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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上2-6

2-6.The Weather Forecaster:悪天の予兆

 五月二十三日、月曜日。

「あのとき言い忘れたことの続きな」

 と、東郷。

 先週言いかけていたことの続きらしい。僕も自然と忘れていたのだが。

「あの先生はヤバい」

 突然そんなことを言い出した。僕はきょとんとして、一拍置く。

「ヤバいって、何が?」

「分からない。でも何かヤバい」

 呆れてこっちが頭を抱える。

 曖昧すぎてよく分からない形容詞だ。はっきりと説明して欲しい。

 彼は根拠として、〝黒板ジャック〟のことを挙げた。

「笑わないでくれよ? 何か狂気みたいなものを感じたんだ。普通さ、知らない場所に来たならもっと慎み深くするもんじゃないのか? あの男、畏れ知らずってやつだよ。神をも畏れてませんって感じ。絶対何かあるよ」

「ははは、考えすぎだよ」

 笑いやがった、と東郷は苦々しく呟く。彼にとっては真剣な話だったらしい。

 この年頃の子供たちは、大人を敵とみなす傾向があるように思う。自分たちと大人たちの輪を区別しているのだ。

 そんなに過敏になる必要もないと思う。僕の周りにはいつも大人たちがいた。母の友人たちは、夫に去られた母と僕に、親切すぎるほどよくしてくれたのだった。

「とにかく近付くなよ」

 念を押すように、突然東郷は僕を睨みつけた。そう形容するのが近かった。

 大真面目に物事を語るときや、怒っているとき、一人で何か考えに耽っているとき――この友人はこのような怖い顔を見せることがあった。意外と鋭い目をしているのだ。僕が知るのは、お調子者の彼だけれど、ふとした途端全く知らない人の顔になる。

 そんなとき、尚更に彼は何者なのだろうと感じる。彼は僕のことをよく知っているけれど、僕は知らないのだ。

 ちゃんと見れば、彼は無駄のない体つきをしていることが分かる。

 僕は納得がいかなかった。

 瑞山先生と親しくするかどうかは個人の問題だ。たとえ友人でも、指図される筋合いはない。

「――そうだ東郷。昨日、副会長の瀧上っていう人に会ったんだけど、彼って信用できる?」

 僕は帰ろうとする途中だった。別れ際に訊ねる。

 彼は記憶のない僕のアドバイザーのようなもので、気になることがあったら、過去の僕との関係を教えてくれる。東郷はぱっと顔を明るくした。

「お前も会ったのか。どうだった」

「うん。いい人そうだったけど」

 彼は目に見えて饒舌になった。

 意外なことだったのだが、由一は東郷の幼馴染らしい。小学校のときから付き合いがあって、親友なのだそうだ。

「彼ってどんな人?」

「由一はいい奴だ」

 彼の語る評価は、概ね僕の持った印象と同じようだ。

 出来のいい人が自分の親友であることが誇らしいのだろう。その様子に思わず、

「なんか東郷嬉しそうだね」

「そうか?」

 否定するかと思えば、素直に、そうなのかもな、と頭を掻いて笑う。そして僕と東郷は別れた。

 校舎脇を通りかかったときだった。日陰になった非常階段の踊り場に、瑞山先生が立っていた。

 一瞬ぎょっとした。単に立っているだけなら別段気にも留めなかったのだが、彼はTシャツを脱いで半裸だった。

 羽化したばかりの蝉のような、白いしなやかな上半身を露わにして、水の滴るシャツを絞っている。駆け寄っていって、思わず絶句する。

 暗い灰色のコンクリートを背景に、均整のとれた彼の肉体は美しかったが、異様なのが、身体中にフランケンシュタインの怪物のつぎはぎのような傷痕が刻まれていたことだった。

 彼は僕の姿を認め、あっけらかんとして言った。

「いいところに通りかかった。体服のジャージ持ってる? 貸してよ」

 丁度今日は体育があったので持ち合わせている。僕は肩にかけていたスポーツバッグを置いて体操服を取り出した。

 格好悪いからと、濡れてもいないジーンズまでその場でジャージに履き替え始めた。屋外で。その大胆さに、どこからか悲鳴が上がらないか、着替えが終わるまでこっちのほうがどきどきさせられた。

「短いな……」

 身長差がかなりあるので、僕の体操服は小さいだろう。上着は少し窮屈そうだ。もっと酷いのはズボンのほうで、脚が長いので瑞山先生は足首まで露出した。

 しかしそれさえも腕まくりをして、着こなしてしまう。

「どうしたんですか」

 落ち着いてから僕が訊ねたのは、その傷についてではなかった。何故彼がこんな場所で、しかも服を脱いでいたのか。大体は予測がついていたのだが。

「美術室に来てみたら珍しく生徒がいたからさ、話してたんだ。それにしてもあいつら美術部じゃなかったんだな。騙された。俺がなんにも知らないからって」

 僕は彼を哀れに思った。

 きっと――この新しい先生は心ない一部の生徒からいじめを受けている。しかも彼らには悪気はないだろう。知りたかったのは、本当に彼が刃傷沙汰の関係者であるのかどうか。

 僕は同じ高校生の身でありながら、大人に容赦のない彼らの残酷さを切に感じた。

「だからさ、そこで脱いでやった。女子もいなかったし。そしたら逃げてったよ。でも先生に告げ口されたらヤバいからこうやって避難してきたわけ」

 ある意味瑞山先生らしいと思った。無駄にポジティブというか……。

「見せて減るもんなら進んで見せてるよ」

「…………」

「何てね」

 冗談を言って、自嘲気味に笑う。

 傷痕を隠すようにジャージの襟を立てた。彼も僕が絶句した理由に気がついていた。

 それは、ロキに刺されたときについた傷なのだ。理由はきっと、嵐の夜に彼が死ななかったから。

 胸元のファスナーから手を入れて肌を掻きつつ、上空を見上げた。やけに辺りが暗いと思っていたら、いつの間にか空が曇っていたのに気付く。

 朝から雨なんて振り出しそうもない、ぴかぴかの晴れ空だったのに。

 と、同時に、

「――――洗濯物!」

 と僕の胸にある種の絶望感が拡がった。

 瑞山先生はそれを聞いて笑う。しかしその笑いもどことなく力ない。

「――低気圧が来てる。一雨きそうだな」

 静寂の中に、傷痕をかきむしる神経質そうな、カリカリ、という音が、虫の羽音のように耳に障った。

「こういう日は古傷が疼くんだ。痛むのとは違う。外側はちゃんと塞がってるのに、内側は傷が開いている感じがする。身体の中だから触れないし。――本当に、苛々する」

 不愉快そうな表情を見せた。

「兄ちゃんが降るっつってんだから、降るんだって……」

 呪文のように呟く。

 ぞっとした。ネットでは現実味がなかったのだが――そこで初めて、彼らの前に横たわる問題の悲惨さに気付いたのだ。

 瑞山先生は事件以来、悪い天気を予測出来るようになった。

 しかしそれは望んで得たものではない。にも関わらず、これから悪くなる天気を、自分を傷つけた張本人に教えてあげようとしている皮肉。未だ千切れていない献身的な兄妹愛がここにあっては痛ましい。

 枯れ草のような湿っぽい匂いと共に、本当に雨が降ってきた。

 静かな雨がしとやかに降り注いでいる。威勢のいい運動部の掛け声も気がつくと聞こえなくなっていた。校舎に引き上げたのだろう。傘を持ってきておいてよかった。梅雨が近いので、最近は念のために持ち歩いているのだ。

 彼らについて、一つだけ分かっていないことがある。

「露綺さんにはどんな傷をつけたんですか?」

 瑞山先生は唇を吊り上げて薄く笑った。指先で前髪を弄びながら、耳触りのいい、優しげな声で囁く。

「いいよ、知りたいなら教えてあげようか。けれど、それを知って、君はどうするつもりでいる? よしたほうがいいんじゃない?」

「…………」

「君は彼女をそういう目で見るんだろう?」ゆっくりと諭すような、ふわふわした声で。

 僕の人間の浅ましさを全て見透かされているような気がした。自分がとてつもなく醜い人間のように思える。

 僕だって、それを知ってしまったら、ロキをそのような目で見てしまうに違いない。

 彼は試していた。

 ――律人、お前はあいつらとは違うのか? それとも、やっぱりくだらない好奇心で彼女を弄ぶのか? と。さっき彼らに失望した僕は、そのような人間でありたくなかった。

「……いいです」

 だから意地もあった。今思えば、これは瑞山先生がロキのために、わざとさしむけたのだと分かる。

 瑞山先生に、ロキと仲良くしてほしいと頼まれ、ネットで事件のことを知ったとき、僕は躊躇った。

 何故なら彼女は人を刺したことがあるからだ。当然だ。一度屋上へ行ったのは由一の頼みで、進んでそんな危険人物とは関わりたくない、と思うのは普通の反応だと思われた。

 雨が酷くなってくる。

 ロキは今どうしているだろうか。多分、今日彼女は傘を持ってきていない。屋上には沢山の道具があった。油絵の具とはいっても水に濡らしていいものではないから、片付けずに自分だけ引き上げることも出来ない。

 困っている人を放っておくことは出来なかった。

 たとえ凶悪な殺人犯が相手だとしても。道端に倒れているのを放置し、死ぬのを黙って傍観することに耐えられるだろうか。とりあえずは病院に連れていくのではないだろうか。自分が手を下したようなのが嫌だ、という理由ではない。人間とは良心が痛んで、目の前の不幸を無視出来ない生き物だ。

 僕はよく考えることなく、屋上へ向かって駆け出した。