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雪花伽

たぬきと添い寝したい。

まやかしの月 上1-4

まやかしの月 創作小説

1-4.One Stormy Night:嵐の夜に

 五月十七日、火曜日。

 ロキと出会ったきっかけは、ちょっとしたものだった。

 翌日の放課後、部活もない僕は、下校しようと階段にさしかかっていた。そのときに言い争いを耳にしたのだ。 

「――ただ、あの日のことを知りたいだけなんだ。兄さんには隠し事をしないで。それは正しいことじゃないよね」

 視線を上へ。見上げた半階上の階段の踊り場に、美しい男女の二人組が立っていた。

 いや、本当は一瞬性別の判断がつかなかった。というのも、二人並ぶと、何故か彼らがよく似た姉妹に見えたのだ。

 一人はセーラー服の長髪の少女――ロキだ。遠くからでもぱっと目を惹くような容姿は、浮き世離れした雰囲気がある。異様なのは、彼女が長い髪の下に白い包帯を巻いていることだった。丁度左目を隠すような位置に。

 ――目を怪我している?

 もう一人は長身で、長い髪をラフにかんざしでまとめた青年だった。一見男勝りな女性のようにも見えなくもない、宝塚の男役のような凛々しい麗人だったが、グレーのパンツスーツという出で立ちと、低い声で判別した。

 彼らは僕に気がつかずに続ける。

「教えてよ。俺は絶対に怒らないよ」

「あなたには関係ないわ」

「友達だったんだろ? 何故麻耶ちゃんは自殺したんだ?」

 一歩踏み出しかけて、止まる。

 それは夕方の学校で話すにはあまりにも重すぎた。

 立ち止まってしまったそのときだった。陳腐なほど陽に照らされた彼らの、三つの瞳が一斉に僕を見た。更に予想外のことが起こる。

「あ。おーい、律人じゃないか!」

 その青年は階下の僕に向かって親しげに手を振り始めたのだ。

 まるで僕を知っているかのようだった。戸惑いを隠せない。何故ならもちろん、僕は彼のことを知らないからだ。

 彼は首から教育実習生の名札を提げていた。『瑞山雫綺』と書かれている。

 そこでようやく、彼こそが東郷の言おうとしていた、美術の実習生だと分かった。

 それよりも、知り合いらしい彼のことを僕が忘れていると知れたら失礼だ。何とかやり過ごそうという気持ちが働く。

「お久しぶりです、瑞山さん」

 今、僕は彼を欺いている。背中には見えない冷や汗をかいていた。

 瑞山先生は僕の内心の危惧をよそに、自然な流れで答える。

「久しぶり。これから二週間お世話になります。大体は美術室に行けば会えるから。ね」

 おっかぶせるように隣の少女に同意を求めるが、彼女は先ほどからばつが悪そうに俯いているだけだった。

 顔を隠す黒髪は、絹のようにさらさらとしている。

 綺麗な子だと思った。にしても、知らない人だ。ここまで端正な容姿の人がいたら、少しくらい記憶に残っていてもおかしくないのに。

「丁度いいとこに通りかかった。ちょっと訊きたいことがあったんだ――」

「来て」

 突如、少女が弾かれたように顔を上げ、乱暴に僕の腕を攫うと、屋上へ向かって駆け上がった。

 突然のことで、足が縺れる。

 それを追って、青年も数歩おもむろに階段を上る。

 無造作に屋上の扉を開き、中へ。遅れて、内側からドアを叩く音がする。

 そこで腕を放り出される。全力疾走したので、二人とも軽く息が上がっていた。

 屋上のはずである場所を見渡す。

 そこはまるでアトリエだった。

 イーゼルに立てかけたキャンバス。パレットや筆を並べた机。天井は青く高い。フェンス越しに三六〇度の展望が見える。

 それにしても、この学校は屋上が立ち入り禁止になっていて、間違っても開くことはないはずだった。少女は出入りしているようだが。鍵が存在することさえ知らなかった。

 軽い感動さえ覚えるが、今はそんな場合ではない。

「ちょっと……」

 恐る恐る話しかけると、少女は振り向き、不機嫌そうに僕を一瞥した。

 その表情さえ絵になる。陽光に照らされた陶磁器の色の白い美貌。繊細な睫毛に縁取られた目ははっきりとしていて、怜悧そうな印象を与える。化粧ではなく元々頬に赤みがある体質のようで、月並みの表現にうんざりするが可愛い。

『ねえ、ここを開けてよ』

 扉越しに、さっきの青年の声。

「煩い! あなたに話すことなんてないわ!」

 少女ははっと顔を上げ、親の仇を見るような表情でドアを睨みつけた。ドアを開けまいと、ドアノブを必死に押さえている。

 何故だろう。怒ったように叫ぶ彼女の目に、微かな怯えの色が見えた。

 ところで、屋上に逃げたのは、彼を閉め出したかのように見えて、実際は僕らが閉じ込められているのにすぎないのだ。扉の外で待ち伏せされたら分が悪い。

 どういう関係なのだろう。でもあの男性が少女にしつこく言い寄っているようなら助けなければならない。女性を助けるのは普通のことだ。

「ちょっと貸して」

 僕は彼女を制して前に出た。扉越しに語りかける。

「あの、よく分からないんですけど、困ってるみたいなので。通報しますよ」

 不審者が現れたら一一〇番通報するのも普通のことだ。路加高校は携帯電話の使用が校則で禁止されているので、はったりだが。

 通報すると言われ、さすがに肝が冷えたのだろう。

『怪しい者じゃない――俺は彼女の兄だ』

「何言ってるの、馬鹿じゃないの?!」

 扉を挟んで、再び彼女が口を開く。

「あなたの妹になった覚えはないわ」

『傷つくよね。いつもこんな感じでさ。喧嘩中で、彼女も結構子供なんだよ』

 僕は少女と扉の方を交互に見た。どちらの言い分が本当なのだろう。どちらも子供っぽいように思える。

「あの、こんなこと言ってもいいのかな……。ちょっといいですか?」

 控えめに口を挟む。先ほどの彼が、彼女を追及する言葉が、少しひっかかっていたのだ。

「妹さんにも、家族に隠しておきたいことがあるんじゃないかな、って思って。お兄さんだからって、訊く権利があるとは思えなくて。だから、えっと……そういう言い方するの、良くないと思います」

『…………』

「――すみません」

 これはまさしく僕が母に望んでいることだったので、僕には少女の気持ちがよく分かった。母に失望されたくないから、永遠の秘密にしておきたい。

 俯きがちに彼の言葉を待つ。

『分かった……。彼女は人嫌いでね。悪く思わないで』

 去っていく足音。しばらくしてから扉を開けて、少し顔を出す。罠ではないみたいだ。特に彼の姿は見えない。気配も感じない。

「お兄さん、行ったみたいだよ」

 振り向いて報告する。

「なんであんな嘘をついたの?」

 そう判断したのは、彼らの顔がそっくりだからだ。親がよほど美男美女同士なのだろうと思える、酷く整った造形。他人の僕から見ても、兄妹にしか見えない。本当に彼女のお兄さんなら悪いことをした。

 背中を向けて返ってきたのは予期せぬ答えだった。

「彼は私の兄じゃないわ」

「え?」

「彼は嘘つきだもの」

 しかし彼らの顔立ちはとてもよく似ていて、家族だと言われればすぐに納得がいく。むしろ何食わぬ顔で言う彼女のほうが、嘘をついているようにも見えた。

 どう反応すればよいか分からない。あまりにも見え透いた嘘をつかれると。どっちの言い分が本当なのだろう。呆れてしまう。僕は一人っ子だから、兄弟のいる感覚が分からない。喧嘩をしていても、何だかんだいって仲がいいように見えるのだが。

 ふと目を逸らしたロキと同じ方向を見ると、淡い夕日の空に鳥が群れをなしている。

 憂いを帯びた横顔が、静かに口を開く。

「兄さんは死ねばよかったのだわ、あの嵐の夜に」

 誰に聞かせるまでもなく、ぼんやりと呟いた。