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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上2-3

2-3.The Clerk's Son:聖職者の子

 五月十九日、木曜日。

 生徒会の人が、用事があるといって僕を訪ねてきた。

 取り次ぎのクラスメイトに呼ばれ、扉付近で待っている少年の元へ行く。全く思い当たりがない。普段特別目立たないように平凡に過ごしているつもりだ。

 小柄で、前髪を中央で分け、襟足は長い。目元は涼しげで男子にしては線が細く、上品な顔立ちをしていた。フレームの細い眼鏡が理知的な印象を与える。

「急に呼び出してごめん。梓川律人、って君のことだよね」

「はあ……。僕に何か用事ですか?」

 そこで立ち話をしているとクラスメイトの邪魔になりそうなので、廊下に出る。

 この少年の名前は瀧上由一といった。路加高校の生徒会副会長だ。二年生を中心とする前期生徒会は、会長に萩原という女子生徒を据え、副会長に彼。僕も壇上で挨拶をしているのを何回か聞いたことがある。

 副会長がわざわざ訪ねてくるなんて。当然面識があるわけでもない。まさか僕が彼のことまでをも忘れていたというオチだろうか。それも洒落にならないので、恐る恐る訊ねる。

「それにしても僕、瀧上さんとお会いしたことってありましたっけ」

「さあ。少なくとも僕には覚えがないね。立場上会う人って多いし。忘れてたらごめんね」

 彼は好感の持てる、嫌味のない笑顔を向けた。

 いささか肩の力が抜ける。僕にとっては、完全に初対面の相手と付き合うほうが楽だった。向こうばかりが僕を知っているということに気を張らなくていい。

「ため口でいいよ。同じ学年なんだし。あとその呼び方はとうさんと紛らわしいからやめてほしいな」

「やっぱり噂は本当なんだ――」

 感嘆して呟く。

 噂というのは、副会長は苗字が同じ、瀧上牧師の実子なのではないか、というものだ。

 このプロテスタント系の学校では週に一回、道徳科の代わりに『宗教』という時間があって、聖書を学ぶ。これも他の学校とは一風違うところだ。そこで世話役を執り行ってくれるのが、瀧上牧師という方で、この高校の教職員としては最年少といえるほど年若く、三十代前半。生徒と歳が近いため親しみやすく、また彼の柔和な口調の説教は生徒から人気がある。

 由一は聞き飽きた、という風で対応に慣れている。

「よく言われるんだ。似てないだろ」

「いや、全然そんな」

 彼が自虐したので、僕は慌ててフォローをした。人間、そう否定されると逆のことを言いたくなるものだ。

 いや、実際由一と瀧上牧師はすごく似ていると思う。由一には自覚がないだろうし、気恥ずかしくて絶対に認めようとしないだろうけれど、まとっている雰囲気というか、喋り方がそっくりだ。息の抜き方とか、よく似ている。

 ところで牧師といえば、誰にでも敬語を崩さず、常に素で誰かに感謝しているイメージがある。僕にはそんな考え方は出来そうにない。

「瀧上牧師って――」

「胡散臭い?」

 心を読まれたようでぎくりとした。

 由一は読みが当たったと愉快そうに笑った。

「ごめんごめん。君ってよく顔に出るからさ。僕もそう思ってるし、気にしないで」

 そんなに顔に出るだろうか……?

 僕は人をあからさまに否定するのが苦手だった。だから彼にそう思われてしまったのは心外だ。

「幼い頃は親の職業が恥ずかしくて仕方なかったよ」

「そうなの?」

「もしかして君、神父や牧師の息子がみんなキリスト教徒だとでも思ってる?」

「違うの?」

「ここは現代日本だぜ? 信教の自由くらい保証されてるよ」

 そこまで言って、由一はぽつりと付け加えた。

「まあ、尊敬はしてるよ。今は」

 ところで、と。

「瑞山さんっていう娘、知ってる?」

 瑞山先生と同じ名字だ。あの屋上の少女のことかもしれない。

 とっさに、屋上が立ち入り禁止になっていることを思い出す。ここで肯定すると彼女を売るようで後ろめたい。

 そうこうしていると、彼は僕に一冊のノートを差し出した。

「彼女、不登校気味でね。僕、彼女のクラスメイトなんだけど、これを届けてあげてほしいんだ」

「はあ、いいですけど……」

 表紙には女性の字で、『瑞山露綺』と書かれている。彼女の名前は確かに、瑞山先生と同じ苗字であり、兄妹に違いない。

 露綺……ロキ?

「ロキさん――何か、変わった名前だね」

「ロキ? ――ああ、彼女の名前は瑞山露綺っていうんだ」

 音読みのロキ、ではなく、つゆき、と読むのか。

 今度露綺さんと呼んでみよう。

 それにしても、

「どうして僕が?」

「実はさ、昨日君が屋上にいるのを見た、っていう人がいるんだよ」

 屋上に行った。そんな記憶はない。昨日というと瑞山先生と別れた後だろうか。

 確かに屋上には一度行っている。ちゃんと覚えている。しかしロキに屋上に連れ込まれたのは一昨日だ。

「昨日じゃなくて、一昨日の間違いじゃ?」

「やっぱり行ったんじゃないか」

 彼にとってはどっちでも同じことだったらしい。自ら墓穴を掘ってしまったようだ。

 しかし、僕が屋上にいるのを見たとはどういうことだろう。ああ、またか、と頭を抱える。忘れたことを忘れているのだ。

「君が行けば?」

「嫌だよ」

「なんで?」

「だって、刺されそうじゃん」

 あっけらかん、と言った。

 ロキは、彼女をよく知らない人からはある種の偏見を持たれているらしい。少なくとも、彼が彼女にいい印象を持っていないことは分かった。

「僕はさ、母親に包丁を向けられたことがあるんだ」

 窓のサッシに肘を預けながら、ふと、由一が呟いた。

「冗談でもぞっとしないものだよ。梓川。人を刺す人間は人を刺すんだ」

 彼も口を滑らせたのだろう。彼の深い内面に立ち入ってしまったような気がした。優しくて、賢明そうで、怖いものなんてないような人にも、恐れているものがある。彼だって前科持ちの彼女のことを疑わずにはいられないのだ。

 否定しても無駄だと思ったので、僕は引き受けることにした。それに、不登校というやつならば、解決したいと思う。

「これで決まりだな」

 と、歯を見せて笑う。

 壇上で見る副会長は眼鏡だし、顔も作り物みたいに端正だから、真面目な堅物だと思っていたが、意外とやんちゃなところがあるらしい。

 ふと思い立つ。

「そうだ。麻耶って人、知ってる?」

 その疑問を口にしたとき、今までずっと冷徹を貫いていた由一が、明らかに目を逸らした。

 このようにはぐらかされてばかりだ。我慢ならなくなって、僕はもう一度訊ねる。

「率直に訊くよ。いるの? それともそんな人いないの?」

「――――いる」

 僕は安堵した。よかった、やっぱりいるのだ。

「瑞山さんの友達だったんだよね。どういう人だったの?」

 そう訊ねると、由一は再びしどろもどろに何かを呟いた。やがて根負けした感じで口を開く。

「……正直に言えばいい?」

「よければ」

「頭のおかしい子」

 苦々しげに呟いた。彼のような善い人は、人の悪口を本人のいないところで言うのも気が引けるのだろう。

「――変わった子だった。自分を、画家の日生央真の子供だって言い張ってたんだ。

 笑っちゃうよね。いくらなんでもそれはないだろって。確かに、絵はすごく上手かったけどさ」

 ニヒルというか、酷くダウナーな口調で彼は言った。

「あと、幻覚というのかな。見えないものが見えていた。例えば、彼女のお父さんの頭の上だけに雨雲があって、雨が降り続けているんだって」

 確かにそれは変わっている。失礼だが、さすがの僕でも頭がおかしい、と思った。

「それで、彼女は?」

「一年前かな。屋上から飛び降りた。僕は昔も生徒会にいてね。丁度生徒会室の窓から、彼女が落ちてくるのを見たんだ」

 狐につままれたような思いだった。一年前にこの路加高校で人が飛び降りたことなど、僕は知らない。四階の高さだ。無事で済んだのだろうか。そうは思えない。

 彼らの言葉を思い出す。

 ――あなたには関係ないわ。

 ――友達だったんだろ?

 友人を喪ったロキは、何を思っているのだろうか。

 案内する、と言われたので、現場に連れていってもらった。

 生徒会室は二階にある。何の変哲もない、他の教室と同じガラス窓。そこから彼女が空を通過するのが見えたという。彼はその現場を目撃したという、書記の少年を紹介してくれた。

「あれは絶対に見間違いじゃなかった」

 しきりに頷いている。

 目撃したのは由一だけではなかったという。当時その場にいた生徒会の他のメンバーも見ていたそうだ。

「ところでなんでそんなことを訊くの?」

 と訊ねるので、僕はこれ以上追及することは出来なかった。