することで、僕が真実を知ってしまうかもしれない。今まで赤の他人だったのに、東郷は僕と親しかった振りをしているのかもしれない。

 ロキや東郷は、日生麻耶の唯一の友人だった。しかし、彼女の死後は一転、関係を否定するようになる。

 気の狂っているという彼女を疎ましく思った末の、自殺に見せかけた犯行。シナリオとしてはしっくり来る。屋上の縦格子は金網と違って登るのが相当難しい。あそこから転落するとか自殺するとかいうのは無理がある。

 リャノーン・シー。

 まるで麻耶というのは妖精のようだ。

 存在しない生徒。存在してはいけない日生央真の子供。そしてその存在を肯定する人がいれば、否定する人もいる。信じなければ見ることは出来ない。

 飛び降りた麻耶の死体は消えてしまった。由一を始めとする生徒会の数人が、彼女が落下するのを見た。

 もし仮に、彼女が生きているとして、失踪しているとしたら――彼女の親は、日生央真は、何故彼女を捜そうとしないのか。

 ……それよりももっと酷い想像がある。

 彼女は殺されたあと、見つからないようにどこかに隠されてしまったのではないか? 

 見極めなければならなかった。その腕は一体何なのか――あるいは、誰の死体なのか。

 見覚えのある石畳の道を行き、例の花壇の場所まではあっという間だった。

 恐る恐る歩みを進め、立ち止まった目の前に、到底信じられない光景があった。

 同じ花壇。――しかしあの腕が、跡形もなく無くなっている。

 それどころではなかった。何も植えられていなかったはずの花壇を埋め尽くしていたのは、色鮮やかに咲き乱れた青色の花だった。

 ――勿忘草が咲いていた。

 僕は放心していた。

 あの花壇は、花を植えた普通の花壇になっていた。こんなときなのに心を奪われるほど美しい、と思った。

 しゃがみこんでその瑞々しい花弁に触れ、ようやく僕は現実に引き戻された。

「違う……」

 まるで最初からそこにあったかのようにして咲いていた。こんなはずじゃなかった。僕が見たときは確かに、花壇から一本の腕が出ていたのだ。それに、花がこんな数日で咲くわけがない。

 死んだ裏庭が、今は命に溢れていた。まるで僕が見たものが、ただの幻であるとでも嗤っているかのようだった。

 何者かがその腕を隠し、その上探せないように、花壇一面に満開の花を植えたに違いない。

 悪意の花――そう称するのがふさわしい。何も知らない人を連れて、花の咲いた地面を掘り返し始めたら、こっちがおかしいと思われる。

 一歩遅かったのだ。

 その名前を冠した花が、僕を責めている気がした。

 僕は、彼女を忘れるべきではなかったのだ。

「ごめんね、麻耶」

 僕は膝をついて、目を閉じ、花壇に手を合わせた。

「――そこに麻耶さんはいませんよ」

 急に後ろから話しかけられたので、僕はぎょっとしてしまった。ここには僕一人だけだと思っていたからだ。

 振り向くと、瀧上牧師がいた。

 黒の祭礼服に身を包んだ、柔和な眼差しをした長身の男性。

「た、たたきうえ先生!」

 あ、『た』が一つ多い。

「叩き上……?」

 と、僕の失礼な発言に困惑顔である。

「はて、鰹のたたきみたいなものでしょうか」

 と首を傾げている。それから微笑んで、のんびりと口を開く。おっとりとした話し方は普通の人よりも一回り遅いのか。「美味しそうですね。お夕飯に食べたくなりました」

 それを聞いて、僕もお腹が空いてきた。

「牧師さんもご飯食べるんですね……」

 そう口にした直後、僕は何を言っているのだ、と思った。先ほど不意打ちで話しかけられたので、動揺しているのだ。

 でも本当にそんなイメージがある。仙人ではないが、露でしのげそうだ。生物学的に、僕たちと全く同じ人間であることは、頭では理解しているのだが、中身が全くの別物というか。まず生活感がなくて、例えばスーパーで買い物しているところを想像出来ない。息子の由一のほうがまだ俗っぽさがある。

 彼は由一の父親だ。

 左手の薬指に指輪を嵌めているから、既婚者だと分かる。銀色の、指に一周巻き付けただけのシンプルな指輪。石はついていない。

 本人を前にして、改めて思う。彼には気が引ける。

 人間とは、清濁併せ呑む存在であると思う。この僕にもいい心と悪い心があって、決して善人とは言えない。それが普通だ。その弱みをお互いに知っているから、僕たちは心を許して付き合うことが出来るものだ。しかしながら、彼には善性しか感じなくて、異様だ。水清ければ魚棲まず。清らかすぎる水は、すなわち生き物すらも生きていけないほど過酷だ。

 僕は彼の発言の真意を知る。

 ああ、そうだ。花壇の下に死体が埋まってるなんて、そんな非常識的な話はないのだ。

 瀧上牧師は僕の発言に一瞬目を丸くし、唇に穏やかな微笑みを浮かべた。

「君はおかしな人ですね」

 何故か嫌みには聞こえなかった。

 革靴が石畳の上を軽やかに踏みながら、一歩踏み出す。

 その度に、黒の祭礼服の裾が風をはらんで、大仰に翻る。踝まで届く、実用を無視したデザインは、服というよりも衣装と言った方がしっくりとくる。胸元には黒曜石をあしらった小さなロザリオ。

 黒。連想したものがあって、僕は訊ねていた。

「牧師様の服って、なんで黒いんですかね」

 素朴な疑問だった。

 不安や不吉を感じさせる。黒、というと悪とか負のイメージが強いのに、どうして聖なる職業の人が、黒を身につけているのだろうか。

「考えたこともありませんでした」

 でも顎に手を当て、彼なりに真剣に考えてくれる。

「神秘的な感じがするでしょう。なんとなく人を寄せつけない感じがします」

 それは僕も同感だった。色相を持たない無彩色の白と黒は、死に通じているというか、浮世離れした印象を受ける。

 だが続けて、意外なことを言った。

「それに、黒色は優しい気もします。絵の具も色々な色を混ぜていったら、濁って黒になってしまうでしょう。黒は全ての色を内包しています。それで、守られているという感じがします。

 ――例えば、画家のオディロン・ルドンは、幼少期に孤独な経験をしましたが、黒を使うことで恐怖や不安を克服していったといいます。六十歳になって、色彩が花開いた」

 彼の口から画家の話を聞くことになるとは思いもしなかった。意外だ。僕も絵を描く母がいるので、彼をより身近に感じた。

「美術のことに詳しいんですね」

 彼は照れたように笑う。

「門前の小僧です。受け売りですよ。親戚が画家なもので」

 それにしても。

 ロキは攻撃的に見えて、傷ついているのだろうか。黒を使うことで、心を癒そうとしているのだろうか。

 詮索することはやめにしよう、と思った。これ以上彼女の心を、こんなカンニングみたいな方法で知りたくないと思った。

「――でも、僕は聖職者が黒い服を着るのは、これが鎧だからだと思います」

「鎧?」

 しっとりと目を伏せ、胸に手を当てる。

「親身になって誰かのことを理解し、探ろうとするときには、その人に深く共感しなければならないんですよ。心に闇を抱えた信者さんの話を聞いていると、時々自分もその闇に引きずりこまれそうになることがあります。心を共鳴させているうちに、自分もそれに同化してしまう。相手の心と自分の心が区別出来なくなるのです。そのようなことから自分を守る方法も、理論的にはいくつかありますが、どれも完全ではありません」

 病んだ魂は、周りの人を徐々に病ませる。そんな人の話を一日中聞いていたら。どうかしてしまうに違いない。

「ぶっちゃけたことを言うと、他人の話なんて真剣に聞いちゃいないです」

 僕は唖然としてしまった。彼は平然とこう言う。

「他人が自分の悩みをいつまでも覚えている方が、気持ち悪いとは思いませんか?」

 確かに、それもそうだ。

 僕の視線に気付いて、指を一本、唇の前に置いて、お茶目にこう付け加えた。

「ここだけの話ですよ」

 彼は信用出来る。聖職者というと綺麗ごとはいくらでも言えるのに、率直でごまかしのないようなところが逆に好感を持てた。

 彼になら話してもいいかな、という気になった。だから今まで誰にも打ち明けなかった、あの左腕の話をした。この秘密をもう僕の中だけに仕舞っておけなかった。王の耳の秘密を知った床屋のように。

 あの恐ろしい体験を誰かに話さずにはいられなかった。

「突拍子もないことなんですけど、話してもいいですか?」

 路加の杜で、枯れ草に紛れた人間の腕を見つけたこと。それがどうやら死体でありそうだということ。

 しかしながら今日来てみると、その腕は跡形もなく何者かによって隠され、その上探せないように、花壇一面に満開の花が植えられていた。元々この花壇には枯れた花しかなかったはずなのだ。人工的に植えられたこの花が、他でもない証拠なのだ。

 ふと彼を見ると、悟った老人のような優しい目で凝っと僕を見つめ、話を黙って聞いている。

 口を開く。

「――そうですか。それは申し訳ないことをしてしまいましたね。この花を植えたのは僕です」

「え?」

 思わず声を上げてしまった。

 彼は、花壇を背に腕を広げた。

「青くて綺麗な花でしょう? 僕の好きな花です。勿忘草には、こんなもの哀しいエピソードがあるんですよ。

 この花は英語でforget-me-notといいます。ドイツのとある騎士と乙女が川辺を散歩していると、乙女が可愛らしい花を見つけました。騎士がそれに気付いてその花を取ってあげようとしたとき、足を滑らせて、河に落ちてしまいます。彼は最期の力で花を岸辺に投げ、『私を忘れないで』と叫んで流されていきました。乙女はその約束を守り、その花を一生身につけ続けたそうです」

 彼の本意とは違うだろうが、僕は思った。その女性はひどく罪悪感に苛まれて生きてきただろう。自分がその花が欲しいとさえ言いださなければ、彼は死ななかったのだから。

 それにしても、この花を植えたのは瀧上牧師だったのか。勝手に断定して悪者扱いしてしまったことを申し訳なく思う。

「――掘り返してみましょうか」

「え?」思いもよらない提案に、素っ頓狂な声を上げてしまう。「いいんですか?」

「確かに、実物を見ずに君の話を信じることは出来ません。でも、確かめることで君の不安が取り除けるなら、僕は手伝いましょう」

 とんでもない展開になった。

 その後、僕らは納屋に行き、大きなスコップを出してきた。それで、勿忘草の根を傷つけないようにすくい上げ、リヤカーに移す。そんな作業をただひたすら、延々と繰り返す。

 いつ、このスコップの先が腐った死肉に触れるのか。そう怯えながら。

 しかしそんな僕の考えとは裏腹に、あの例の左腕は一向に出てこない。途端に僕が見たものが幻覚、あるいは錯覚だったんじゃ、と不安になってくる。

 瀧上牧師も汗を袖で拭いながら、一心に作業をしている。土作業の似合わない人だと思った。その姿が、まるで墓穴を掘っているようだ、と思った。

 僕は急にやりきれなくなって、言った。

「――もういいです」

「でも……」

 彼だって、そろそろ僕を胡散臭いと思い始めているだろう。まだ根気強く続けようと言ってくれるのを断って、

「ちょっと休憩しませんか」

 そこらへんの建物の出っ張りに座った。僕も彼も泥だらけだった。目に滑り落ちてきた汗を拭う。ほっと一息ついた瞬間、ある考えが僕の中に浮かんだ。

 ――あれ?

 そもそもあの日、どうして僕は裏庭なんかに行ったのだ?

 前提としてだ。あんな所に用事なんてないのに。それにあれは何日だ?

 切断されたフィルムを不自然に繋ぎ合わせたように、唐突に差し挟まれた記憶。まるで支離滅裂な夢のような。

 ――気がつくと、瀧上牧師が僕の顔を心配そうに覗き込んでいた。

「どこか夢で見た内容と混同しているのかもしれません。酷い顔です。休まれては?」

「ありがとうございます。……でも学校には、行かなきゃ」

 彼の気遣いは有り難いが、学校を休むわけにはいかない。こんなことで学校をサボるなんて言語道断だ。僕は目立つようなことはしたくない。普通がいいのだ。

「――先生。どうしたら悪魔に勝てますか? 何が起きているかさっぱり分からないんです」

「君は悪魔に唆されているのですか?」

「はい。僕と――僕の知り合いが」

 この学校の外の、傍から見れば非常にファンタジックなやり取りに見えただろうが、僕らは至極真剣だった。

「イエス様は四十日間荒野に留まられ、サタンの試みに遭いました。サタンは言いました。『あなたが神の子なら、この石をパンに変えてみなさい』イエス様は答えました。『人はパンのみにて生きるにあらず。神の言葉で生きるものであると書いてある』と。

 またこういう日もありました。『ここから飛び降りてみなさい。あなたが神の子なら、天使が降りてきて支えてくれるだろうと書いてある』イエス様は答えました。『主を試してはならないとも書いてある』と。

 サタンはイエス様を高い山に連れていき、そこから繁栄する国々を見せました。『わたしを崇めるならば、世界を与えよう』イエス様はこう答えます。『サタンよ退け。ただ神に仕えるのみ』と」

 それは『荒野の誘惑』という、新約聖書中の有名なエピソードだった。

 当時の老牧師様の説教を思い出す。瀧上牧師の上にもう一人、年配の主任牧師がいて、彼は論理的なタイプで、曰く、ここで悪魔はでたらめに誘惑しているのではなく、実は聖書に書かれている言葉を巧みに引用しているのだと。それもそのはず。悪魔とは堕天使――元々天使だったもので、聖書については知りすぎているほど熟知している。現実世界でいえば、弁護士や検事が凶悪犯罪者になるようなものだ。聖なるものと邪なるものは紙一重なのだ。

 悪魔とは、翼をもがれた天使だという。

 閑話休題

 彼らは、細部の言葉をすり替え、言い換え、自分たちに都合の良い、邪な解釈に持っていく。聖書というのは、平たく言えば、そこに書いてある教えを実践すれば天国に行けるという書物なのだが、その言葉は付け加えても、減らしてもいけない。善くあろうとして聖書をなんとなく覚えている者こそ危ないのだ。――それを上の空で聞きながら、まるで推理小説叙述トリックみたいだなあ、と思った覚えがある。

「――しかしながら、そこまでする必要はありません。僕たちはイエス様のようにはなれません。

 ただ、人間でありなさい。悪魔と戦うなら、人間でなくてはね」

 チェロの調べを思わせる、温かみのある低い声が、僕をいくらか落ち着かせた。

「良かったら話してもらえますか? 君が一体、何に惑わされているのか」

 僕は話し始めた。

 僕が見たのは麻耶の死体だと思うということ。僕は麻耶の友達だったそうだが、それを思い出せないこと。

 ふと彼を見ると、彼には珍しく目を丸くしていた。牧師様でもそんな顔をして驚くことがあるのか。驚いた顔が酷く幼く見えた。

「ああ、麻耶さんは娘です」

「え?」

 思考が止まった。

「僕の娘です。瀧上麻耶」

「日生央真さんの娘じゃないんですか?」

「誰が言ってたんですか、そんなこと」瀧上牧師はちょっと眉をしかめた。

「えっと」

 僕は閉口した。

 麻耶は日生央真の娘のはずじゃ。実の父親を名乗る人物に、まさか都市伝説ですなんて言えるわけがない。でも考えたら噂程度の話で、根拠だってない。

 ただ、彼の娘とだけは、夢にも思わなかったのだ。だって、

「由一くんが――」

 由一が、まるで他人のことのように言うから。

「全く、あの子は……」

 瀧上牧師は頭を抱えた。他人の家庭の事情だが、何だか同情してしまった。この様子を見ると、度々他愛ない悪戯に手を焼いているのかもしれない。

「でも由一くんは? 麻耶さんは僕らと同じ学年だって。歳が合わないんじゃありませんか?」

「由一さんとは双子なんですよ」

 麻耶は日生央真の隠し子ではなく、瀧上牧師の娘。そして双子だから、由一と同じ学年であるということらしい。

 その柔和な目が親の眼差しをしていた。

「そうですか。君は麻耶さんのお友達だったんですね。君の名前は?」

梓川といいます」

 瀧上牧師は腕を組んで唸った。

「……どこかで聞いたことがあるような気がします。――下の名前は?」

「律人です。自律の『律』に『人』と書いて」

 視界の端に、青い蝶が羽搏いていた。珍しく美しい。

 ふらふらと目で追う。瀧上牧師が何か話しているが、よく分からない。

「――いい名前ですね。名前は親からの最初の贈り物です。大切になさい」

 蝶は、魂のシンボルだという。

 虫の報せ、という慣用句がある。きっとこれは麻耶の魂だろうか。僕らが土を掘り起こしたから。

 お父さんにお別れを言いに来たのかな。

 青い蝶は、彼の背中に留まると、そのままじっと動かなくなった。それにしても、彼が壁にもたれかかったら、潰されてしまうかもしれない。そしたら、彼のがっかりする顔が容易に想像出来た。

 僕は、青い蝶に手を伸ばして――、

 

 手の平に違和感があった。開く。

 手の中で破裂し、粉々になった青い蝶の翅が張りついていた。

「――!」

 吹いてきた風に巻き上げられ、翅は飛んでいった。