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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上2-2

まやかしの月 創作小説

2-2.Indigo and Yellow:星月夜

 あの日が特別だっただけで、普段の母は大人しいものだ。家のちょっとした庭園に季節の花を植えたり、リビングで油絵を描いたりと、夫がいないながら健気に過ごしている。

 かつて絵を褒めたことがあるのだが、彼女は大したことがないと言う。その様子が謙遜でもないように聞こえたので、美大生というのはそういうものなのかもしれない。どちらにせよ、素人の僕にとってはすごい魔法だ。

 家に帰ると、今日の母はエプロン姿に腕まくりをして庭に出ていた。レースのカーテン越しに見える背中は夢中だ。

 家がひしめく住宅地にささやかながら設けられた庭へは、居間のガラス戸から出ることが出来る。紅葉の綺麗な低木や、背の高い常緑樹。様々な種類の花や樹木が植えられ、家の前の道も見えない。誘蛾灯に照らされた姿を見れば、とても意匠に凝っていることが分かる。母は大学時代、園芸サークルを立ち上げるほど植物が好きだった。完璧に整えられたそれは、花々を愛する母が十数年かけて作りこんだ自慢の庭だ。

 開いたガラス戸から吹く風はカーテンを揺らし、日の長くなってきた薄明るい空には、早くも星が出ている。心地よい風に涼む。藍染めの空と、壁に照り返す室内の、少しくすんだ暖かい黄色の照明が、かの名画のように美しい夜だった。

 星月夜の庭園で、庭を弄っている母を縁側で見守りながら、考え込む。

 僕の外見は、母とはあまり似ていない。父親の方に似ていて、母曰く、僕はあの人と瓜二つだそうだ。

 物心ついた子はいかにして親を親と認識するのだろう。同じ家に暮らしている人を、紛れも無い家族だと認識するのだろう。

 瑞山先生は言った。名前はいくらでも偽れる。細かな仕草や顔の造作も大したことはない。目の前にいるのが実は赤の他人で、自分を親だと、家族だと言い聞かせながら育てられたら、見分けることは出来ないかもしれない。

 それでも僕は、目の前の人が自分と血の繋がった、紛れも無い家族だと認識している。

 自らに流れる血が教えてくれる。などと言うと少し気恥ずかしい。

 ただ、それは非科学的でもある。あまりにも不確かな絆だ。結局のところ僕は、それを信じているのだ。

 二階にある自分の部屋へ。

 白い壁紙に、フローリング。最低限必要な机とベッド。教科書と料理の本を収めた本棚。洋服箪笥の上には、中学時代に使っていて、今は使っていない古びた剣道の竹刀。それくらいだ。お金のかかる趣味は特になくて、僕の部屋には物が少ないけれど、これで満足している。

 机の上に図書室で借りてきた本を置く。○○に××、だっけ。特に興味はないが、もう誰に話を振られても大丈夫だ。

 一階からノートパソコンを運んできて立ち上げる。ネットに接続して、検索エンジンにアクセスする。瑞山先生に関する事件について調べようと思ったのだ。母に訊くという手もあるが、彼女はあまり世間のことに興味がないので知らないかもしれない。

 彼の名前をフォームに入力してはみるものの、目ぼしい情報はない。

 ふと思い当たる。加害者はともかく被害者なのだから、本名は伏せられていると考えるのが自然だ。

 試しに検索ワードをこの街の名前に変えてみると、記事の中に思い当たるものがあった。

 三年前の殺人未遂事件。

 当時中学二年生の少女Aが、大学一年生だった実の兄を包丁で十数ヶ所も刺したという。傷の一部は肺にまで達し、意識不明の重体。

 傷は急所を迂回するようにつけられ、躊躇ったかのようにも、甚振り殺そうとしているようにも解釈出来そうだった。そのことについて彼女はこう述べている。『彼が本当に生きているべき人間なら、神様が助けてくれると思った』

 無情で味気のない画面の上で踊る、心神喪失したような、その答え。

 三年後、少女Aは成長し、高校二年生になる。少年法に守られて。

 驚愕した。それが正しいならば、屋上の彼女こそが少女Aということになるからだ。

 その壮絶さに絶句する。どういう憎しみをもって彼を刺したのだろう。人間を包丁で十何回も刺せるものなのだろうか。普通は一、二回で疲れるか満足してしまいそうだ。

 この事件の規模で生きていること自体が奇跡だ。僕が実際に話をした彼がそれだとは信じられない。願わくは人違いでありますようにと祈る。

 詮索はここでやめにしようと、電源を切って立ち上がった。

 階段を降り、庭いじりを終えて戻ってきた母と食事を摂る。

 食後は家族団らんの時間で、二人してリビングでぼんやりとしていた。

 テレビでは、とある死刑囚が、二回目の裁判をしたと報じられていた。僕が生まれた頃にあった事件だ。テロ行為によって、人々が無差別に殺害された事件。数十人の死者と、数千人の後遺症に苦しむ人々が残された。死刑にされてもおかしくない、そんなような。

 僕はただ、まだ彼が生きていたのか、とか、司法手続きは結構複雑な手順を踏むものなのだな、という感想を持った。

 僕と母は、各々黙って暫くテレビに見入っていた。隣の母がふと口を開いた。

「死んじゃえ」

 僕は耳を疑って、思わず彼女を見た。

 無邪気に呟いた。小さな子供が、テレビの前でヒーローに、そんな怪獣倒してしまえ、と叫ぶくらい、あっぴろげに。彼女の中の正義感に基づいて。

 僕は何というか――引いたというか。

 不自然な沈黙が僕らの間を通り抜けた。

「あ……、お風呂洗ってくるね――」

 行き場をなくし、逃れるように立ち上がる。