雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上2-4

2-4.Art Therapy:芸術療法

 そういうわけで、早速屋上に立ち寄る。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 僕は『立ち入り禁止』と書かれた紙の前に立った。しかし本当に入ってもいいのだろうか。逡巡していると、

「――何してるの?」

 丁度ロキが屋上から顔を出した。僕は呆気に取られ、しかし何も言わない訳にはいかない。

 僕は鞄から、託されたノートを取り出す。

「生徒会の副会長に会ったんだけど。はい、これ」

 ノートを渡す。

 ロキはノートをぱらぱらとめくって、それをスクールバッグに仕舞った。そのままイーゼルの前に戻っていくので、僕もアトリエにお邪魔させてもらう。

「お邪魔します……」

 濃い油絵の具のにおいが鼻をつく。

 今日のロキは、病的に白い腕に握られた筆を淡々と動かし、キャンバスに黒い絵の具を塗り重ねていた。筆と布が擦れ合う音が、規則的に聞こえている。

 彼女に会いにきた理由はもう一つある。確かめたいことがあったのだ。

「瑞山さん、僕、昨日ここに来た?」

「ええ」

 顔を上げずに答える。僕に興味がなさそうだ。

 覚えがないので、否定されると思っていたが意外だ。僕が来たというのは、彼女がそう言うのならそうなのだろう。自分の記憶は信用ならない。記憶が完全な人と比べたら、忘れているのが怪しいのはどう見ても僕だ。僕は自分の記憶を信用していなかった。たとえそれが自分のものでも。

「どうして瑞山さんは――」辺りを見回し、誰も聞いていないことを確認する。「僕の記憶がないって知ってたの?」

 そう言ってから、名乗っていないことに思い当たる。

「えっと、僕は――」

梓川律人。そうでしょ?」

 聞くまでもなく分かってるわ、とうんざりしたように首を振る。

「私とあなたが知り合いだったからよ。隠しても意味はないことだわ」

「じゃあ、友達だったんだね」

 僕はそれを聞いて顔を明るくした。

 知らない、と言われたら、改めて友達になろう、と言おうと思っていたところだったのだ。

 ロキは不本意そうな顔をした。友達、と言われたことが気に食わなかったらしい。

「だから、知り合いって言ってるじゃない」

「じゃあ友達じゃなかったら何だっていうの? まさか恋人……だったとか言わないよね」

 自分で言い出したものの、やはり恥ずかしくなった。あとちょっとだけ期待したのは内緒だ。何かを言いたそうなロキを遮り、僕は更に続ける。

「ところで、君は瑞山露綺さんっていうんだよね? やっぱり瑞山先生の妹さんだ。どうして嘘ついたの?」

「人違いじゃないかしら」

「違わないよ。だってさっき君、『瑞山さん』で返事したよね」

 これで三回だ。

 図星を突かれたらしい。ロキは何も答えなかった。

 ここまで気持ちよく嘘をつかれると、逆に寛容な気持ちになる。

「露綺さん、って呼んでいい? ――知り合いだったから」

 ロキはふい、と顔を背けた。勝手にしろ、ということらしい。だから遠慮なくそう呼ばせてもらうことにした。瑞山先生と紛らわしいのもある。

 僕は好奇心から、低い背中越しに彼女のキャンバスを覗き込んだ。母が元美大生というだけで、僕自身は特に絵に造詣が深いわけではないが。

 それは奇妙だった。黒一色しか使われていない、黒い絵だった。

 きっと、大半の人はそれを見て、闇――と表現すると思う。

 鮮やかな色彩などなく、黒と少量の白だけで描かれた、何かよく分からないもの。知ってしまったらいけないような、何かよく分からないのに人に恐怖を与える景色。

「え、えーっと……」

 よく分からない絵を傷つけずに褒めることほど難しいことはない。

「露綺さんはどうして屋上で絵を描いているの?」

「宿題。週末、カウンセラーの先生に見せなきゃならないから」

 質問に答えていない気がするが。

 カウンセラー? 耳馴染みのない言葉だ。

「カウンセラーをつけられたの。兄さんを刺したから。精神科にかかっているの」

 突然牙を剥いた娘に、家族は戸惑っただろう。

 しかし彼女を疎まずに、お金をかけてまでカウンセラーをつけ、平穏な暮らしを取り戻そうとしているのは、ロキの家族はちゃんと彼女を愛しているのだと思った。

「芸術療法だそうよ。でも無駄だわ。私は正気だもの」

 その治療は自分には効果がないと言う。

「みんなそう言うよ。自分は正常だって」

 口にした後で、自分が酷く失礼なことを言っているのに気付いた。

「いや、そういう意味じゃなくって……」

「そうね、狂ってるのが自分だけだったらどんなによかったでしょうね。それが治療で治るものだったら」

 怒る素振りは見せなかった。気怠そうにキャンバスに筆を叩き付けながら、

「どうしようもなく狂っていたのは世界のほうだったわ」

 何かを諦めているように見える。気まずくて、褒め言葉を探した。

「……でも露綺さんって律儀だね。ちゃんと治療受けてるんだから」

「まあね。彼女が気の毒だもの」

 彼女、とはカウンセラーのことだろう。彼女の口調は冷めている。

「――それにまあ、悪くないわ」

 こっちのほうがもしかしたら本心かもしれない。ロキは絵を描くのが好きなのかもしれない。決してそうとは言わないし、自分でも無自覚かもしれないが。

 芸術療法。

 絵は人の心を映す。ならば、黒い絵ばかりを描くロキの心はどんなものなのだろう。

「それにしても、屋上だと描きづらくない? 光の向きが変わったりするから」

 だから画家のアトリエは大体北側にある。北に窓を作ると、光の方向が時間によって変わらず、安定しているからだ。

「別に具体的なものを描いてるわけじゃないし、困らないわ」

「でも暑くない?」

「言われなくっても、普段ならそうしてるわ」

「なら――」

「美術室にはあいつがいるから」

 遮るようにぴしゃりと言った。

「しばらくの間だけよ。あの人がいなくなったら戻るわ」

 僕は苦笑した。そんなに瑞山先生が嫌いなのか。

 屋上を見渡す。

 縦格子越しに空が青い。フェンスは結構高くて、女子の頭の上ぐらいまではあった。間違っても転落することはない。学校側の安全策がちゃんと講じられているようだ。

 黙々と筆を動かすロキを見ていると、彼女が至って普通の少女であることが分かる。

 事件のことを知ったときは躊躇ったが、これまでの様子からは、冷たいところはあるものの決して恐ろしい人ではないという印象を受けた。

 不良少女に見られるような派手な感じもなく、恐喝もしない。さぞ怒りっぽいのだと思っていたがそれも違う。

 ただ、燃え尽きたような無気力さで、厭世的だ。それが意外だったから、むしろ弱い立場にあるようなこの少女が、どうしてナイフを振るうことになったのか、僕は知りたいと思った。

 話しかけ続ければ、心を開いてくれるのではないかと思う。

 うちの母がああなせいか、こういう人を扱い慣れている自分がいるのを自覚する。それは、あまり褒められたことではないのだろうけれど。

「露綺さんは人のことが信じられないんだ、って瑞山先生から聞いたよ」

「…………」

「瑞山先生、露綺さんの将来のこと心配してた」

 顔を上げて、彼女の目を見る。

「あんなに君のことを気遣ってるのに……。なんかそういう扱いにしちゃうのって、可哀想だよ。仲直りしたらどうかな」

 僕は完全に油断していた。

 そのとき、彼女の顔色が変わった。目つきが鋭くなり、つかつかと筆や絵の具を置いた机の方に向かうと、一振りのナイフを掴んで振り向いた。空を切る銀色に一瞬怯んだ。

「――彼に味方をする人間は、私の敵と見なす。兄さんに騙されて利用されてるやつも同罪だわ」

 牽制するように、僕の鼻先にペインティングナイフを突き出す。

「瑞山先生に近付かないほうがいいわよ」

「どうして? 理由があるのなら聞くよ?」

 目の前のナイフに驚きながらも言った。

 彼女は何故そこまで瑞山先生を嫌っているのだろうか。彼が悪人だとは思わないが、彼女なりにその理由があってそれを話してくれるなら、納得出来るような気がしていた。

「…………」

 ロキは言葉に詰まり、無表情になった。僕は少し笑う。

「理由なんてないのに、人を嫌えないよ」

 僕が笑ったのが気に障ったらしい。顔を赤くして睨みつける。

「あなたなんていつでも殺せるわよ」

「ペインティングナイフで人は殺せないよ」

 ロキのナイフをどかす。

 その刃がペインティングナイフだと知っていなければ、手の平で押し退けることなどしていなかっただろう。

 木製の軸の先についた、小さなひし形の金属板。

 油絵の道具なのでもちろん家で見たことがあるが、刃先はパレットを傷つけないように丸くなっており、刃自体が薄くて弾力がある。

 ペインティングナイフを差し向けるしかないロキは、牙を抜かれた獅子と同じくらいに痛ましい。

「包丁を、人を刺すのに使っちゃ駄目だよ。料理するから分かるけど……。用途にない使い方したら刃が鈍っちゃうし」

「知ったことじゃないわ」

 ロキは一旦閉口する。呆れたように肩の力を抜いた。

「……大体あなた、危機感がなさすぎるわ。いつ誰があなたを殺すか分からない。こんな風に突然襲われることがあるかもしれないわよ」

 そう言って、彼女は何事もなかったかのようにペインティングナイフを仕舞った。

 腕を組んで顎をしゃくる。

「……兄さんの入れ知恵ね。彼には何を言われたの?」

「何って……」

 どうして彼女にわざわざそんなことを聞かせなければならないのか、と思ったが、よく考えれば別にやましいことは話していないので、話す。水槽の脳のこと。哲学的なゾンビのこと。

「……全く。彼の言葉をまともに聞いてたら惑わされるわよ。それに、そんなことを言っていたら、それこそ〝哲学おばけ〟になる。哲学的思考に溺れて、屁理屈をこねくりまわすだけの人間に」

「ふふ」

 何がおかしい、という風に彼女は睨みつけた。

 ロキがそんな言い方をするのを意外に思ったので。

「探偵気取りはやめなさい。あなたは人よりも記憶が抜け落ちやすい。『信頼できない語り手』にしかなれないわ」

「……これってもしかして、心配してくれてるとか?」

 引っ込められたペインティングナイフが瞬息で戻ってきた。これが本物のナイフだったら、喉が一文字に裂けていたかもしれない。

 こういうことか――と僕は場違いにのんびりと思う。

 ロキを怒らせてしまったらしい。何度話しかけても無駄だと判断し、今日は諦めて帰ろうと踵を返した。