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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上3-2

まやかしの月 創作小説

3-2.Leannán-Sídhe:リャノーン・シー

 五月二十五日、水曜日?

 絵の中の乙女と話したことは、夢だと思い込むことにした。

 あれはきっと、絵の中に棲む魔物だったのだ。

 そして彼は魂を額の中に置き去りにしてきてしまったのだと。彼は既に正気ではなかった。

 一歩間違えれば、攫われたのは僕だったかもしれないのだ。攫われなくてよかった、というべきか。

 というわけで、今日は水曜日だと思う。自信がなかったので、何度もカレンダーを見て確認した。日付の感覚というものは曖昧なものだ。

 美術室の瑞山先生を訪ねる。相変わらず部員の姿はない。

「ごめんください――」

 机は授業の配置のまま、彼は黒板の傍の本棚の近くで、何やら美術の資料集を熱心に読んでいる。黒板には板書が残されたままだが、いつもの美術の先生の筆跡とは違う。早いもので、彼が来て一週間になる。二週目からはいよいよ実習生が授業をするのだ。

「わ、びっくりした」

 集中していて、僕が目の前に立っていることにも気付かなかったようだ。

「前言ってた子供のときの絵、持ってきました」

 お、と数日前のやりとりを瞬時に思い出し、資料集を傍らに置くと、貸して、と手の平を出す。

 僕は適当な机に鞄を置き、取り出した画用紙を手渡した。

 本当は見せるかどうか迷った。自分の絵を見せるということは、自分の心の中を開いて見せるということだ。瑞山先生とは浅い付き合いで、そこまで踏み込んでいいものか、と考え込んでしまう。

「いつの絵?」

「幼稚園のときかな。日付が書いてあります」

「あ、ほんとだ。えー、幼稚園児にしては上手いなあ……」

 美大生の彼がそう言うのはお世辞だろう。

「ふうん」

 彼の目が真剣味を帯びて細くなり、値踏みをするように紙の上に視線を走らせる。

 僕は彼の隣で恐縮して立っている。ちゃんと上手い人に見せるような絵ではない。こうしているだけで顔から火が出そうだ。

「もっと、こう、伸び伸びと描けないものかね」

「はあ、すみません」

「君が謝ってもしょうがないよ」

 瑞山先生が笑う。確かに今の僕が詫びても仕方ない。これを描いたのは子供の僕なのだ。

 青いクレヨンが好きだったようだ。全面的に青で塗りつぶされている。輪郭線がしっかりと描かれ、そこに色を塗っている感じで、几帳面さを感じる。彼がもっと伸び伸びと描け、と言うのも頷ける。子供に期待する絵としては固すぎる。

「どうやら君は、お母さんに厳しく躾けられたみたいだね」

「そうですか?」

 僕は訝しく思った。

 というのも、母は滅多に僕を大声で叱りつけたりしなかったし、叩かれたことだって一度もない。それどころかむしろ頼りなくて、こちらが守ってやらなければという気持ちにさせる。父はどうかは知らないが。

「普通ですよ」

 そんなことまで分かるのか、と感心していると、

「ふうん、ありがとう」

 と、それだけ言って、絵を僕に返した。拍子抜けした。

「え、あの、これだけですか?」

「俺は『見てみたい』と言っただけで、診断してあげるとは言ってない。俺はただの美大生であって、この道の専門家ではないしね」

 確かにそんなことを言っていた気がする。何か僕の過去が分かると思ったのだが……。

「それに、俺が思ったことは、君がこの絵を見て感じたことと同じだと思うよ。現代芸術に特定の見方はないってことだよ」

 と、上手いのか上手くないのかよく分からないことを言ってはぐらかされてしまった。

 僕はちょっと訊いてみたいことがあった。どうしてもというほど切実なものではなく、世間話程度のものだ。

「あの、芸術ってよく分からないというか、先生的に、こういう見方、ていうのありますか?」

 是非とも美術関係者がいたら訊いてみたかったのだ。

「えー、そんなの簡単だよ。覚えておいて。芸術というのは、俺はね、人をあっとびっくりさせるものだと思ってるよ。今まで誰も思いつかなかったものを思いついたり、そこにあるのに誰も気付かなかったものを示す何か。誰もやらなかったことをやったもの勝ち。けれどそれも、一回やったら使い古されてく。

 芸術は、生まれては、生まれた瞬間に死んでゆく。子は親を殺すものだ。じゃあ殺されたくない親はどうするのかっていうと、サトゥルヌスのように、生まれてきたそばから呑み込んでしまうか、そもそも母親の方に変な虫がつかないように、青銅の塔に閉じ込めてしまうか」

「サトゥルヌス?」

 聞き慣れない単語だ。

ギリシャ神話の神様で、元は自分の父親を殺して王座についた。けれど自分もまた自分の子供に殺されるだろうという予言を受けて狂気に取り憑かれ、産まれた子供をそのそばから呑み込んでしまう。因みに、最後に生まれてきたのが、かの全能の神、ゼウス」

 と言って、瑞山先生は資料集を捲る。

 『我が子を食らうサトゥルヌス』

 フランシスコ・デ・ゴヤの作。目を剥いた全裸の老爺が、頭と右腕のない子供の、血まみれの左肘を引っ張り噛み砕こうとしている。その描写も骨張っていて固そうだ。

「全ての男の子は父親を殺して一人前になる。親と子は互いに殺し合っているんだ。もちろん本当に殺すんじゃない。精神的な意味でね」

「そんなこと言わないでください。悲しいです。全ての親子がそうではないと思います」

 その絵を見ると、尚更そう思う。

「近代以前の絵画の方がよっぽど難しいと思うけどなあ。アトリビュートとか、図像学とか、暗喩とか、約束事がたくさんある。それに比べて、近代絵画は感じるだけでいい。簡単だよ」

「アトリ――?」

「平たく言えば持ち物のことだよ。例えば、キューピッドなら黄金の弓矢。これを手がかりに、絵の中の役柄を特定することが出来るんだ。図像学や暗喩っていうのは、例えば『蝶』はギリシャ語でpsycheといって、蝶の他に『魂』『息』という意味があるから、魂のシンボルとして用いられる。花から花へと飛び移るところから、男に依存しない、移り気で気まぐれな女性を意味することもある」

 ギリシャ神話といえば。

「どうして〝芸術の神様〟はいないんだろう」

 ふと気付いたことがある。神話には、音楽の神様はいるのに、絵画の神様はいない。

「日生央真さんは、どうして神様って言われているんですか?」

 僕は以前、彼が日生央真を〝芸術の神様〟と呼んだことを覚えていた。

 彼の絵は、何だかただの絵じゃない気がする。すごく現実に近いというか……。圧倒的な技巧と存在感がそう見せるのだろうか。

「神様ねえ。素晴らしいよねあの人の絵は」

 一瞬、瑞山先生も彼のように豹変してしまうのではないかと身構えたが、彼は落ち着いていた。

「それは画家一人一人が神様だから。他に神様なんていらないのさ」

 今度は瑞山先生から切り出した。

「ところでさ、最近の高校生って何勉強してるの?」

「そうですね――」

「『絵仏師良秀』だ。なつかしー」

 と、瑞山先生は僕の許可を得ず、もう鞄から教科書を出して読んでいた。

 古典の教材。『宇治拾遺物語』の一節。

 あらすじはこうだ。

 仏を描くことを生業とする良秀という男が、家が燃えて、家財も妻子も炎の中にあるのに、ああ、炎はこういう風に燃えるんだ、と笑っている話。

 僕は生理的に受け付けなかった。家も家族も燃えて、笑っていられるのは異様だ。

「でもリアルに描くためなら、俺も見ちゃうかもしれない。芸術家なんて、そういうクズばっか。他人の不幸すら芸の糧にする」

 クズというのは言いすぎだと思うが……。

 そう控えめに抗議すると、

「まさか小綺麗な絵を描く作家が、性格も綺麗だと思ってる? そんなの、悪役を演じてる俳優さんが嫌みな人間だと思ってるのと同じくらいの暴挙だ。危ういな。

 芸術ってアウトプットは綺麗だけれど、実はそれは、芸術家の中に渦巻いている黒くてどろどろとした何かが昇華されて、それになるんだ。まるで泥の中に咲く蓮のように。最初から綺麗なものがもっと綺麗になるもんだって普通の人は勘違いしてるけど。芸術には、そういう暗い谷底みたいな側面があって、ちょっと気を取られていたら、すぐにそこに転がり落ちてしまうんだ。だから全ての芸術家は、そうならないように、理性の手綱を握っている。」

 瑞山先生はパイプ椅子に腰掛けると、腕を頭に回して背もたれに寄りかかった。そして急にこんなことを切り出した。

「ねえ、外国の言葉って女性名詞とか、男性名詞とかあるじゃん。『船』が女性名詞だっていうのは有名だよね。とするなら、『芸術』っていう言葉は、俺は女性形であるように思うんだ」

 どういう風の吹き回しだろう。

「そうだね、人は自分が思う以上に他人のことなんて気にしてないよ。でも芸術というのはね、たとえ気まぐれで軽薄な人々が目の前から立ち去っても、芸術だけは裏切らないんだ。〝彼女〟だけはずっと一緒にいてくれるんだ。

 だから芸術家は何だってする。彼女を満足させ、彼女に美しさを与えるために。人によっては技術を磨くことによって。またある人は画材にお金をかけることによって。たとえ法に触れる行為でも。売れてる作家はそこのところ、うまくバランスを取ってる。のめり込みすぎないように、直前のところで綺麗にまとめるのが上手い。ピカソみたいに〝彼女〟があんまりわがままだから、芸術に愛想つかして、芸術をぶっ壊した人もいるし」

 そうだ、と椅子を軋ませた。

「〝リャノーン・シー〟だって、男にしか取り憑かないっていうじゃん」

「リャノーン・シー?」

 突然知らない横文字が現れて、僕は訊き返す。

「芸術家に霊感を与えてくれる妖精だよ。尽きない創造性を得るけれど、命を吸われて夭逝する。その姿はとても美しいそうだけど、彼女の気に入った男にしか見えない。この芸術の街にはそんな妖精が本当にいて、リャノーン・シーに憑かれた画家は、人のものじゃない絵を描く」

 瑞山先生は続ける。

「それでね、気になって調べてみたんだ。フランス語で、芸術は《arte》って言うんだけど、結局のところ、性別が不定なんだって。だから男芸術家にとっての女に、女芸術家にとっての男になって、俺たちを誘惑するんだろうな」

 僕は思考停止していた。

 何だか深いというか、壮大というか。この話を理解するためには、僕も同じ芸術家でなければならないと思った。

「――それにしても、国語の教材って妙に記憶に残ったりしない?」

「なんとなく分かります」

 同感だったので頷く。

 友人の持っている蝶の標本を潰してしまう話。主人公の心情はよく分からなかったけど、標本を粉々にするシーンが印象に残っている。もう一度読みたいという話は沢山あるが、そういうものに限って題名を忘れてしまうのだ。

「そうだ。あの都市伝説の続きね」

 この前、瑞山先生が言いかけていたことだった。

「麻耶という子が、その日生央真の隠し子なんじゃないか」

 僕は、似たような話を由一に聞いたことを思い出していた。

「一年前に屋上から飛び降りて亡くなった子ですよね」

「違うよ。彼女は確かに屋上から飛び降りた。ただ、一つだけ不審なことがあったんだって」

「不審?」

「それがね――飛び降りた少女の死体は、消えてしまったというんだ」

 一気にホラーである。

 そう思った矢先、美術室の引き戸が開け放たれて、飛び込んできた人影があった。

「おい、どういうつもりだよ!」

 どうしてここに東郷が。ずかずかと歩み寄り、瑞山先生の胸ぐらを掴む。

 彼は何故そう絡まれるのか分からず、手を上げ、目を白黒させている。

「ごめんごめん、あのときはほんと悪かったって」

「律人もだ。二度とこいつに近づくな」

「でも……」

「これは警告だ」

 ほぼ強引に僕を美術室から引っ張りだし、乱暴に引き戸を閉めた。

 瑞山先生に声が聞こえなくなったところで、東郷は僕の肩を掴み、揺さぶる。

「お前、いい加減気付けよ。瑞山雫綺に担がれてるんだよ。墓はどこだ? 架空の人間が死んだ。それだけのこと。真に受けるんじゃねえよ」

「そっちこそ何なんだよ」

 廊下の柱を殴りつけた拳が、熱を持って痛んだ。

 僕は怒鳴り返していた。

 このようなとき、僕は確かにあの母親と血が繋がっているのだということを実感する。感情的になると自分の制御が利かなくなり、普段の僕からすると到底導き出せないような行動に出る。

 何が何だか分からなくて混乱しているのはこっちなんだ。

 感情が爆発し、自分に起きている症状に対しての苛立ちや不安も、一まとめにしてぶつけていた。

 東郷のうろたえた風な顔が視界に入ったが、僕は止められなかった。

「ありがとう。でも、自分の付き合う相手くらい、自分で選べるよ」

 彼には悪いことを言うが、大体僕と東郷は友達でも何でもない。

 いきなり知らない人から馴れ馴れしくされて、不安だった僕の気持ちが分かるだろうか。

 記憶がないからといって、僕を好きなように出来ると思ったら大間違いだ。柄にもないが、随分と見くびられているものだと思った。想像力が足りない。この現象とは長い付き合いで、彼らが思っている以上に、僕は騙されない。記憶がないことを利用して、あることないことを吹き込もうとしてくる人には、やはり怒りを覚えた。麻耶のことを詮索するな。瑞山先生に関わるな。東郷もロキもそう言う。しかしそれは僕が決めることだ。

 泣き笑いのような表情で彼は僕を見上げる。

「お前、変わったな」

 そうか、と僕は彼の言葉を淡々と受け止めていた。彼がそう言うのならそうなのだろう。僕は、昔の僕とは違ってしまったのだ。

「変わらないものなんてないんだって」

 

 東郷は普段の彼からは想像出来ないくらい驚いていて、そんな彼を見ていると、僕を突き動かしていた熱が急に冷めて、代わりに心を満たすのは強烈な後悔と自己嫌悪だった。

 家に帰ってきた僕は落ち込んでいた。庭ではしゃがみ込んだ母が、自分の世界に浸って、幸せそうに鉢植えを眺めている。

 思いつきがあって、僕は立ち上がり、爆弾を投下した。

「母さん」

「何?」

 母が手を止めて振り向いた。

 大好きな植物と触れ合って機嫌の良さそうな顔に、少し躊躇う。

 彼女は僕が父親のことを覚えていると信じて疑わない。彼女にとってあの人の話題は地雷でもある。もし見当違いなことを言って逆鱗に触れでもしたら。

 しかしここで訊ねなければ、僕は一生ここから前に進めないままだ。

「僕の父さんは誰なの?」

 母は驚いたような顔をしていた。いけないと思いながらも、僕の口は勝手に質問を続けていく。

「日生央真さん、なの?」

「忘れちゃったの?」

 質問に答える前に――小首を傾げて、彼女はそう訊ね返した。

 無垢な少女のような顔をしていた。これ以上は踏み込めない。踏み込もうとすると、いつもこの壁に阻まれてしまう。それを除くには、こちらの嘘を暴かなければならない。

 大粒の涙が流れ落ちそうな、その表情を見ると、記憶がないことが酷い罪のように思われた。罰を受けなければいけないとまで思った。

 それが嫌な僕は言い訳まで口にしていた。

「ち、違う……しっかり覚えてるよ母さん」

 嘘の上塗り。

 母はほっとしたような顔で言う。心を病んだ聖女のように。

「そうよね」

 僕はついに、本当のことを訊けないでいる。

 僕が黙り込んで俯いていると、

「日生くんは……」

 彼女はむしろ、嬉々として口を開いた。