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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上2-1

2-1.Blackboard Hijack:黒板ジャック

 五月十八日、水曜日。

 朝。登校すると、校内が異様な熱気に包まれていた。

 自分の席に鞄を置いて目線を上げる。その理由は一目で分かった。黒板がチョークによって、真っ白に塗りつぶされていた。

 ただ、それだけ。

 壁の大面積を、ミルクの海のように白く染め上げていた。まるで、教室なのにそうじゃないような、不思議な感じがした。

 校内全て、廊下の小さな伝言黒板に至るまで、目ざとく絵で埋め尽くされていないものはなかった。のちに、この事件は、〝黒板ジャック〟と呼ばれることになる。

 そして、同時に。

 学校では、あの美しい教育実習生について、不穏な噂が流れ始めていた。

 曰く、彼が三年前に起きた殺人未遂事件の、被害者のあの人に似ていないか、と。

 その噂を確認する術を持たぬまま放課後になり、僕は美術室を訪れた。

 石油系の溶き油のにおいに、根拠のない懐かしさを覚える。

 教室の中は薄暗く、窓からの明かりだけが優しく射している。

 窓から外を眺めると、彼方に丘陵が見えた。

 南には海。夏には都内から多くの観光客が訪れる有数の海水浴場だが、内陸はそんなイメージとは程遠い。段差の激しい、閑静な住宅地になっている。

 そして多くの画家がこの地にアトリエを構える、芸術の街でもある。そのことから、この街は〝湘南のモンパルナス〟と称されていた。

 瑞山先生は、気楽そうなTシャツにジーパン姿で、軽く絵の具で汚れたエプロンをまとって、床にあぐらをかいていた。

「あれ、どうしたの律人」

「遊びに来ました」

 辺りを見回す。

「それにしても人がいないですね……」

 電気もつけず、そこにいるのは瑞山先生だけだ。

 学力志向のこの学校の美術部は、顧問も部員もやる気がないことで有名だった。存続しているのも、ごく一部の真面目な生徒が受賞成績を残しているおかげだ。

 このまま廃れていくのは時間の問題で、彼一人しか見当たらないこの状況を見るにつけても、由々しき事態なのは明らかだった。

 しかし本人は平然としている。

 僕はふと、彼の横顔に違和感を見つけた。

「それにしても、目赤いですよ」

「ちょっと覚醒してきちゃって」

「何が!?」

 瑞山先生の目は充血している。

「チョークの粉が目に入って」

 僕は確信した。彼が黒板ジャックの犯人だ。

 元ネタはある美大のプロジェクトらしい。

 あの後、実際色々なことがあった。

 落書きを消して、何事もなかったかのように授業をした学級があれば、黒板消しで〝白い黒板〟に〝黒い絵〟を描いた学級もあった。瑞山先生は、クラスの〝空気〟を可視化したのだ。

「蒼美大で流行ってるトトカルチョがあるんだけどさ。『路加高校の壁に落書きしても許される』って。見事にデマだったな」

 世間話を始めた。

「あんなに沢山壁画があるんだから、作品が一つくらい増えたって誰も気付かないと思ったんだけどな」

 あの壁画は卒業制作としての性格も持っているので、そういう問題でもない気もするが。

 笑う瑞山先生は悪びれもしていない。

「みんながびっくりするのを見たかっただけなんだけどな」

 僕は昨日のことを詫びた。彼は全然気にしていなかった。

「彼女は妹さんですか?」

「そう。可愛いでしょ」

 瑞山先生はちょっと顔を明るくする。妹のことがよほど大切らしい。

 彼との距離感が今一つ分からないが、僕の経験から言うと、案外何とかなるものだ。よくあるのが、普通の人で名前をど忘れてしていても、何となく会話が続くように。

「ところであの後、妹さんと話をしてきたんですけど……。〝嵐の夜〟って何ですか?」

 何か二人の間でキーワードになっていることなのかもしれない。

 口にした瞬間、明らかに表情を変えて、神妙そうな、悲しそうな顔になる。

「俺はさ、死んでいたはずの人間なんだ。今から十一年前の、ある嵐の夜にね」

 それでは、今目の前にいる瑞山先生は何者なのか。

「嵐の夜に、俺は猫を連れて歩いていた。猫が逃げ出した。幼かった俺は猫を追いかけて道路に飛び出して、そこでようやく、トラックが迫っていることに気付いた。無我夢中で道路を渡り終わって、振り返ったその瞬間だった。大きな音がして、トラックと車が衝突してた。

 沢山の人が死んだ交通事故だ。トラックは俺を避けてくれて、代わりに反対車線に突っ込んだ。運転手はハンドルを握ったまま、運転席で死んでた」

 苦しげな表情で、自問自答する。

「嵐の夜に、俺が死ねばよかったのか」

 手元の水を満たした洗面器から手慰みに水を跳ね上げながら、深く頭を垂れる。

 俯いた顔の右半分を長い前髪が隠して、その隙間から彼の蒼白な顔を見た。

 僕はそれに答えることが出来ない。

 ただ言えるのは、それが不可抗力ということだけだ。瑞山先生はまだ幼い子供で、当時それをどうにかする手段も冷静さも持たなかった。

 今そのことを彼女に責められ、罪悪感に苦しんでいる。『嵐の夜に死ねばよかったのに』と。彼が兄ではないと嘘をつくし、いくら喧嘩中でも酷いと彼に同情した。

「妹さんとは、どうして喧嘩になったんですか?」

「これといった思い当たりがないんだけど……。ただ――」

「ただ?」

「多分、彼女は俺が、彼女の顔に傷をつけたことを未だに気にしているのだと思う」

 顔に傷? と一瞬考え込んでしまったが、すぐにあれのことか、と思いあたった。

 左目を覆う白い包帯は、隠すにはあまりにも目立ちすぎる。

「もし彼女に好きな人が出来たとき、その傷のせいで嫌われるかもしれない。お嫁に行けないかもしれない」

 顔に傷があるからといって、僕は彼女がそれで醜いとは思わなかった。

 むしろ彼女の元々の美貌と相俟って、一種の凄みを与えている。

 そこで僕は、彼が彼女に刺されたことを知る。まるで青天の霹靂だった。彼は反撃したのだそうだ。

「俺は彼女の顔に一生消えない傷をつけてしまった。罪を償わなければならない。

 あのときは無我夢中だったんだ。俺にもっと、忍耐力があれば――」

「でも、正当防衛ですよね」

 彼は無言で首を振った。

「可哀想に。出来ることなら代わってあげたい」

「瑞山先生って――」

 本当は、変わった人ですね、と言おうと思ったのだ。だがやめた。

 代わりにこう言った。

「――優しい人ですね。正当防衛で仕方なかったのに、『代わってあげたい』だなんて」

 何か変なことを言っただろうか。彼は何も答えなかった。

「彼女は人間不信なんだ。疑心暗鬼に陥って、素直に人の善意を信じられない。人に良くされても、何か裏があったり、騙していたりするんじゃないかって疑うんだ。

 周りの人は、哲学的なゾンビかもしれない。自分以外の人間には感情がなくて、話しかければ相応しい答えを返す、超高性能なロボットかもしれない。そう思ったことはない?

 彼女の生きてる世界は、簡単に言うとそういうものだ。分かってもらえるかな?」

 僕はロキの孤高の雰囲気を思い出した。

 この考え方に則れば、彼がどんなに彼女に優しくしたところで、表面的なものにしか見えない。性悪説を信じている。

 きっと瑞山先生が何をやっても、彼が悪人に見えるのだろう。だからあんなに風当たりが強いのだ。心を閉ざして生きれば、傷つくことはないがあまりにも寂しい。

 彼は膝に拳を置いて、座ったまま頭を下げた。

「君がよかったら、彼女と仲良くしてあげてほしい。俺からもお願いします」

「いえ。それぐらいなら」

 僕もつられて頭を下げた。

 彼は嘆息する。

「まあ、彼女が言っていることも真っ当だと思う。世界っていうのは曖昧なんだ」

 例えば、と。

「家族が家族である所以は何だと思う? 君は何を根拠に、母親を自分の母親だと確信している?」

「それは名前が……」

「君を騙すつもりで、偽りの名前を名乗っているかもしれない。親子は顔の造作や仕草が似るというけれど、偶々そっくりなのかもしれない。血が繋がっていることを家族の定義とするなら、遺伝子検査をしたところで、データが改ざんされたら? この世に確かなんてことはない。そもそも他人が存在しているかさえ怪しいのに」

「え?」

「なあ、変なこと言ってるって思われるかもしれないけれど、時々思うんだ。

 俺たちに伝わる感覚――光も、音も、触覚も、結局電気信号の入力にすぎないんだよね。じゃあ、それが再現されてしまえば、現実と虚構の区別がつかなくなるわけ。理論上は。

 例えば、夢って味覚があるじゃん。外からは何の入力もないのに、感覚が作られるわけ。つまり自家発電なワケじゃん。不思議だよね。

 今でも怖くなる。俺たちの本性は、電気刺激を与えられ、水槽の中で思案する、裸の脳みそにすぎないんじゃないか? 本当の俺たちは眠っていて、現在進行形で現実のような夢を見ているんじゃないかと、そう思うときがある」

 そこで僕らの話は途切れた。

 瑞山先生は何やら楽しそうに足元の水盆をかき回している。

 鮮やかな絵の具の入った瓶に細筆を突っ込み、左手の指先で筆を小気味よく弾いて、水面に絵の具の滴を落としていく。まっさらな水の上に拡がったそれは、薄まりながら隣の色と混ざり合って、色とりどりの小石のような模様が水面に浮かんでいる。それに櫛に似た、等間隔に針を並べた木片をゆっくりと動かすと、孔雀の羽根のような極彩色の模様が生まれた。

「水や風っていった、自然の力が形作る模様。これは絶対に人間の手では描けないんだ。多分、日生央真にだって描けないだろう」

 日生央真――よくは知らないながら、名前なら知っている。この街の人間なら誰でも名前を知っているような有名人だ。例えるなら、僕は幼い頃、ピカソがどんな代表作を持ち、何がすごいのかは全く分からなかったが、名前は何故か知っていて、世界一の芸術家だと思っていた。美術に限らず、あるジャンルであまりにも偉大になりすぎた人物の名前というのは、その垣根を越えて一人歩きするという現象があるように思う。

 彼も画家である。

 蒼美大――蒼浪美術大学という、路加高校の正面にあって、地元の人にそんな愛称で親しまれる美大の卒業生であり、実は僕の母も同じ蒼美大の絵画科出身だったりする。

 瑞山先生は、きょとん、と僕を見た。

「日生央真、知ってるの?」

「え? はあ……」

「最近の高校生って、知らないのかと思ってた。詳しいんだね」

「あー、母が蒼美大のOGなんです」

「なるほど、美術には親しんでいるわけだな」

 じゃあ○○は? ××は? などと訊ねてくる。

 知らない、と答えると、

「彼らと比べると、日生さんは大分マイナーだよ」

 それに衝撃を受ける。どうして僕は彼のことを知っているのだろう。

「そうなんですか。調べておきます」

 …………

 二階の隅にある美術室は、喧噪からも外れて静かだった。

 穏やかな時間。しばらく瑞山先生が絵を描く様子を眺めていた。人が何かを創造するところを見るのは面白い。

 ふと彼が身体を捻って窓の外を見た。そしてぽつりと呟いた。

「『呪い』、みたいだなあ」

「呪い?」

 つられて見た窓の外には、一面の青空が広がっていた。ポスターカラーで描いたような、元気のいい白い雲も浮かんでいる。

「何も起こらない。退屈だ」

 僕へと振り向く。

「というわけで、面白い話してよ」

「ええっ!?」

 大げさに驚いてしまった。彼の無茶振りに、僕は仕方なく話しだす。

「部屋の掃除をしていたんです」

 本当に記すまでもない出来事なのだが、先日、日課の家の掃除をしていた。

 一階の書斎に入る。家具は配置されているが使われていない部屋で、他の部屋の要らないものが集まって、半ば物置のようになっている。樹脂製の直線的な事務机。本棚に詰め込まれた建築雑誌。白いスチレン板で作られた建物の模型。

 その間を、はたきで埃を取っていく。僕にとっては慣れたものだった。

 そのとき、箪笥にぶつけた拍子に、その上にあった段ボール箱が降ってきて、丸めた背中を直撃した。

「わっ」

 中に入っていた画用紙が、部屋中にばらまかれる。

 色鮮やかなクレヨンで描き殴られた絵。子供の僕が描いたのだろうか。それが数百枚。どうやら母が保存していたようだ。

 足の小指をぶつけ、段ボールが降ってきて、もう踏んだり蹴ったりだ。しかも不気味な絵が部屋に散らばるし、ホラーである。

 僕はそれを拾い上げようとした。

「あだっ……っ……」

 それを目にした瞬間、頭が痛んで僕は踞った。

 全く覚えがない。記憶ではもうちょっと上手に描けていたような気がするが。

 子供の描く絵は怖い。

 赤一色で乱雑に描き殴られた人とか、遠近法のない崩れた形とか。

 狂気を感じる。たとえそれが自分のであっても。

 ――という話をした。

「君は面白くないな」

「すみません」

 恐縮する。

 僕が無駄に恥をかいただけだった。僕的にはホットな面白い話だったのだが……。

 面白いことを言って場を盛り上げるのはどうにも苦手だった。

 この話には続きがある。

 母にこのことを訊いて、絵を見せてみると、母はまず、懐かしい、と言い、子供の頃の僕は、絵を描くのが好きな子供だったのよ、と言った。それは分かる。何百枚と描かれた画用紙の山がそれだ。

 しかし、本当にそうなのかな、と思ってしまう自分がいた。

 別に彼女に反発するつもりはないのだが、それなら今の僕があまりにも絵に興味がないというのも、何だか変な気がするのだ。少しくらい絵が好きであってもおかしくないのに。

 彼女は続ける。将来はあの人みたいになると思っていたのだと。

「――え、君のお父さんって画家なの?」

 その話を聞き終わった瑞山先生は、意外そうに言った。

 確かに彼がそう訊ねるのももっともだ。というか、父親の職業について考えたこともなかった。

「いや、違う、……というか分からないんです。父のことを覚えていなくって」

「失ったものって、本当に見つからないのかな」ぽつり、と言った。

「え?」

「基本的に、人の記憶は産まれてから死ぬまで全て蓄えられているそうだ。それなのにじゃあ何故〝忘れる〟のかというと、消えるというよりも、その記憶が取り出せなくなるからなんだ」

 僕の失われた記憶は僕の頭の中にある、ということ。

「へえ、でも見たいなあ」

 彼は夢見るように言う。

「応用色彩心理学っていってね。色と形は人の心理と密接に結びついているんだ。世間でも、赤は情熱の色とか、青は冷静だとか言うでしょ? 子供は社会的な情報量が少ないから、その影響を受けずに、絵に出てくる心の投影率が高いんだ。子供の絵からストレスを読み取って、少年犯罪を抑制しようとする研究を真剣にやってる人がいるんだ」

「すごい、大学ってそんな勉強もするんですね」

 その後、資料集で元ネタとなった絵を見せてくれた。

 おどろおどろしい絵かと思いきや。何の変哲もない普通の青空の絵だ。

「何だかすごく思わせぶりなタイトルですね」

「そうだよ。芸術というのは命名行為なんだ」

 何故この絵が『呪い』というタイトルなのか。こんな日常の象徴のような、平和で長閑やかな空だというのに。

 ルネ・マグリットという画家の絵だった。

「彼はシュルレアリスムの画家だ。マグリットの絵は狂気に満ちていながらも、非常に詩情溢れる世界観を持っている」

シュルレアリスム、ってよく聞きますけど……結局何なんですか?」

 シュール、という言葉がある。現実離れした感じ、と言うべきだろうか

「一九二〇年代の美術動向で、夢や無意識に着目して、自動記述などの偶然性の高い手法で制作された。『シュル』とは『強度の』という意味の接頭語で、『レアリスム』は『現実的』。日本語だとよく『超現実』なんて訳されるけれど、現実を超えた別物、というよりは、物すごく現実って訳した方がいいかもしれない。――『超可愛い』って言うでしょ? あれだって可愛いとは別物というよりは、すごく可愛いっていうニュアンスだよね。確かにシュールはシュルレアリスムが語源で、日本では現実離れしているっていう意味で使われることが多いけど、実は間違っている。現実と『超現実』との間には諧調の差しかなくて、この二つは連続しているんだ」

 瑞山先生は鞄の中から、細長い紙切れを取り出す。

 鉛筆で白から黒まで段階的に塗られたグラデーション。グレースケールという、デッサンに用いるいわば灰色のものさしで、美大生の瑞山先生が作ったものはさすが、継ぎ目がなく滑らかに色が変化している。

 彼はそれを僕の前に突き出して、

「どこまでが黒でしょう」と言う。

 僕は戸惑って、小さく声を上げてしまった。

 左端は黒、右端は白、真ん中は灰色だというのは分かる。しかしその黒はいつの間に灰色に変わり、そして白になってしまったのか。境界がないのに、隣は確実に色が違うのだ。

「これを色々な人に訊ねたら、きっと同じ答えはない。人によって黒の定義が違うんだね。人間もこれと同じだとは思わないか。

 人によって、ここからここまでは許せるっていうボーダーラインは違うよね。自分にとっては何でもないことが、相手にとっては失礼なことになってたりする。百のうちどこまでが黒で、どこまでが白なのか。その灰色の混ぜ方が致命的なすれ違いの全てで、世の中に起こっている複雑多様な問題もみんな、単純にこれが原因だと思う。それでも君が灰色に境界線を引くなら、どこに引く? 完全な善人なんていなくて、みんなが何らかの罪を犯している。君は誰を許し、誰を許さない?」

 瑞山先生は話をまとめる。

「つまりね、現実と夢、正気と狂気。これらは別物に見えて、その間は連続しているんだ。夢や非日常は、日常の延長線上にある。いつの間にか入ってゆくんだ。深淵は――」すっと下を指差す。「すぐそこにあるんだよ」

 冗談かと思った。僕が笑うので、

「ほんとだよ?」彼も笑った。

 シュルレアリスムの話に戻る。

シュルレアリスムの傾向は主に二つに分けることが出来る。それが『自動記述』と『デペイズマン』。まず自動記述について説明すると、精神科医であり、批評家のアンドレ・ブルトンという人が、うとうとしている、いわば寝ているときと目覚めているときの間の半睡状態のとき、あるイメージが浮かんで、そういう無意識の状態に思い浮かぶアイデアの面白さを、何とか捉えることが出来ないかと思って始めたのが自動記述。筆の走るままに思いついた言葉を書いていって、書くスピードをどんどん早くしていったんだ。で、あっち側の世界に行ってしまったと。これ、やりすぎると精神に異常をきたすらしくって、翼を持ったライオンが見えるなどの幻覚があったそうだ。危険だから実験はやめになった。

 アンリ・ミショーという画家は、メスカリン――いわゆる麻薬を服用して、幻覚を見た状態で絵を描いたよ。

 一方のデペイズマンは、〝異郷の地に送ること〟という意味で、物事を元あった文脈から切り離して別の場所に置くことで、驚きや衝撃をもたらそうとするものだ。例えば、『手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いのように美しい』という言葉は有名だけれど、想像してみると確かに大分シュールな光景だよね」

 資料集の同じページには、彼の他の作品も載っていた。

 顔を白いベールで覆い隠した男女が、どこか不吉な口づけを交わす『恋人たち』。

「どうして顔を布で隠しているのかというとね。マグリットの母親は、彼が幼い頃入水自殺したんだ。そのときに白いネグリジェが絡まって顔を覆い隠していたというよ。思春期という、最も多感な時期にね。傷が癒えないんだ」

 そのショックは計り知れないと思った。

「幼い頃に母親を失くすなんて……僕なら耐えられないと思います」

 窓からの爽やかな田園風景と、その前に置かれた、全く同じ景色が描かれたキャンバス『人間の条件』。

「絵の中に置かれた絵は、絵の中に描かれた現実と見分けがつかない。画中画、作中作。でもどっちも結局、キャンバスに描かれた絵であるからして、本質は全く同一のものだ。本当の世界と、俺たちの感覚を通して見た内面の世界は、俺たちの側からは区別出来ない。それがどんなに歪んでいたとしてもね。マグリットは言った。――人は自分の内面の世界しか見ていない。自分の見たいものしか見ないし、見えないんだよ」

 ところで、マグリットの絵はどれも面白くて飽きない。僕は素直な感想を述べた。

「よっぽど変わった人だったんでしょうね」

 瑞山先生は意外なことを言った。

「いや? マグリットの生涯は、波乱や奇行とは無縁の平凡なものだったそうだよ」

 先生によれば、彼は同世代の芸術家像――例えば恋多きピカソのような――とはかけ離れた暮らしを送った。当時の男性にありふれていた背広と山高帽に身を包み、毎日同じ時間に起床・就寝し、幼馴染の妻とささやかに死ぬまで添い遂げたという。

「彼はシュルレアリスム全盛期の、狂った世界の真ん中で、『正常』であり続けた。

 『巨人の時代』とか、『陵辱』とか、高校の資料集には載せられないような暴力的な作品も、彼は結構描いてる。『光の帝国』――昼と夜が同じ画面上にある絵――が有名だけれど、歪められているんだ。よく『イメージの魔術師』だの、夢だの詩情だの言われてるけど、俺はさ、彼の絵からは結構闇を感じるな」

 夢といえば、と彼は呟いた。

夢日記ってあるじゃん。夢の内容を書き留めていくと、夢と現実との境目がつかなくなって、気が狂うって言われてるやつ」

「やめてくださいよ」

 僕は笑った。本気にはしていないが、怖い話は苦手だ。

「君も夢日記を書くのはやめとけよ」

 ――それにしても、さっきから思っていたのだが、

「もしかして瑞山先生、都市伝説好きですか?」

「そうだね。人間の下世話さが詰まっているからね」

 そう言う割には、面白くてたまらないという感じの口調ではなく、結構投げやりである。

「他にも色々あるよ。真夜中のルーヴル美術館を徘徊する怪人・ベルフェゴール。

 ――そうだ、この街の芸術の神様、日生央真にまつわるゴシップを教えてあげようか。独身のはずの彼にはさ、隠し子がいるっていう話なんだ。記念館にある彼の卒業制作のモデルの女性。それが日生央真の愛人で、子供まで出来ちゃってるんじゃないか」

 この手の話題では定番といえる。スキャンダル性があり、実害がない話。根も葉もない噂にするにはもってこいのようだった。

「これが世の中に漏れ出せば、芸術界は文字通り転覆する。そうは思わない?」

 ふと、瑞山先生の顔を見上げた。彼は何故か、楽しそうだった。

 あなたは芸術界を引っくり返したいのですか? 思わず僕は胸の中で問いかけていた。

 夕暮れの中で微笑んだ瑞山先生を、終刻のチャイムが怒涛のように覆い隠していく――。

 時計を見上げた。十七時半。下校の時間だ。

 時間を忘れてしまうほどに、瑞山先生の話し振りは魅力的だった。随分長いこと話し込んでしまった。

 僕は最後にお礼を言った。

「先生の話、分かりやすかったです。ありがとうございます」

「ほんとー?」

 半信半疑で訊ねる。でも満更でもなさそうだ。

「先生は先生になるんですか?」

「ほへ?」

 手持ち無沙汰にボールペンを弄くり回していた瑞山先生は、間の抜けた声を出した。そしてしばらく考える。

「将来教員になるかってこと?」

 それを言いたかったのだ。彼が教師になるのなら、応援したい。

「うーん、あんまりなる気はないな。教育は危険だ。だって教育ってのは、一人の人間に介入して思い通りに育てることでしょう? 俺はそこまで責任を持てない」

 じゃあ、何故彼は教育実習を受けることにしたのだろう。