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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上3-1

まやかしの月 創作小説

3-1.A Fanatical Believer:狂信者

 五月二十三日、月曜日の続き。

「館内への傘の持ち込みはご遠慮ください」

 受付の係の人にそう言われて、気付いた。

 ロキを手伝った後、僕は記念館に行った。

 向かいの蒼美大の敷地内にある、鉄筋コンクリート造のお洒落な比較的新しい建築。モダニズム建築とかいうやつだと思うけれど、生憎詳しくない。蒼美大の創立六十周年を記念して建てられた、美術館とカフェを内包する小さな建物だ。

 大学の正門を抜けると、奥に見える大講堂の前に、左右対称な青い庭園がある。

 勿忘草だ。

 青い可憐な花をつけている。

 元々この地に自生していたもので、この辺りでは初夏の風物詩だった。この青い花が風に揺れる様子から、そこが蒼浪大学と呼ばれるようになったという説まであるほどだ。

 雨は去り、何事もなかったかのような気持ちの良い晴れ空が戻っていた。

 早くも乾き始めた白いタイルの上を、道なりに進んでいく。地面を渡る音は小気味いい。

 雨の後には全てが美しく見える。

 熱せられた地面から立ち上る空気は、雨の気化熱に冷やされて清々しい。連日のうだるような暑さからは打って変わって快適だ。空気中のちりが雨によって洗い流されたかのように澄んでいる。

 記念館の受付で学生証を提示しようとしたとき、そう注意されたのだった。美術館では棒状のものや、あまりに大きな鞄は持ち込めないことになっている。誤ってぶつかったりして、絵が傷つけられることのないようにだ。

 美術館とは不思議な空間であると思う。

 約束事が多い。他にもペットボトルなどの液体の持ち込みが禁止されている。以前そのような事件があったのだろうか。それから、ボールペンやシャーペンが駄目で、メモは鉛筆しか使ってはいけなかったりする。なんでボールペン禁止のマークがいつも万年筆の絵なのかは不思議に思っているのだが。人よりも物が偉いのだ。

 ともあれ、濡れた傘を傘立てにロックして、引き換えに鍵を持っていく。

 建物の中に入ると、外とは打って変わった、コンクリート特有のひやりとした空気に包まれる。

 記念館の常設展では、蒼美大ゆかりの画家・彫刻家の作品が集められている。卒業制作を買い上げたものだ。

 僕が記念館を訪れようと思った理由がある。

 少しだけ気になっていたのだ。

 僕の父親は誰なのだろう。

 梓川律人という人間は、父親が家を出て、母親と二人きりで暮らしている。母は美大出身で、夫のことを酷く恨んでいる。

 母は今でもあんなに彼を愛しているのに、どうして彼は彼女の元を去ったのだろう。大人の世界は愛だけでは駄目なのだろうか。

 口には出さないけれど、僕は父がいなくて寂しい。憎むなんてとんでもない。いつも一目会いたいと思っている。

 父はどうして会いに来てくれないのだろう。

 僕が嫌いなのだろうか。

 子は鎹と言う。僕は、あなたたちの鎹にはなれませんでしたか?

 日生央真の愛人と私生児の話。僕の家庭の事情。それらが重なって。

 確立は低い。けれど、もしも、もしもの話だ。仮に、その絵に描かれているのが僕の母だったら、と期待してしまうのだ。この行為が無意味でもいい。

 劇場のそれのような、重く物々しい扉を開ける。

 展示室内はそれほど広くなく、平日の夕方とあって鑑賞者の数は疎らだ。真剣な静寂に満ちていて、落ち着く。

 展示室の奥にぽつりと離れて、その絵を見つけた。

 黒い壁に、天井からのスポットライトで照らされた一枚の油絵。

 ぎらついている、あるいは、極彩色。

 その絵を目の前にして、僕はそんな奇妙な感想を持った。

 ――いや、むしろ渋い色はかなり多く使われているといえる。それなのに、印象としては鮮明さばかりが目についた。様々な色を使いながらも調和し、あるいは計算しつくされた破壊が行われている。どんな色を使って描かれたのかが読めないような絵だった。

 裸婦の絵である。恍惚と脱力し、口を開いた美女の舌に憩う青い蝶。ペインティングナイフのマチエールによる、ウルトラマリンブルーの絵の具の物質それ自体が美しい。

 そのやけに赤い舌の上に、抱きしめるようにして蝶の細い脚がねっとりと絡み付いている。唾液で濡れて重くなった翅はリアルで、天才画家と呼ばれているだけあって見事だ。。

 蝶を食む女の絵。

 人外と人間の、おぞましい口づけ。

 彼女の容姿は、母と似ても似つかなかった。

 こう言うと失礼だが、そのモデルはとてつもない美女だったし、特に目元が違う。瞳の小さい、切れ長の瞳。僕の母は糸目なのだ。笑うと完全に一文字になってしまう。

 布張りのベンチに腰を下ろす。美術館での作品鑑賞は文化的行為だが、意外と疲れるのだ。

 ――展示室に青い蝶が飛んでいた。

 どこから入ってきたのだろう。二枚の翅を優雅に動かしながら、数多の額縁を背景にゆっくりと宙を旋回している。鱗粉は碧い石の粉で出来ていて、天井のスポットライトの下を過る度に、粒子が光を反射して、ちかきらと瞬く。

 僕は呆、と目で蝶の軌跡を追った。

「わっ!」

 僕は文字通り仰天した。

 戻した視線の先。隣に全裸の女性がいたからだ。

 彼女はそんな僕の反応を見てころころと笑う。

 しかも、その姿は先ほど見ていた日生央真の絵の女性そっくりだった。まるで絵の中から飛び出してきたみたいだった。僕は幻覚を見ているのか?

 辺りを見回す。しかし展示室に裸の女性がいるのに、誰も注目していない。まるで他の人には見えていないかのように、彼らはどこまでも平和だった。

 この、美術館という非日常的空間でなければ、僕も信じなかっただろう。

 半信半疑ながらも、

「ふ、服を着てください……」

 目のやり場に困る。

「服ってどこに?」

 からかうように言う。確かに彼女が言うのももっともだった。彼女のための服は存在しない。

 無意識にだろう、ちろちろと舌を出し入れする。その仕草がいちいち扇情的だ。

「芸術に興味が?」

「いや、そうでもないんですけど」僕は心の内を正直に話すことにした。「美術館ってなんか苦手で……」

 子供のときからそうだった。

 美術館で絵を鑑賞するという行為は、思う以上に体力を消費する。画家の描く一つひとつの作品に凄まじい念がこもっているので、大なり小なり、あてられてしまうのだ。

「美術館って、何か怖くないですか?」

 美術館には、得体の知れない怪物が潜んでいる。芸術って、ぞっとする。

 きっと芸術家気質の母親譲りで、感受性が豊かなのだろう。昔から僕は、美術館でよく〝酔った〟ものだった。

 〝アウトサイダーアート〟というものがある。僕もあまり詳しいわけではないのだが、狭義では精神疾患のある患者の描いた絵をいう。それを見ると、何か得体の知れない恐怖を感じる。

 美術館は怖い。画家の隠されたメッセージを偶然理解してしまい、発狂してしまうような気がして。展示室を出た後の僕は、入る前の僕とは変わってしまっているのではないか。心配しすぎだと笑われるかもしれないが、僕は本気なのだ。

「甘いよ。人は常に変わり続けている。

 変わらないものなんて、ない」

 何故か諭されてしまった。

「現在も未来も、過去すらも変わるものよ」

「過去も?」

 未来が変わるのも、現在もまあ分かるが、過去が変わるのは分からなかった。既に起こってしまった出来事だからだ。

「分かってないことが沢山あるんだから」

 しばらくすると慣れてきて、この状態のほうがむしろ自然なのかもしれないと思うようになってきた。

 彼女からは不思議と恥ずかしさを感じな 思う。ミロのヴィーナスが恥ずかしくないように。神話の女性の裸体は、画家の手によって理想化された作り物だから。彼女からもそういう印象を受ける。もしこれが街を歩く一般の女性だったら、すごく複雑な気分になるに違いない。

 それにしても、平和だ。

 何もない。監視の椅子に座る眠そうな妙齢の女性も、このまま何事もなく閉館時間を迎えるのだろう。

 僕はふと、鑑賞客のうちの一人に目が吸い寄せられた。動きが不審だ。周りをきょろきょろと見回している。

 内気そうで、傍らに画材が入っているらしい大きな鞄を、肩からずり落ちそうになりながら抱えた、蒼美大の学生と思わしき青年。しかし誰も注目していない。

 僕は何故か彼から目が離せなかった。嫌な予感がした。

 と、突如振り上げられた彼の手には、ボールペンが握られていた。高々と掲げたそれを、何を思ったか、美術館の絵の上に振り下ろそうとした。

 え、え、え。

 見て見ぬ振りをして傍観者を決め込むか。それとも彼を止めるべきか。普通の人間なら、どうするべきなんだ。

 ふと母の顔が思い浮かんで、彼女なら止めるだろう、と思った。

 僕は躊躇がちに彼を羽交い締めにする。

「邪魔するな。僕と彼女の逢瀬を邪魔するな!」

「わっ」

 何かを喚いて暴れながら、振り向いて、僕の左目に突き立てられようとしていたボールペンを、首を傾げて間一髪で避ける。しかしそのときに返ってきた彼の肘が運悪く顎先をかすめ、直接脳を揺すられ、僕はしばらく動けなくなった。解放された彼は、意気揚々とキャンバスに向かっていく。

「おやめください、お客様!」

 それでは飽き足らず、鞄から一振りのパレットナイフを取り出す。突き刺さったボールペンは残されたままで、ちょっと名状しがたい部位に刺さっている。

 彼女の肩口にナイフを突き立てると、そのまま斜めに振り下ろした。彼女の肉体は空気を切るように鮮やかに裂けた。極彩色の飛沫が迸り、壁を汚す。

 目の前で惨殺されるのを、何も出来ずに見ていることしか出来なかった。

 鳴り響く警報に、僕は我に返った。

 そこに女性の姿はなかった。

 額縁に収められた絵が破けている。べろりとめくれたキャンバスの裂け目から、生々しい木枠が見えた。まるで、傷ついた鳥の骨格みたいだった。

 青年が、数人の警備員に取り押さえられている。

「彼女はまだ生きている。生きているんだ」

 手足をばたつかせ、人が変わったように笑い声を上げている。「日生央真は神様なんだ!!」何を言っているんだ、こいつは、という戸惑いの声が聞こえる。僕も同感だった。何となく、この人はもう手遅れだ、と思った。

「僕に触るな。あの女が悪いんだ! あの女が誘ってきたんだ!」

 警備員たちの頭と頭の間から、彼と目が合った。僕を巻き込まないでくれ。彼は僕にだけ不敵に笑うと、

「君もそう思うだろ、少年?!」

「これはただの絵ですよ……?」

 そう。どんなに写実的でも、これは絵なのだ。いくらなんでも、絵と実物を見間違えることはない。心を病んだ人間でもない限り。

 僕がそう答えると、青年は急に目の色を変えて、一際強くもがき、殺意を込めて僕を睨みつける。

 何かを喚いているが、その後は興奮で言葉になっていなかった。

 狂気を感じて、逃げるように会場を出た。

 展示室の扉を背に、僕は恐怖のために目を見開いて、荒い呼吸を繰り返していた。肺が引きつり、心臓が破れんばかりに胸の内側を打っている。

 まるでホラー映画のような光景。

 僕は青年の目を忘れることが出来なかった。

 大きく見開かれた、爬虫類のような温度のない目。

 狂信者。 

 その目は爛々と、この世のものではないかのように輝いていた。魅了されたと言うより、それこそ何かの信者のように見えた。